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エピソード20

 夕刻家に戻ると、鍵は空いていたのに中には誰もいなかった。普段は母さんがいるのだが、何かの用事で外しているのだろうか。

「ったく、鍵くらいかけてけよな」

 玄関の鍵が開いていたので、てっきり俺はいつも通り母さんがいるものだと思っていた。台所の方を覗いてみると、作りかけの夕飯がそのまま放置されて、火にかけられていたであろう鍋はすっかり冷たくなっていた。使っていた人間がそのまま消えてしまったかのようにキッチンもリビングも片づけることなく放置されていて、薄暗い家の中が妙に不気味に映った。

 冷たい鍋の側面を眺めながら、ふと俺はあの晩のことを思い出した。あの時も、八武崎家のキッチンでは作りかけの夕食が放置されていた。この似たような状況がそうさせるのか、俺はひどく嫌な予感に襲われた。


 ばかばかしい


 何の根拠もないことだ。俺はかぶりを振って2階の自室に上がったが、家に鍵をかけず夕飯を放置して飛び出ていったであろう母親が一向に帰ってくる気配を見せない。時間が過ぎるたび、漠然とした不安は胸中で増していくように思われた。

 窓の外は、夕陽が沈み切った後の名残日によって青く包まれていた。夜への準備期間。この青い世界はすぐに闇の底へ沈んでいく。


 すると突然、家中の静寂を切り裂くように、リビングにある固定電話がけたましく鳴り響き出した。音量はそんなに大きくないはずなのに、俺は一瞬心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。しかしどうしてか、その電話に出るのが躊躇われた。まるで、不吉な知らせがやってくると予めわかっているみたいに。

 俺がのろのろとした足取りで1階に降りても、電話はまだ鳴り続けていた。そこに表示される番号は、どうやら誰かの携帯電話からのものらしかった。進まぬ手で受話器を取る、と。


「どこほっつき歩いてたんだ!! バカ太朗!!!」

 鼓膜の真ん中を突き破るような大声が俺の耳を貫いた。思わず受話器を遠ざけたが、まるでスピーカーで話してるみたいに電話の相手は怒鳴り続けた。

「何回も電話かけたのに!」

「落ち着けよ母さん。別にそう遅い時間じゃないだろう。それより、何かあったのか? 家に鍵がかかってなかったぞ」

 一度俺の声を挟むと、母さんはいくらか落ち着いたみたいだった。しかし口調は慌ててるみたいに早いまま。

「あ、ああ。鍵かけてなかったか。悪いわね。それよりあんた、知ってんの!?」

「は? なにを?」

 だが母さんは一人納得したように話を進める。

「まあ知ってたら呑気にこんな時間まで遊んでないか。優太朗、いいからあんたちょっと早くこっち来なさいよ!」

 まるで要領を得ない。

「おい母さん。頼むから落ち着いてくれよ。まず何が起こって、どこにいるんだよ。どうしてそんなことになってるわけ?」

「じゃあ、単刀直入に言うわね」

 そして、一呼吸置いてからしゃべりだした。

「今日の下校中、凜ちゃんが倒れて通学路の石段から落ちたらしいのよ。それも頭からね。通りがかった人の通報を受けて救急車で運ばれたらしいけど、昏倒から発見まで時間差があったらしくて今も危険な状態らしいわ。今病院の外にいるんだけど、凜ちゃんが運ばれた病院は……って、ちょっと優太朗? きいてる!?」

 受話器を持つ手から力が抜ける。おまけに、全身にもうまく力が入らないような気がした。冷たい汗がどっと噴き出てくる。膝が震え、崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、俺は昼間のやり取りを思い返さずにはいられなかった。


 昼間、俺は凜奈に何て言った?

『大丈夫なんだろう、凜奈』

 俺は凜奈に冷たい眼差しを投げかけながら

『独りで帰れるだろう』

 あいつのことなんかこれっぽっちも思いやらないで

『大事に大事を重ねて取ったお前に付き添うほど、暇じゃないんだ』


 俺は、付き添いが必要なほど衰弱していた凜奈に何て言ったんだ?


『ボランティアは別の人に頼んで下さい。俺には無理です』


 もう、取り返しのつかないことになっていた。

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