第6話 お茶代は別料金です
公爵様が帰ったあと、私は料金表を裏返した。
手紙の代筆。
申請書の作成。
契約書の確認。
今朝は十分だと思った三つの項目が、急に頼りなく見える。
「難しい顔してるわね」
奥から戻ってきたマルタさんが、私の肩越しに紙を覗いた。
「仕事の値段を決めたことがなくて」
「さっきのお客?」
「はい。調べなければならないことが多いので、いつもの確認料では」
「足りない?」
「たぶん。でも、どのくらい掛かるかも分からなくて」
マルタさんは、縫いかけの袖を机に置いた。
「私は直しを頼まれたら、まず裏を見るわよ。外からきれいでも、縫い代が足りないことがあるから」
「縫い代」
「最初から全部の値段を決められないときは、ほどいて調べるところまでで、いくら。それで直せそうなら、次はいくらって相談するの」
私は裏返した料金表の余白に、線を引いた。
まず、今ある書類を読む。
不足を確かめる。
誰に何を聞く必要があるか、整理する。
その先の調査や書類作成は、もう一度相談する。
「……分ければいいんですね」
「できるところまでを、ちゃんと売ればいいのよ」
私は頷き、書き始めた。
だが、金額のところで、またペンが止まった。
「高いと思われたら」
「安くして、続けられなくなったら?」
マルタさんが聞き返す。
私は昨日受け取った銀貨一枚を思い出した。
一枚だけでは、この机の一週間分の家賃にも足りない。
「紙もインクも、使ったら減るでしょう。あんたのお腹も空くんだから」
ちょうどそのとき、お腹が鳴った。
マルタさんは笑わず、奥を指した。
「その証拠に、煮込みが冷めるわよ」
*
翌朝、公爵様は約束の時刻に現れた。
片手には昨夜の書類筒。もう片方には、薄い封筒を持っている。
「不足していた別紙は、領地の文書庫にある可能性が高いそうだ。取り寄せを頼んだ」
「ありがとうございます」
「ただ、原本そのものは王都の屋敷では確認できなかった。十年前の書類は、保管場所が幾つかに分かれている」
私は受け取った封筒を開いた。
中には、家の書記がまとめた一覧がある。
誰が写しを作ったか。何を参照したか。どの保管先へ問い合わせたか。
昨日お願いした項目が、順番に並んでいた。
「こちらを整理していただけると、助かります」
「同じものを二度探すのは、無駄だろう」
「ええ」
そう答えてから、私は机の上に用意していた紙を差し出した。
「本日は、先に費用とお仕事の範囲をご確認ください」
公爵様は椅子に座った。
昨日より少し手前へ引いておいたので、今日は膝が机に当たらなかった。
「最初にお引き受けするのは、現在ある書類の確認と、不足資料の整理です。分かったことと、まだ分からないことを文書にまとめます」
「三日間」
「必要な書類が揃ったところから、作業日で三日を目安にしています。取り寄せを待つ時間は含めません」
「費用は銀貨六枚か」
私は頷いた。
家賃、紙代、インク代。
ほかの依頼を受けられなくなる時間。
何度も計算し直して決めた金額だった。
「追加の聞き取りや、役所での照会が必要になった場合は、別にお見積もりを出します。承諾をいただく前に、有料の調査は進めません」
公爵様は紙を読んでいた。
長かった。
昨夜の私は、一枚に収めれば読みやすいだろうと思った。
今は、その一枚を読み終えるまでが、ひどく長く感じる。
「ここは?」
彼の指が、下の行で止まった。
『結果にかかわらず、実施した作業の費用を申し受けます』
「婚約の解消に至らなくても、書類の調査料はいただく、という意味です」
言い終えてから、付け足したくなった。
ただし、お気に召さなければ。
ただし、お役に立てなければ。
私は口を閉じた。
公爵様はもう一度その行を読み、頷いた。
「分かった。結論を買うわけではないからな」
張っていた肩が、少し下がった。
「それから、期限があります」
私は顔を上げた。
「来月十二日に、両家で式の日取りを決める予定だ。それまでに、継続するかどうかを伝えたい」
「承知しました。ただ、書類の到着が遅れた場合には――」
「その時点で分かっていることを教えてくれ。分からないものを、分かったことにはしなくていい」
私は予定日を書き込んだ。
彼がその筆先を見ながら、尋ねた。
「君は、いつ休む?」
「え?」
「三日間というのは、休まず三日という意味ではないだろう。次に来る日時を決めたい」
私は手元の予定帳を開いた。
昨日まで、休みの日を書く必要はなかった。
