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『婚約破棄の書類は、私が書きました。 ~捨てられた代書令嬢は、離縁のお手伝いで幸せにします~』  作者: やまご


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第7話 戻ってこい、とはご依頼ですか

「依頼?」


 エドガー様は、聞き慣れない言葉でも耳にしたような顔をした。


「何を言っている。うちの書類だぞ」


 革の鞄が、机に置かれそうになる。


 私は先に、公爵様から預かった写しを閉じた。紐で綴じ、窓の下の棚へしまう。


「そちらには置かず、お持ちのままでお願いします」

「急いでいるんだ」

「お仕事として承れるかどうか、まだ決まっておりませんので」


 エドガー様は、持ち上げた鞄を宙で止めた。


 それから、私の向かいの椅子へ乱暴に置いた。


「君が途中までやっていた契約書だ。続きを書くだけでいい」


 手が、動きそうになった。


 鞄を開けて、期限を確かめて、必要な紙を並べる。

 三年間、毎日のように繰り返してきたことだった。


 私は机の縁に、指先を揃えた。


「引継ぎの目録は、ご覧になりましたか」

「見たさ。だが、あんなものを渡されたところで分からない」

「後任の方へお渡しいただければ、進捗は確認できます」

「後任が決まるまで待てというのか? 先方は待ってくれないんだぞ」


 エドガー様の上着には、肩のところに細い皺が寄っていた。


 いつもなら従者に直させてから外へ出る人なのに。


 私は、その皺から目を離した。


「ですから、急ぎのご依頼ということでしょうか」


     *


 彼は、窓の下の料金表を見つけた。


 しばらく眺めてから、鼻で笑った。


「こんなことを始めたのか」

「はい」

「書類に字を書くだけで、金を取るとはな」


 父のペンが、机の上にある。


 私はその軸についた古い傷を見た。


「こちらが、私の仕事です」

「今まで同じことをしていたじゃないか」

「今までは、婚約に付随する契約で、無報酬でお引き受けしていました。その契約は終了しています」


「だから、その話はもういい」


 エドガー様は鞄を開き、紙の束を引き出した。


 上の一枚に、私の字が見えた。


 倉庫の更新契約。

 端に挟んだ、黄色い紙片もそのままだった。


 期限の近いものにつけていた印だ。


「これだ。昨日から商会の人間が、何度も使いを寄越してくる。君が仕上げておけば済んだことなのに」


 日付を確かめなくても、何の書類か分かった。


 私が屋敷を出た翌日に、更新の回答期限を迎えたものだった。


「そちらは、退去の日に期限をご説明しました。オズワルドさんにも確認していただいています」

「君はいつも、期限が近ければ先に済ませていただろう」

「はい。仕事をしていた間は」


 彼の眉が寄った。


 私は、彼の言葉の中に少し前の自分を見つけていた。


 期限が来る。

 誰かが困る。

 だから、私がやる。


 休みでも、熱があっても、約束を取りやめても。


 机の上の予定帳には、『昼休み』と書いてある。


 私はそれを閉じなかった。


「内容を正式に確認する場合は、有料になります。ただし、本日中の仕上げはお約束できません。すでにお受けしている仕事があります」


「何の仕事だ」

「ほかのお客様からのご依頼です」

「誰だと聞いている」

「お答えできません」


 エドガー様は棚のほうを見た。


 私は椅子を少し引き、彼と棚の間へ立った。


「お預かりした書類には、触れないでください」


 今度は、はっきり言えた。


     *


「私より、その客を優先するというのか」


 声が低くなった。


 以前なら、それだけで次に何を言われるか考えた。機嫌を損ねない返事を探した。


 今も、胸の奥が縮むような感じはする。


 けれど、答えはもう決まっていた。


「先にお約束したお仕事があります」

「三年も面倒を見てやったのに」

「三年間、私もお仕事をしていました」


 彼が口を閉じた。


 奥で動いていたミシンの足踏みが止まる。


 マルタさんがこちらを見ているのが分かったけれど、私は振り返らなかった。


「寝る場所も、食事も用意してやっただろう」

「はい。その条件で代書を引き受けました。お互いに確認した契約です」


「契約、契約と。それしか言えないのか」


 エドガー様は、手にしていた紙を丸めかけた。


 自分で気づいたのか、慌てて伸ばす。


 紙の上に残った皺を見て、口元が歪んだ。


「……分かった。屋敷へ戻ってこい。仕事部屋はそのままにしてある」


 私は瞬きをした。


「戻る、とは」

「ここでは落ち着いて書けないだろう。部屋も使っていい。食事だって出させる」


