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『婚約破棄の書類は、私が書きました。 ~捨てられた代書令嬢は、離縁のお手伝いで幸せにします~』  作者: やまご


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第5話 公爵様にも、断れない縁談があるそうです

青年は、椅子にすぐには座らなかった。


 私の机を見て、窓の貼り紙を見て、それから店の奥へ目を向ける。


「ここで話したことは、どこまで外に出る?」


 声は低かったが、威圧するような響きはなかった。


「お客様の許可なく、相談内容をほかの方に伝えることはありません。ただ、こちらは仕立屋さんの一角ですので」


 私は衝立を示した。


「完全に声が漏れない場所ではありません。別の場所が必要でしたら――」

「奥へ行くわよ」


 マルタさんが、縫いかけの袖を持ち上げた。


「ちょうど夕飯の支度もあるし。リディア、終わったら呼んで」

「ありがとうございます」

「その人の分は、まだ作らないからね」


 奥の扉が閉まる。


 青年は扉を一度見てから、私に視線を戻した。


「名前を先に伝えたい」


 私は頷き、相談記録の紙を出した。


「レオン・アーヴェルだ」


 ペン先が止まった。


 アーヴェル。


 伯爵家で、何度も書いた名前だった。

 王国北部に広い領地を持つ公爵家。その当主は、昨冬に亡くなった兄に代わって弟が継いだと聞いている。


 目の前の青年を、もう一度見た。


 派手な宝石はない。

 従者も連れていない。


 それでも、上着の仕立てのよさと、裾まで丁寧に手入れされた靴は、近くで見れば分かった。


「アーヴェル公爵閣下、でいらっしゃいますか」

「そうだ」


 彼は内ポケットから小さな革入れを出した。


 爵位と名を記した身分証。

 青銀の認証印。

 その隣に置かれた印章指輪には、見覚えのある紋章が刻まれていた。


 私は椅子から立ち上がった。


 同時に、彼の眉がわずかに寄る。


「立たせるために名乗ったわけではない」

「失礼いたしました」

「謝らせるためでもない」


 返事に困った。


 彼も少し困ったように、手元の指輪を革入れに戻した。


「……座って、話を聞いてもらえるだろうか」


 私は腰を下ろした。


 公爵様も、ようやく丸椅子に座った。


 膝が机の裏に当たり、小さな音がした。


「申し訳ありません。少し狭くて」

「椅子があるだけで十分だ」


 その言い方が妙に真剣だったので、私は慌てて机の下の荷物を除けた。


     *


「今日、向かいのパン屋の件を扱ったのは、君か」


「はい。ただ、ご本人の相談内容については、お話しできません」

「聞き出すつもりはない。役所へ出向く途中、この店から男が怒鳴りながら出てくるのを見た。そのあと、パン屋の主人が店を開け直していたので、少し話をした」


 ハンナさんだ。


「本人が、助けてもらったと言っていた」


 私は記録用紙の角を揃えた。


 そんなふうに、誰かに話してくれたのだ。


「私ができたのは、書類の確認と、手続きのお手伝いです」

「それを頼みたい」


 公爵様は書類筒を机に置いた。


 指先が、留め具の上で一度止まる。


「婚約を解消したい」


 私は顔を上げた。


 彼の表情は変わらなかった。


 けれど、手袋を外した手が、筒を強く握っていた。


「お相手は、ご存じでしょうか」

「まだ、正式には伝えていない」

「では、今日は閣下のご事情を伺い、書類を確認するところまでになります。お相手の意思を確かめずに、双方の合意書を作ることはできません」

「分かっている」


 短い返事のあと、沈黙があった。


 私は続きを促さずに待った。


 公爵様は留め具を外し、二通の書類を取り出した。


「相手は、兄の婚約者だった人だ」


     *


 一通目は、婚約の届出控えだった。


 レオン・アーヴェル。

 セシル・オルデン。


 二人の名前がある。


 日付は、兄君が亡くなったあとのものだった。


「兄上の婚約が、そのまま閣下に移ったということではないのですね」

「ああ。改めて署名した。私も、彼女も」


 私は下の署名欄を確かめた。


 整った女性の字の隣に、少し右へ傾いた力強い字がある。


「なぜ、ご署名を?」

「必要だと、説明を受けた」


 公爵様は、二通目を開いた。


 こちらは古い書類だった。


 角が擦れ、複数の頁が紐で綴じられている。表題には、アーヴェル家とオルデン家の財産に関する取り決めとあった。


「十年前、領地の水害で、アーヴェル家は多額の援助を受けた。堤と水門を造り直すための資金だ。その際に、両家の婚姻と財産をまとめた契約を結んでいる」


 私は頁をめくった。


 貸付。

 水門の維持費。

 穀倉の使用権。

 両家の婚姻。


