第8話 なくなったのは、あなたの手柄です
伯爵家の書斎で、エドガーは同じ書類を三度読んでいた。
何度読んでも、最後に書かれた追加費用は変わらなかった。
「倉庫を借り続けるだけで、どうしてこんな金が掛かる」
向かいに座る商会の担当者は、膝の上で手を組んだまま答えた。
「これまでの条件で更新するには、回答期限までにお返事が必要でした。ご連絡をいただけなかったため、空いた区画には別の契約が入っております」
「同じ建物だろう」
「同じ区画ではございません。荷車の入れる時間帯も、積み下ろしの人数も変わります」
エドガーは、表の端に書かれた数字を指した。
「この荷役費も?」
「前の区画は、御家の使用人で積み下ろしをなさる条件でした。今回の区画は共用通路を使いますので、商会の作業員を手配いたします」
そんな違いがあるとは聞いていない。
そう言いかけて、机の上の黄色い紙片が目に入った。
リディアが挟んでいたものだった。
更新期限。
回答が遅れた場合の扱い。
相手へ確認すべき項目。
細い字で、三つに分けて書いてある。
彼は紙片を裏返した。
「担当者が急に辞めた。こちらにも事情がある」
「家令様から伺いました。ですので、現時点でご用意できる中では、最も費用の少ない案をお持ちしています」
「もう少し融通が利かないのか。これまでは、もっと円滑だった」
商会の担当者は、一度、家令を見た。
オズワルドは扉の脇に立ったまま、何も言わなかった。
「以前は、期限の十日ほど前に条件の照会をいただいていました。こちらで調整が必要な場合も、間に合ったのです」
エドガーの指が、机の上で止まった。
「照会?」
「はい。荷量が増える月、夜間の搬入が必要な日、御家の使用人を出せる人数。先にまとめていただいていましたので」
担当者は鞄から、一通の控えを取り出した。
「昨年のものです」
書簡の末尾には、エドガーの名前があった。
その少し下、連絡先を記す欄に、小さな字で書かれている。
『実務連絡 リディア・ベル』
「ご担当が変わるのであれば、今後の連絡先を教えていただけますでしょうか」
エドガーは答えなかった。
*
昨日訪ねた代書屋では、もっと簡単に済むと思っていた。
リディアに渡そうとした書類を見せ、同じ形で仕上げてくれと言った。
代書士は少し読んでから、納品の予定表と、商会からの回答を求めた。
どこにあるのか、エドガーには分からなかった。
彼女なら知っている。
そう言いそうになって、やめた。
結局、代書士ができると言ったのは、手元にある文章の清書だけだった。契約内容の確認や、相手との調整は、資料を揃えてから別に頼む必要があるという。
しかも、有料だった。
書類一枚の値段を聞いたつもりが、仕事を幾つにも分けて説明され、面倒になって店を出た。
「この条件で進めるかどうか、本日中にお返事をお願いいたします」
商会の担当者の声で、エドガーは顔を上げた。
「また期限か」
「次の借り手を、いつまでもお待たせすることはできませんので」
穏やかな口調だった。
怒っても、困ってもいない。
以前なら、こういう返事が来る前に、何かが片づいていた。
エドガーは窓辺を見た。
リディアが使っていた小さな机には、何も載っていなかった。
*
昼過ぎに戻った伯爵は、旅装を解く前に、追加費用の書類へ目を通した。
エドガーは、担当者が辞めたために起きた混乱だと説明した。
父は最後まで聞き、オズワルドを呼んだ。
「引継ぎはなかったのか」
「ございました。期限を記した目録と、原本一式をお預かりしています」
家令が差し出した三枚の紙を、伯爵は順に読んだ。
婚約解消。
代書業務の終了。
書類と鍵の引渡し。
それぞれに、息子の署名があった。
「お前が認めたのだな」
「婚約の件は、先にお話ししたとおりです」
「仕事を終えることもだ」
エドガーは、唇を引き結んだ。
「清書のできる者くらい、すぐ見つかると思っていました」
伯爵が、ゆっくりと顔を上げた。
「清書だけだったのか」
机の上には、商会が置いていった昨年の書簡もあった。
その横に、オズワルドが運んできた業務目録が置かれる。
発送日を記した控え。
返事を待っている案件。
請求額と納品数の食い違い。
署名前に確認するよう、細い紙を挟んだ契約書。
伯爵は何枚かめくってから、息子を見た。