伯爵家では、急ぎの仕事がなくなった日が休みだった。そんな日は、ほとんどなかったけれど。
「……日曜は、お休みにしようと思っています」
「では、それを避けよう」
公爵様は、何でもないことのように言った。
私は日曜の欄に、小さく『休業』と書いた。
*
条件を読み合わせ、二人で署名した。
公爵様は財布を出し、銀貨を六枚並べた。
「お支払いは、着手時に半分です。残りは報告書をお渡しするときに」
「そうだったな」
彼は三枚を財布へ戻した。
全部渡すと言い張らなかったことが、少し嬉しかった。
私は受取証を作り、彼に渡す。
そのあとで、机の端に置いていた水差しを見た。
今日は、まだ何もお出ししていない。
「お茶をお淹れしましょうか」
「頼めるだろうか」
私は立ち上がりかけて、止まった。
昨日、マルタさんに言われたことが頭に浮かぶ。
紙もインクも、使えば減る。
お茶の葉だって、同じだ。
「お茶代は、別料金です」
公爵様が顔を上げた。
言ってから、あまりにも唐突だったと気づいた。
「いえ、その、こちらのお茶は店主のものですので。私が勝手にお出しするわけには――」
「いくらだろう」
真面目な顔で聞かれた。
考えていなかった。
私は奥の扉を見た。
ちょうど開いた扉から、マルタさんが顔を出した。
「銅貨二枚。焼き菓子はつかないわよ」
「では、それで」
公爵様は財布から銅貨を二枚出し、机に置いた。
マルタさんが奥へ引っ込む。
私は、なぜか見積書の角を揃え直した。
「失礼いたしました」
「料金は、先に分かるほうがいい」
彼の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのだと分かるまでに、間があった。
「お茶には署名が要るだろうか」
「……口頭で結構です」
今度は、私も笑ってしまった。
*
お茶が来るまでに、次の調査を整理した。
家の財産に関する記録は、公爵様側で集める。
私は、その書類のつながりを確かめる。
役所への照会が必要なら、内容と費用を先に相談する。
セシル様については、紹介の手紙を送ったところだという。
「返事を待っている。君に相談するかどうかは、本人が決めると伝えた」
「ありがとうございます。お越しになる場合も、閣下への報告の範囲は、最初に確認させていただきます」
「彼女が君に話したことを、すべて私へ伝えるわけではない、ということか」
「はい」
私は頷いた。
「お二人の希望が違えば、私一人で、双方のための書類を作れないこともあります。その場合は別の代書士をご紹介するなど、進め方を変えます」
公爵様は少し考えた。
「分かった。まずは契約の確認を頼む」
話しているうちに、頼まれた仕事の輪郭が見えてきた。
公爵家の問題を、すべて私が背負うわけではない。
私が読む。
彼が調べる。
足りなければ、誰に頼るかを考える。
机の上に並んだ書類が、昨夜よりも少し軽く見えた。
運ばれてきたお茶を、公爵様はすぐには飲まなかった。
湯気を見て、カップに触れて、それから手を離す。
「お熱いですか」
「少し」
「冷めるまで、どうぞ」
私は写しの一枚を手前へ寄せた。
彼はお茶を冷ましながら、静かに待っていた。
*
公爵様が帰ったあと、机には三枚の銀貨と、二人で決めた予定が残った。
私は銀貨を家賃用の袋へ移し、依頼の記録を綴じる。
その表に、初めて依頼番号を書いた。
二番。
まだ、たった二件だ。
でも、昨日は一件だった。
「いいお客じゃない」
カップを下げに来たマルタさんが言った。
「大変なお仕事になりそうです」
「仕事が難しいのと、客が難しいのは別よ」
私は空になったカップを見た。
「……そうですね」
昼過ぎまで、契約の写しを読んだ。
分かる箇所には印をつけ、別紙が必要なところには細い紙を挟む。調査の進み具合を記録して、いったん手を止めた。
お腹が空いている。
私は予定帳に『昼休み』と書いた。
席を立ったところで、入口の鈴が鳴った。
「ようやく見つけた」
その声を聞いた瞬間、手が止まった。
エドガー様が、戸口に立っていた。
腕には、見覚えのある革の書類鞄を抱えている。
伯爵家で私が毎朝受け取っていたものだった。
彼は店内を見回し、私の小さな机に目を留めた。
「こんなところにいたのか。ちょうどいい。急ぎの書類がある」
私は、開いたままの予定帳を見た。
そこには、私が決めた予定が書いてある。
顔を上げ、机の向こうに立つ元婚約者へ尋ねた。
「本日は、お仕事のご依頼でしょうか」




