エピソード8
陸山の忠告を受けてから、わずか数時間後の出来事だった。
午後8時を回った頃だと思う。夕日も完全に没してしまったその頃に、我が家のチャイムが鳴った。俺はその時宿題をしていたが、チャイムが鳴った瞬間心臓が飛び上るような鼓動を刻み、身体が硬直した。我が家ではインターホンが鳴ったら俺が出なければならない。それはこの家で一番若い俺の労役だが、その由縁はこの家の最も頻繁な訪問者が凜奈だったからだ。だから、俺は嫌でも自分でその客と対面しなけれなならない。
扉を開けてみるとやはり、数日ぶりに眺める幼馴染が立っていた。
「やっほー。なんだか久しぶりな気がするね」
凜奈はそうやって気軽に片手をひらっと振ってみせた。どことなくその声は強張っていて、ともすれば緊張しているような響きさえ感じ取れた。だが、緊張していた度合なら俺の方が上だった。もはや俺は正面から凜奈を直視できなかった。
「あ、ああ……何か用か」
凜奈の爪先辺りを眺めながら話しかける。実際、凜奈とこうやって対話したのは本当に久しぶりな気がした。
「別に用もないけど。入っていい?」
俯いている俺の顔を覗き込んでくる凜奈。黒めがちで大きな瞳。さらりと流れる髪。視界に凜奈の顔が大きく入った瞬間、また例のシーンがフラッシュバックした。凜奈特有の香りが充満するあいつの部屋で、制服を纏った身体が二つ重なっている。上の奴は下の女をがっちりと抱きしめていた。目の前の凜奈と、その時の光景が重なって、俺は今度こそ吐き気に耐えられなくなった。
玄関にいる凜奈も無視して、便所に駆け込んだ。食べた夕食が喉の辺りまでリターンしてくる。夕飯の匂いが舌の奥に感じ取れ、また吐き気がこみあげてくる。洋式の便座に向かって、俺は口から夕飯を吐き出した。実際に出て来た量はほんのわずかだったが、実際に嘔吐してしまったのだ。排泄物よりも明るいゲル状の物体が便器に落ちる。すぐに目を逸らして、水を流してしまう。それからまた何度か嘔吐の波が繰り返しやってくる。
凜奈を玄関に待たせている。それは分かっていたが、実際にあいつのことを想起すると、またあいつを前にすると、あの時のことが同時にフラッシュバックして吐き気に繋がる。俺は凜奈に会うことができなかった。もう、身体があいつに会うことを拒否していた。一度だけ、俺はアダルトビデオの性行為シーンをネットで見たことがある。エロいことに興味を持ち始めた小5ぐらいのときだ。そのときは、裸の女が男の上で喘ぎ声を出してゆっさゆっさしているのが気持ち悪くて気持ち悪くて、半ばトラウマになった。中3となった今でも、俺はアダルトビデオなどというものは気持ち悪くて一度も見ていない。アダムとイブ、伊弉諾と伊邪那美、神代から連綿と受け継がれている人間の根本が、そこに生々しく鎮座している。俺はそんな行為が生理的に気持ち悪くて、目を背けずにはいられないのだ。
しかし、そのトラウマが凜奈と結びつき、やがてあの時男の上で腰を振っていた女が凜奈の顔になる。そうやってまた、最上に気持ち悪い想いが腹の底から込み上げてくる。あの時聴いた気持ち悪い喘ぎ声が、凜奈のものとなって再生される……
また、数滴だが俺の口から夕飯の残骸が滴った。残骸は、ねっとりと糸を引いて白い便器に落ちていく。それを視界に入れるのも気持ち悪くて、すぐにまた水を流す。
すると、水の音に混じってトイレのすぐ外から凜奈の声がきこえてきた。
「優太朗、大丈夫?」
声を聴いた途端、俺の体が強張る。何が簡単には捨てられないだ! 俺は何を葛藤していたんだ!?
「くるな!」
怒鳴る。凜奈の声をこれ以上聞かないように、矢継ぎ早に。
「お前、もう彼氏いるんだろ。だったらもう来るなよ!? 迷惑だ! 彼氏とあんなことしといて、何が! 何が幼馴染だ。どの面下げて俺のベッドに寝転んでたんだよ!?」
すると、外から凜奈の泣きそうな声が聞こえてきた。
「あの時のこと怒ってるの? 優太朗、それなら……」
限界だった。激しい吐き気が波となって襲ってきて、また口の奥まで夕飯がせり上がって来た。
「優太朗、大丈夫!?」
聞き慣れた凜奈の声。それが、ひどく耳にこびりついてきて不快だった。
「凜奈。もう無理だ。友達ごっこを続けるなんて。お前は今まで何で俺と一緒に居たんだ」
考えるような間。2階の奥の部屋では母さんが洗濯物を畳んでいるだろう。ここの喧騒は多分、そこまでは届かない。
「わたしは、考える前に優太朗と一緒に居た。優太朗は、違ったの?」
洋式の便器を目の前に、俺は考える。薄い扉を一つ隔てた幼馴染への気持ち。それは……
「俺は、お前が好きだった。異性として」
息を呑む気配。構わず続ける。
「でも、もう無理なんだ。お前は遼と付き合い始めた。俺はそこから目を逸らしてただけだったんだ。お前は俺のことを異性として好きじゃなかったんだ。その俺がお前と一緒に居た所で、俺はもう苦痛しか感じないんだ」
「それは……」
「もう、全部終わったんだよ。俺はもう、凜奈と一緒に居ても苦しいだけだ。心は痛むし、身体はぶっ壊れる。頼むから、これ以上俺を苦しめないでよ……りんちゃん」
言ってしまった。言ってしまったのだ。俺の初恋の終わり。泣いて笑った子供時代との決別。俺を笑って引っ張り回したやんちゃな凜奈との決裂。やがて、ドアの外ですすり泣くような気配がもれはじめた。押し殺したような、嗚咽。
「わたしも好きだよ……ゆうちゃん」
そうだろう。だけど、そうじゃないんだ。
「分かってる。りんちゃん、今までありがとうな」
言うと、凜奈のすすり泣きが更に大きくなった。扉がどん、と叩かれる。
「ちがうの! そうじゃないの!! わたしもゆうちゃんが好きだから、大きくなったらゆうちゃんと結婚するって、あれは嘘じゃないよ!?」
もう、俺には凜奈の言葉が響いてこない。どんな言葉も、嘘くさくきこえる。男の上で腰を振るAV女優と、あいつと、一体今の俺にとって何が違うというのだろうか。俺が恋をしていたりんちゃんなど、最初から失われていたのだ。
「優太朗、きいてよ! あれは遼君が無理やりやったの!! だから!!」
「凜奈、もういいよ。もう、どうでもいいよ」
それから、外で泣き続ける凜奈に俺が出ることは一切なかった。凜奈が諦めて帰るまで、俺は梃子でも動かなかった。
こうして、子供時代から続く俺と凜奈の恋物語は幕を降ろした。