「先月、商会との条件を見直したと報告したな」
「はい」
「この照会を書いたのは?」
リディアの筆跡だった。
「……彼女です。私が確認しました」
「何を確認した」
エドガーは紙を引き寄せた。
見覚えはある。
説明も受けたはずだった。
けれど、父が指している数字が、何と何を比べたものなのか、すぐには答えられなかった。
伯爵は返事を待った。
やがて、紙を手元へ戻した。
「倉庫の件は、今ある条件で損失を抑える。オズワルド、実務の分かる書記を手配してくれ」
「承知いたしました」
「当面、契約への署名は私を通すように」
「父上、そこまでする必要は――」
「内容を説明できない者に、任せておくことはできん」
伯爵は、空になった窓辺の机を見た。
「リディアが辞めたから、お前の仕事ができなくなったのではない」
エドガーは顔を上げた。
「誰が仕事をしていたのか、分かるようになっただけだ」
*
そのころ私は、仕立店の机で、公爵家の契約を読んでいた。
貸付額の数字を追っていたところで、入口の鈴が鳴る。
顔を上げると、見覚えのある男性が立っていた。
「ベル様でいらっしゃいますか」
伯爵家に出入りしていた、商会の担当者だった。
私は書類を閉じた。
「はい。ご無沙汰しております」
「こちらでお仕事を始められたと、家令様に伺いました。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
椅子を勧めながら、少し身構えた。
倉庫の件だろうか。
私からも説明してほしいという話かもしれない。
けれど、彼が鞄から取り出したのは、薄い見本帳だった。
「御家との契約の件ではありません。当商会から、別のお仕事のご相談です」
開かれた頁には、品物の受渡しに使う伝票があった。
文字が小さく、金額を書く欄の隣に、品数を書く欄がある。
「こちらを見直したいのです。記入する場所を取り違える者が多くて。以前、御家からいただいた納品確認の表が分かりやすかったので」
「あの表ですか」
毎月、届いた品と請求書を突き合わせるために作ったものだった。
品名を左端へ。
注文数と納品数を隣り合わせに。
足りないものは、次に届く日を記す。
何度も商会へ問い合わせるうち、同じ形でやり取りしたほうが早いと考えたのだ。
「ベル様が作られたと伺いました」
「はい。ただ、伯爵家で使用していたものを、そのままお渡しすることはできません」
「もちろんです。当商会で使う項目をお伝えしますので、新しく作っていただければ」
私は見本帳を手元へ寄せた。
書く場所を変えるだけでは、足りないかもしれない。
配達する人と受け取る人、どちらが何を確かめるのかも聞いておきたい。
「今は先にお受けした仕事があります。すぐには着手できませんが」
「急ぎではありません。まず、お見積もりをお願いできますか」
私は予定帳を開いた。
空いている日を探し、相談の日時を書き込む。
担当者は立ち上がると、帰り際に窓の貼り紙を見た。
「ここを教えていただけて助かりました。これからは、直接ご相談できますね」
私は頷いた。
「はい。お待ちしております」
*
「また仕事?」
お客様が帰ると、マルタさんが声を掛けた。
「まだ、お見積もりのご相談です」
「そう。じゃあ、受けられるといいわね」
私は見本帳の表紙に、借りた日と返す日を挟んだ。
受けられるといい。
その言葉を、自分でも繰り返してみる。
以前は、終わらせなければと思っていた。
机に書類が増えるたびに、今夜は何時まで掛かるだろうと数えていた。
今も、難しい仕事は怖い。
期待に応えられなかったらと思う。
それでも、新しい帳面を開くのが、少し楽しみだった。
夕方、店じまいの前に、マルタさんが大きな包みを持ってきた。
包みから出てきたのは、刺繍の入った花嫁衣装だった。
袖に、小さな白い花が連なっている。
「きれいですね」
「うちの若い縫い子の仕事。自分の嫁入り用に縫ったのよ」
私は花の一つに目を寄せた。
花弁の先まで、丁寧に糸の向きが揃っていた。
「明日、その子の話を聞いてやってくれる?」
顔を上げる。
マルタさんは衣装を畳まず、膝の上に置いたままだった。
「式まで、あと十日なんだけどね」
声が少し沈む。
「嫁入りの荷物に、裁縫箱を入れるなと言われたそうなの」