 彼はようやく話が進んだという顔をした。


「クラリスにも説明しておく。余計な誤解を招かなければ、問題にはしないはずだ」


 私の住む場所。

 私の仕事。

 新しい婚約者が、それを許すかどうか。


 彼の中では、もう順番が決まっているらしかった。


「それは、代書の仕事を継続して依頼する、というお申し出ですか」

「ああ。だから戻ってくればいい」


「報酬と、勤務の時間は」

「食事も部屋もあると言っただろう」


 私は頷いた。


 聞き間違いではなかった。


「お断りします」


 言ったあと、店の中がとても静かになった。


 エドガー様の視線が、私の顔に留まる。


「……何だって?」

「屋敷には戻りません」


「こんな机一つで、いつまで食べていけると思っているんだ」


 痛いところだった。


 まだ、分からない。


 家賃を払い続けられるか。

 次の依頼が来るか。

 母に心配をかけずに暮らせるか。


 昨夜も、お金を数えた。


 私は机の傷に指を置いた。誰かが針でつけたような、小さな穴が三つ並んでいる。


「それは、これから確かめます」


 自分でも、頼りない返事だと思った。


 けれど、嘘をつくよりはよかった。


「戻れば、また以前と同じ働き方になります。私は、それを続けるつもりはありません」


「君がそこまで意地を張るとは思わなかった」


 彼は紙を鞄に押し込んだ。


「結局、婚約を解消された腹いせか」


 私は返事を急がなかった。


 腹が立っていないと言えば、嘘になる。

 悲しくなかったと言っても、嘘だ。


 でも、あの屋敷へ戻りたくない理由は、それだけではなかった。


「こちらで、お客様からお金をいただきました」


 エドガー様が怪訝な顔をする。


「仕事の内容を相談して、費用を決めて、お引き受けしました。できないことは、できないとお伝えしています」

「それがどうした」

「その形で、続けていきたいんです」


 彼には、伝わらなかったようだった。


 私の小さな机を、もう一度見回す。


「好きにしろ。ほかの代書屋に頼む」

「はい」


 その返事にも、彼は苛立った顔をした。


 呼び止めるのを待っていたのかもしれない。


 私は何も言わなかった。


「戻りたくなっても、すぐには戻れないぞ」


 鞄の留め具が、強く鳴った。


 エドガー様が出ていくと、入口の鈴はしばらく揺れていた。


     *


 足音が聞こえなくなってから、私は椅子に座った。


 膝に力が入らなかった。


 奥からマルタさんが来て、何も言わずに水を置いた。


 両手でカップを持つと、指が少し震えている。


「断るのって、疲れますね」

「慣れてない相手なら、なおさらね」


 マルタさんは、空いた丸椅子へ腰を下ろした。


「本当に困っているのかもしれません」


 思わず、そう言った。


 黄色い紙片。

 皺になった契約書。

 肩の整っていない上着。


 見たものが、頭から離れない。


「でしょうね」

「私がやれば、早かったと思います」


 マルタさんは否定しなかった。


 それが、ありがたかった。


「じゃあ、あんたが引き受けたら、今度は誰が困るの」

「……先にお約束した、お客様です」

「それだけ?」


 私は予定帳を見た。


 昼休みの時刻は、もう半分ほど過ぎていた。


「私も、です」

「なら、その人数も数えなさい」


 マルタさんは立ち上がった。


「パンを温め直すわよ。あんたが仕事へ戻る前に、食べさせないと」


     *


 夕方、使いの少年が封筒を届けに来た。


 伯爵家の紋章を見て、一瞬、手が止まる。


 けれど、裏にあったのはオズワルドさんの名前だった。


 中には短い手紙が入っていた。


 エドガー様が訪ねたことへのお詫び。

 引継ぎ目録と、受け渡した書類は保管していること。


 そして、最後に一行。


『お持ち出しの記録について確認をお願いする場合は、まず書面でご連絡いたします』


 私は二度、読んだ。


 戻ってきてほしいとは、書いていない。

 ついでに片づけてほしいとも、書いていない。


 手紙を自分の記録綴りへ挟んだ。


 ちょうどそのとき、封筒から、もう一枚の小さな紙が滑り落ちた。


 正式な用件とは別に、家令が書き添えたものらしかった。


『本日、商会の担当者がお見えになりました。更新書類を以前どなたが整えていたのか、お尋ねでしたので、事実のとおりお答えしております』


 私はその字を、しばらく見つめた。


 伯爵家で作った書類の末尾には、いつもエドガー様の名前が入っていた。


 私の名前を書く場所は、なかった。


 手元の紙を折り直す。


 今日、私がいなかった部屋で、誰かがその名前を口にしたのだ。

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