初めての報酬は、温もりの味がした
「腹が……減った」
新宿の片隅、築四十年のアパートの一室。
俺——元魔王ザルヴァスは、畳の上に大の字になっていた。
昨晩、ブラック企業の怨念『ストレス・レイス』をダイソーのコロコロで見事に退治したが、肝心の報酬を貰い忘れるという痛恨のミスを犯したからだ。
「魔王様、申し訳ございません。私のdポイントも底を突き、現在買えるのはこの『うまい棒(めんたい味)』一本のみにございます」
忠臣アイゼンが、神聖な儀式のように一本の細長い菓子を差し出す。
俺たちはそれを半分に分け、静かに齧った。
「……アイゼンよ、この菓子、恐ろしく美味だな。だが、魔王たるもの、この空腹感に屈するわけにはいかぬ」
その時だ。ボロアパートの扉が、遠慮がちにノックされた。
現れたのは、一人の老婆だった。
「あのう、ここ、『なんでも屋』さんだって聞いたんだけど……。この重い荷物、上の階まで運んでくれないかしら?」
老婆の足元には、パンパンに詰まった買い物袋が二つ。
魔王の嗅覚が、その袋の中から漂う「出汁」と「米」の芳醇な香りをキャッチした。
「……アイゼン、これだ。これこそが我らの求めていた『依頼』というやつだ」
「はっ! お任せください!」
アイゼンがひょいと袋を担ぎ上げ、老婆と共に階段を上がる。
俺は魔王としての威厳を保ちつつ、老婆に問いかけた。
「人間よ。この依頼、引き受けてやる。だが、我が万事屋は安くないぞ。報酬はどうするつもりだ?」
老婆はニコリと笑い、こう言った。
「お礼に、作りすぎちゃった肉じゃがとおにぎり、食べてもらえないかしら?」
「…………契約成立だ」
三十分後。
俺たちの事務所(六畳一間)には、醤油と砂糖の甘い香りが満ちていた。
差し出されたのは、真っ白な米を握った大きな「おにぎり」と、味が染み込んだ「肉じゃが」。
一口食べた瞬間、体中の細胞が歓喜の声を上げた。
かつて魔界で食していたドラゴンの心臓よりも、ずっと腹の底に染み渡る。
「……ふん、悪くない。この『ニクジャガ』という供物、我を称えるに相応しい味だ」
「魔王様、涙が出ておりますぞ」
「黙れアイゼン。これはこの世界の湿度のせいだ」
食後、老婆は満足そうに帰っていった。
手元に残ったのは、現金ではなく「満たされた腹」と、老婆が置いていった一枚の紙——近所のスーパーの特売チラシだった。
「アイゼン。この『おにぎり』の味、忘れるな。これがこの世界の『正当な対価』の一つだ」
「はっ。ですが魔王様、次こそは家賃のために『現金』を要求せねばなりません」
俺はチラシを眺めながら、密かに決意した。
この世界を支配する前に、まずはこの「美味いもの」が溢れる社会を、例の邪悪な気配から守らねばならぬ、と。
「次の依頼を探せ、アイゼン。……次は、デザート付きの案件がいい」
魔王軍の軍資金、現在ゼロ円。
だが、俺たちの心には、初めて「感謝」という名の奇妙な魔力が宿り始めていたのだった。




