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『婚約破棄の書類は、私が書きました。 ~捨てられた代書令嬢は、離縁のお手伝いで幸せにします~』  作者: やまご


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第10話 やめたいのは結婚ですか、それとも我慢ですか

「もし、伝えても駄目だったら」


 ノーラさんは、裁縫箱の留め具を押さえたまま尋ねた。


「そのときは、結婚をやめなければいけませんか」


 私は答える前に、机の上の二枚を見た。


 一枚は、仕事を辞めると書かれた取り決め。

 もう一枚は、彼女が続けたいと願うこと。


「今日、そこまで決める必要はありません。ただ、話がまとまらないまま式の日を迎えないように、返事を待っていただくことは必要です」


「式まで、もう十日しかありません」

「はい」


 近所に配る菓子も、親族の席も、もう用意しているだろう。

 昨日見た花嫁衣装には、仕上げを待つ仮縫い糸が残っていた。


 私が簡単に、延期すればいいと言えることではない。


「返事を待ってほしいと伝えると、何が一番困りますか」

「怒らせると思います」

「トマスさんを?」

「彼も、お母様も。母も心配するし……」


 ノーラさんは指を折りかけ、やめた。


「みんな、喜んでくれているんです」


 私は頷いた。


 その中に、自分を入れるのを忘れてしまうことがある。


「ノーラさんは、今の取り決めに署名して、式の日を楽しみに待てそうですか」


 彼女は答えなかった。


 膝の上の裁縫箱を、両腕で抱き直した。


「……仕事をしてはいけないのだと思うと、彼に会うのも怖くなってしまって」


 私は、机に置かれた取り決めを閉じた。


「今やめたいのは、結婚でしょうか。それとも、望みを言えないまま我慢することでしょうか」


 ノーラさんは長い間、閉じられた紙を見ていた。


「まだ、彼と暮らしたいです」


 小さな声だった。


「でも、このままは嫌です」


 私は三つ目を書いた。


『結婚して一緒に暮らしたい。ただし、仕事を辞めることには同意できない』


 読み返した彼女が、ゆっくり頷いた。


     *


 その日の午後、トマスさん宛てに短い手紙を出した。


 取り決めには、まだ同意できないこと。

 針仕事を続ける暮らしについて、直接話したいこと。

 話合いが済むまで、署名を待ってほしいこと。


 文章は私が整えたが、最後の一文はノーラさんが自分で書いた。


『あなたが作ってくれた机の話も、もう一度したいです』


 翌朝、トマスさんは工房へ行く前に訪ねてきた。


 袖を肘までまくった、肩幅の広い青年だった。

 戸口で靴についた木屑を落とし、上着を払ってから中へ入る。


 その仕草を見て、ノーラさんから聞いた出会いの話を思い出した。


 彼は裁縫箱を見つけると、口を引き結んだ。


「ここへ持ってきていたのか」


 ノーラさんの肩が上がる。


「私が、相談をお願いしたの」

「手紙は読んだ。でも、よその人を間に入れるほどの話か?」


 私は二人へ椅子を勧めた。


「本日は、ノーラさんが取り決めのどこに同意できないかを整理するために、同席しています。私が結婚の可否を決めるわけではありません」


 トマスさんは私を見た。


「俺が悪いと言われに来たわけじゃないんだな」

「お二人のお考えを伺います。合意できない場合、そのまま署名をお勧めすることはできません」


 彼は少しためらい、椅子に腰を下ろした。


 ノーラさんが、昨夜から何度も開いたらしい紙を机に置く。


「私は、仕事を続けたい」


 最初の一言を、私より先に言えた。


     *


「苦労しなくていいと言っているんだ」


 トマスさんは両手を膝へ置いた。


「俺の稼ぎで暮らせるように、計算もした。家賃を払って、薪を買って、冬に少し余分に使っても足りる」


 ノーラさんは頷いた。


「ありがとう。でも――」

「この店が忙しいと、夜まで縫っているだろう。去年も、祭りの前に手を痛めた。忘れたのか?」


「覚えてる」

「だからだよ。家でも仕事を受けたら、また断れなくなる」


 彼女は右手を見た。


 指の付け根を親指で撫で、何かを飲み込むように口を閉じた。


 私は二人の間にある紙へ、視線を落とした。


 断れずに仕事を増やしすぎることと、仕事そのものを続けたいこと。

 話の中で、同じものになっている。


「ノーラさん。去年と同じ働き方を続けたいとお考えですか」


 彼女は首を振った。


「いいえ。あのときは、引き受けすぎました。できると思って、納期を詰めてしまって」


 トマスさんが、ほら、と言いかける。


 私はノーラさんの続きを待った。


「今は、受けられる数をマルタさんに相談しています。急ぎが重なったら、お断りもします。家でも続けるなら、同じように決めたい」


「好きな刺繍をしていればいいじゃないか」