 違う種類の約束が、一つの書類の中に並んでいた。


「兄が亡くなったあと、婚姻の約束が果たされなければ、残る資金の返済を一括で求められると聞いた。すぐに返せば、冬を越すための支出を削ることになる」


「それで、ご自身が結婚すればよいと」

「そうだ」


 公爵様は、机の上に置いた自分の手を見た。


「継いだものを守るのが、私の役目だと思った」


 声に、後悔を大きく見せようとするところはなかった。


 だからこそ、私は次の問いを慎重に選んだ。


「今、解消をお考えになったのは、何か事情が変わったからですか」


 彼はすぐには答えなかった。


 窓の外で、パン屋の戸が閉まる音がした。


「先日、彼女に会った。式の日取りを決める席だった」


 公爵様は、少しだけ顔を上げた。


「私は、これで両家の者が安心できると言った」

「はい」

「彼女も、そうですねと答えた」


 それきり、言葉が途切れた。


 私は待った。


「誰も、彼女がどうしたいかを聞かなかった。私も含めて」


 彼の視線が、婚約の届出控えへ落ちる。


「帰ってから気づいた。あの場で私が言ったのは、家の都合ばかりだったと」


「セシル様に、お尋ねには?」

「一度、手紙を書いた。無理をしていないかと」

「お返事は」

「ご心配には及びません、と」


 それだけで、彼女の気持ちを決めつけることはできなかった。


 望んでいるのかもしれない。

 望んでいなくても、そう書くしかなかったのかもしれない。


 私は、その手紙についても記録した。


「閣下ご自身は、どうなさりたいのですか」


 公爵様が私を見た。


「さっき伝えたとおりだ」

「両家の事情ではなく、ご自身のお気持ちを伺っています」


 少し、踏み込みすぎただろうか。


 けれど、彼は怒らなかった。


 しばらく考えたあとで、はっきり答えた。


「彼女と結婚するつもりで、生きてきたことがない。署名したあとも、その気持ちが変わったわけではなかった」


 私は頷いた。


「分かりました」


 それ以上、理由を足してもらう必要はなかった。


     *


「解消できるだろうか」


 公爵様が尋ねた。


 私は古い契約へ目を戻した。


 見たところ、婚約の話だけで片づくものではない。土地の名も、金額も、別紙への参照もある。


 ここで安請け合いをすれば、彼の期待を受け取ることはできる。


 けれど、その先で困るのは、彼とセシル様だ。


「まだ、お答えできません」


 公爵様は黙って聞いていた。


「こちらには別紙の記載がありますが、今お持ちいただいたものには綴じられていません。それから、資金がどこまで返済されているかも、確認が必要です」


「別紙がない?」


 彼が身を乗り出す。


 私は該当する箇所を示した。


『別紙第三号に定める条件による』


 頁の右上に振られた番号も、途中で一つ飛んでいた。


「抜けているのがこの一枚だけかどうかも、原本と照らし合わせます」

「家の者に用意させた写しだ。これで全部だと」


「写すときに、別の束になっていたのかもしれません。まずは確認しましょう」


 公爵様は、欠けた番号をしばらく見つめた。


 私は新しい紙を手元へ引いた。


「それと、セシル様ご本人のお話を伺いたいです。ただ、閣下のご意向をそのまま伝えてよいかどうかも含め、進め方を先に決める必要があります」


「私が連れてくればいいか」

「できれば、こちらが何をする者かをお伝えして、ご本人に選んでいただきたいです。お一人で話せる時間も」


 彼は少し考え、それから頷いた。


「分かった」


 驚くほど素直な返事だった。


 私は、持参してほしい書類を一つずつ書き出していった。


 公爵様は、その間ずっと待っていた。


 時計も見ず、机を指で叩くこともなく。


 書き終えた紙を差し出すと、彼は上から下まで目を通した。


「これは、いつまでに?」

「ご用意できる日を教えていただければ、その日に合わせます」

「明日の午前に、分かる範囲を知らせる」


 そして、当然のように尋ねた。


「君への報酬は、どう決めればいい?」


 私は一瞬、返事を忘れた。


 窓の下には、今朝作ったばかりの料金表がある。


 けれど、公爵家の財産契約を調べる仕事は、そのどこにも載っていなかった。


「……調査の範囲を決めてから、お見積もりを出します」

「では、先にそれを」


 公爵様は書類をまとめかけて、私を見た。


「君にも、引き受けるかどうかを決める権利があるのだろう」


 私は、机の下で背筋を伸ばした。


「はい。あります」


 声に出して答えると、彼は小さく頷いた。


 その人にとっては、確かめるまでもないことだったらしい。


 私は依頼の内容を書くために、もう一枚、白い紙を取り出した。

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