第9話 花嫁の荷物に、仕事道具は入らない
その人は、裁縫箱を抱えてやって来た。
蓋の角が丸く擦れた、木の箱だった。
革の持ち手は途中で継ぎ直され、側面には小さな布の花が貼ってある。
「持ってきてしまいました」
娘はマルタさんを見るなり、困ったように笑った。
「家に置いてくるのが、嫌で」
マルタさんは笑わなかった。
「置くなら、ここに置きなさい。道具の場所はいくらでもあるから」
娘は頷いた。
けれど、箱は抱えたままだった。
*
名前はノーラさん。
マルタさんの店で、六年前から針仕事をしているという。
昨日見せてもらった花嫁衣装の、白い花を思い出した。花弁の先へ向かって糸が細く流れ、光の当たり方で咲き方まで変わって見えた。
「素敵な刺繍でした」
「ありがとうございます」
そのときだけ、彼女の顔が少し明るくなった。
「袖は、マルタさんに何度もやり直しを――」
「三度よ。五度みたいな顔をしない」
「四度です。最後の一回は、黙ってほどきました」
マルタさんが、呆れたように息をついた。
「なら、よくやったわね」
ノーラさんは笑った。
その笑顔が消える前に、私は椅子を勧めた。
裁縫箱は、彼女の膝に載った。
「どこからお話しすればいいでしょう」
「昨日、マルタさんから、道具を持っていかないように言われたと伺いました。まず、そのときのことを聞かせていただけますか」
私は紙に、名前と日付を書いた。
ノーラさんは蓋の留め具に触れた。
「嫁入りの荷物を、先に運ぶことになったんです。服と食器と、寝具を少し。それで、この箱も包んでいたら、彼に……それは要らないだろうって」
「彼というのは、婚約者の方ですね」
「はい。トマスです。家具工房で働いています」
彼女は少しだけ顔を上げた。
「悪い人ではないんです」
私はペンを止めずに頷いた。
それを否定するために来てもらったのではない。
「どのように、お話が続きましたか」
「結婚したら、働かなくていいからって。道具を持っていたら、また頼まれ事を断れなくなるだろうって」
ノーラさんは膝の箱を見た。
「家で直し物をするにも使うと言ったら、それなら小さな針箱で足りるだろうって。この大きさは、仕事用だからと」
留め具が、かすかに鳴った。
「仕事用なんです。だから、持っていきたかったんですけど」
*
トマスさんと知り合ったのは、二年前だった。
仕立店の棚を直しに来た彼が、木屑の付いた袖を気にせず、生地に手を伸ばしかけた。
それをノーラさんが止めたのだという。
「ひどく慌てて、何度も手を洗ってきて。まだ汚れていないかって、指を見せるんです」
思い出した彼女の口元が、少し緩んだ。
「そのあと、棚の奥に釘が出ていたのも、全部確かめてくれました。布に引っかかったら危ないからって」
私は続きを待った。
「この持ち手も、彼が直してくれたんです」
裁縫箱が、少しだけこちらへ向けられた。
古い革と新しい革の継ぎ目には、細かな縫い目が並んでいた。
「私が、道具を落としそうになったから」
ノーラさんは、継ぎ目を指でなぞった。
捨てたい物なら、抱えて来なかっただろう。
持っていくなと言った人の手が、その箱に残っていた。
「結婚後のお仕事については、以前にもお話しされましたか」
「彼は、もう苦労させないって、よく言っていました。私は、無理な仕事は減らせるかもしれないねって」
「続けることや、辞めることを、はっきり決めたことは?」
「……ありません」
ノーラさんは肩を落とした。
「私、続けるつもりでいました。彼も、分かっていると思って」
私はそこに短い印をつけた。
二人とも、話した覚えはある。
けれど、同じ話をしたとは限らなかった。
*
「お持ちの書類はありますか」
私が尋ねると、ノーラさんは上着から封筒を出した。
中にあったのは、婚姻の届出に添える取り決めだった。
住む場所。
それぞれが持ち寄る家具や金銭。
家賃と日々の生活費の負担。
その下に、細い字で一行ある。
『妻は婚姻後、外部からの有償の針仕事を請け負わず、家庭の用務に専念する』
私は前後も読んだ。
例外や期間の記載はない。
再び働く場合についても、何も書かれていない。
「こちらは、誰が作ったものでしょう」
「彼のお母様です。親戚の方が結婚したときのものを、書き直したそうです」
「ノーラさんは、署名していませんね」
「昨夜、初めて渡されたので」
彼女の名前を書く欄だけが空いていた。
「式の前に、親族の立会いで署名する予定です。でも、準備があるから、できれば明日までにって」
私はもう一度、あの一行を見た。
「この内容でよいと、お返事は?」
「していません。まだ読めていないと言いました」
「分かりました」
書類を、二人の間に置いた。