 トマスさんが言った。


「売るためじゃなくて。自分のために」


 ノーラさんは、今度はすぐに答えた。


「お客様のために作るのも、好きなの」


 彼の口が止まる。


「直した服を着て、また来てくださるのが嬉しい。私に頼みたいって言ってもらえると、次はもっときれいに仕上げたいと思う」


「……金のためじゃないなら」

「お金もいただきたい」


 言い切ったあと、彼女の頬が赤くなった。


 それでも、俯かなかった。


「時間をかけて覚えたことだから。使った糸や布も、私が買ったものだから。働いた分は、お代をいただきたい」


 私は、紙を押さえる指に力が入った。


 トマスさんは黙っていた。


     *


「俺の給金じゃ、不安か」


 しばらくして、彼が尋ねた。


 責めるというより、確かめる声だった。


「足りないと思っているのか」


「そうじゃない」


 ノーラさんは首を振った。


「あなたが工房から帰ってきて、難しい継ぎ目がうまくできたって話すでしょう。親方に任せてもらえたって」

「ああ」

「私、聞くのが好き。嬉しそうだから」


 彼女は膝の裁縫箱に手を置いた。


「私にも、その話をさせてほしい」


 トマスさんが、初めて箱をまともに見た。


 自分で継ぎ直した革の持ち手。

 六年かけて揃えた道具の入った、少し大きな箱。


「……仕事を続けたいなんて、知らなかった」

「言ったよ。結婚したあとも、店が忙しい日は手伝いたいって」

「それは、たまに頼まれたらって意味だと」


「私も、伝わっていると思っていた」


 ノーラさんは一度、息をついた。


「だから、今はっきり言ってるの」


     *


 私は新しい紙を出した。


「もし仕事を続ける場合、どんな暮らしになるか、一日の予定で考えてみませんか」


 トマスさんが顔を上げる。


「予定?」

「朝、どなたが何をするか。仕事をする時間がどこにあるか。そのほうが、困る点も見つけやすいと思います」


 二人に聞きながら、朝から夜まで書いていった。


 トマスさんは朝食後、工房へ行く。

 帰りは夕方。ただし、納品前は遅くなる。


 ノーラさんは朝食を作り、洗い物をし、掃除をして、買物へ行く。


 洗濯。水汲み。繕い物。

 夕食の支度。


 書くほどに、彼女の側だけが埋まっていった。


「これが終わってからなら、針仕事はできるだろう」


 トマスさんが言った。


 ノーラさんは紙を見た。


「それだと、縫うのは夜になる」


 彼は答えなかった。


「夜まで働かなくていいように、仕事を辞めてほしいんだよね」

「それは……」


 私は二人が紙を見られるよう、少し向きを変えた。


 トマスさんは水汲みのところへ指を置いた。


「これは、俺もできる」

「うん」

「買物も、帰り道なら」


 ノーラさんが彼を見た。


 けれど、すぐには笑わなかった。


「できる日がある、じゃなくて。どう分けるか、決めたい」


 彼は指を引き、一度、髪をかいた。


「……考えたことがなかった」


 その声は、入ってきたときよりずっと小さかった。


     *


 工房へ行く時刻が近づいていた。


 私は、今日は署名をせず、二人とも考える時間を取ることを提案した。


 トマスさんは頷き、椅子から立った。


 ノーラさんも立ちかけたが、彼が口を開く。


「母さんの取り決めは、俺から待ってくれと言う」


 彼女の手が止まった。


「ノーラが嫌がっているって?」

「いや」


 トマスさんは、机の上の紙を見た。


「二人で決めていなかったことがあるから、と」


 ノーラさんは、ゆっくり頷いた。


 彼は返そうとしていた手紙を、もう一度自分の上着へしまった。


「明日、また話せるか」

「うん。ここでなら」


 トマスさんは戸口へ向かいかけ、振り返った。


「朝ご飯の机なんだけど」


 ノーラさんが顔を上げる。


「窓のそばに置くつもりだったから、お前の椅子は、少し低く作った。足がちゃんと床につくように」


「知ってる。寸法、測ったもの」


「ああ」


 彼は手のひらを見た。


「縫うときも、その高さでいいのか」


 ノーラさんは少し考えた。


「長く座るなら、もう少し高いほうがいい。腕が机に当たらないくらい」


「……そうか」


 彼はそれだけ言って、店を出た。


 私たちは、まだ何も結論を出していなかった。


 取り決めは書き直していない。

 式の日をどうするかも、決まっていない。


 けれど、ノーラさんは裁縫箱を膝から下ろし、椅子の脇へ置いた。


 今日、初めて両手が空いた。


「聞いてくれましたね」


 彼女は戸口を見たまま言った。


「椅子の高さ」


 私は頷いた。


 その小さな問いの答えを、彼が明日どう持ってくるか。


 私たちは、続きを待つことにした。

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