「ここに署名すると、外から針仕事を受けないことを、合意した形で残すことになります。今のお気持ちで受け入れられるか、確かめてからにしましょう」
ノーラさんは、空白の署名欄を見つめた。
「結婚したら、普通は辞めるものなんでしょうか」
店の奥で、マルタさんが布を畳む手を止めた。
けれど、口は挟まなかった。
「暮らし方はいろいろあります。ただ、ノーラさんがどうしたいかを聞かずに、ほかの人の取り決めをそのまま使う必要はありません」
「でも、私が仕事を続けたら、彼の稼ぎでは足りないと思われるって」
「トマスさんがおっしゃったのですか」
「昨日、そう言われました」
私は、その言葉も記録した。
彼にも、気にしていることがある。
だからといって、それが自動的にノーラさんの約束になるわけではなかった。
*
「お金が欲しいだけじゃないんです」
ノーラさんが、ぽつりと言った。
「もちろん、お代をいただけるのは嬉しいです。自分で稼いだお金で、母に冬の靴を買えたときは、何度も包みを開けて見せてもらいました」
私は頷いた。
最初に受け取った銀貨の重みを、まだ覚えている。
「でも、この前、お客様が着直したドレスを見せに来てくださって。袖を少し直しただけなのに、腕が動かしやすくなったって」
彼女の指が、箱の蓋から離れた。
「その方、踊るのが好きなんです。痛くなるから途中で座っていたけど、今度は最後まで踊れたって。それで……また何かあったら、私にって」
声が小さくなる。
「結婚したら、もうお受けできませんって言うところを考えたら、嫌だったんです」
「それは、トマスさんには?」
「話そうとしました。でも、これからは好きな刺繍をすればいい、売るために作らなくていいんだって」
彼女は困ったように笑った。
「嬉しくないわけでは、ないんです。そう思ってくれたことは」
私はペンを置いた。
ノーラさんは、二つのことを一度に話そうとしていた。
彼の気持ちを粗末にしたくない。
仕事も、手放したくない。
どちらかを言うと、もう片方を否定したように聞こえる。
だから、どちらも最後まで言えなくなっている。
「今日は、どこまで決めたいですか」
彼女が私を見る。
「婚約を解消する書類が必要だとお考えですか。それとも、まだ決められませんか」
「分かりません」
返事は、すぐに出た。
それから彼女は、自分で驚いたように口を押さえた。
「ごめんなさい。相談に来たのに」
「分からないところからでも、大丈夫です」
私は記録用紙の下に、少し場所を空けた。
「今、分かっていることだけ、並べてみましょう」
*
ノーラさんは、裁縫箱の蓋を開けた。
中には、長さの違う針が布に刺してあり、糸巻きが色ごとに並んでいた。
小さな鋏。
指貫。
折り畳まれた寸法紐。
隅に、片側だけ薄く擦れた木の板がある。
「これは?」
「糸を巻く板です。最初のお給金で買いました」
彼女はそれを取り出した。
「母の古い道具を借りていたので。少しずつ、自分のものを揃えたんです」
買った順番が分かるのだろう。
指が道具の間を迷わず動いた。
その手つきを見て、昨日の私を思い出した。
急ぎの鞄へ、反射的に伸びそうになった手。
自分で選んだ仕事へ向ける手。
似た動きでも、その先にある暮らしは違う。
「道具を、取り上げられるわけではないんです」
ノーラさんが言った。
「ここに置いていけばいいだけで。私のものでは、あるんです」
誰かに言われた説明を、そのまま繰り返しているようだった。
私は、箱の中を見た。
「でも、使いたいときに手元にあってほしいのですね」
彼女は頷いた。
今度は、笑わなかった。
「はい」
私は一つ目を書いた。
『自分の仕事道具を、新しい住まいへ持っていきたい』
「ほかには?」
ノーラさんはしばらく考えた。
「毎日は、難しいかもしれません。暮らしも変わるし。でも、今のお客様のお直しは、続けたいです。マルタさんのお仕事も、忙しいときには」
「時間や件数は、相談できますか」
「はい。それは、二人で決めたいです」
二つ目を書いた。
その下は、まだ空いていた。
ノーラさんが、裁縫箱の蓋を閉めた。
「……彼と暮らすのも、楽しみにしていたんです」
その声を聞いて、私は顔を上げた。
「朝ご飯の机を、作ってくれていて。二人で座れるようにって。窓の近くに置こうって話して」
涙が一粒、木の蓋に落ちた。
「そこに座っている自分が、何も作れなくなっているとは、思わなかったんです」
私は三つ目を書く前に、彼女へ尋ねた。
「その二つを、どちらも望んでいると伝えてみませんか」
ノーラさんは、涙を拭いた。
机の上には、まだ署名のない取り決めがある。
その隣で、私たちが書いた紙には、彼女自身の願いが二行、残っていた。




