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『婚約破棄の書類は、私が書きました。 ~捨てられた代書令嬢は、離縁のお手伝いで幸せにします~』  作者: やまご


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第4話 お断りする権利は、あなたにあります

「記録?」


 ローデンさんは、私のペンを見下ろした。


「大げさなことをするな。私は親切で相談に乗ってやっているんだ」

「でしたら、そのように残します」


 私は日付と時刻の下に、彼の名前を書いた。


「先ほどのお話の続きは。エマさんが結婚を断れば、お母様のお店がどうなるのでしょうか」


 ペン先を紙から離して待つ。


 ローデンさんの視線が、私からエマさんへ移った。


「……借金の取り立てをせざるを得ないということだ」

「金貨六枚についてですね」

「そうだ」

「内訳を拝見したいとお願いしております」


「今ここに持っているはずがないだろう!」


 声が大きくなった。


 エマさんが身を縮める。


 私は書きかけの紙を手前に寄せ、鞄の口が閉まっていることを確かめた。受取証も、借用書も、その中にある。


「では、場所を移しましょう。商事相談窓口で、双方の書類を確認していただきます」

「私は忙しい」

「でしたら、こちらから先に申し出ます。回答先は、窓口で確認いたします」


 ローデンさんは舌打ちし、机に手を伸ばした。


「それより、渡した紙を返してもらおう。話がまとまらないなら必要ない」


 婚姻承諾書のことだった。


「確認のため、お預かりしています」

「私が作ったものだ」

「娘に渡したんでしょう」


 マルタさんが、男と机の間に入った。


 その手には、裁縫箱がある。彼女はそれを机の端に置き、動こうとしなかった。


「人の店で怒鳴って、客の持ち物に手を出さないで。続けるなら、表の巡回を呼ぶわよ」


 ローデンさんは口を開きかけた。


 だが、マルタさんの顔を見て、手を引いた。


「好きにしろ。恥をかくのはそっちだ」


 乱暴に扉が開き、鈴が鳴った。


 靴音が遠ざかるまで、誰も喋らなかった。


 エマさんが、椅子に座り直す。


「言ってしまいました」


 彼女は膝の上の手を見ていた。


「結婚しないって」

「はい。聞こえました」


 私が答えると、ハンナさんが娘の手を包んだ。


「ごめんね。あなたに言わせて」

「お母さん」


 エマさんは首を振った。


 その目に浮かんだ涙は、さっきまでと少し違って見えた。


     *


 商事相談窓口には、昼前に着いた。


 待合の長椅子には、荷札の束を抱えた商人や、割れた壺を籠に入れた女性が座っていた。


 順番を待つ間に、私は書類を並べ直した。


 借用書。

 日付順にまとめた受取証。

 支払額の一覧。

 婚姻承諾書。


 最後に、先ほどの会話の記録。


「これは、私が聞いて書いたものです。公の証明になるわけではありません。お二人にも、聞いたことをそのまま話していただきます」


 ハンナさんが頷いた。


 エマさんは承諾書を見てから、私を見た。


「お昼を過ぎたら、返事をしたことにはなりませんか」

「署名も承諾もしていません。その点も、窓口で確かめましょう」


 彼女は少し肩を下ろした。


 名前を呼ばれ、小さな相談室へ入る。


 担当は、袖口の擦れた上着を着た中年の登記官だった。


 私たちの説明を聞いたあと、彼はまず、エマさんに尋ねた。


「あなたは、この婚姻を承諾していますか」

「していません」


 今度は、すぐに返事が出た。


「以前に、口頭や別の書面で承諾したことは?」

「ありません」


 登記官は手元の紙に書き込んだ。


「分かりました。本日、本人が承諾していないと申し出たことを記録します。相手が返答の期限を決めても、それだけで婚姻の合意は成立しません」


 エマさんの膝の上で、握り締められていた手が緩んだ。


 借金については、すぐに結論は出なかった。


 登記官は借用書の裏表を確認し、受取証を一枚ずつ数えた。私の計算書とは別に、机の算盤を動かす。


 途中で、遅延分の受取証を光に透かした。


「この印も、ほかと同じですね」

「はい」

「受取証はすべて、支払いの際に渡されたものですか」

「そうです」


 ハンナさんの答えを聞き、登記官は最後の一枚を置いた。


「提出された書類では、契約に定めた額は納められています。ただし、別の合意があったという主張については、相手の説明も必要です」


 そこで、廊下が騒がしくなった。


「その話なら、私が説明する!」


 ローデンさんだった。


 脇に、革張りの帳簿を抱えている。


 受付の職員に付き添われて入ってきた彼は、空いている椅子に腰を下ろすなり、帳簿を机に置いた。


「一方的な話を信じてもらっては困る。こちらには、きちんと記録がある」


 私たちは長椅子へ移り、登記官が彼の話を聞くのを待った。


 帳簿は厚かった。


 けれど、ハンナさんの名がある頁は、半分ほどしか埋まっていなかった。


 登記官が指を止める。


「残額の大半は、管理費ですね」

「回収の手間があるので」

「計算の方法は」

「月ごとに残額へ加算している」

「その条件を、借り手が了承した書面はありますか」


 ローデンさんは、帳簿の端を叩いた。


「受取証にも書いた。払い続けていたんだから、承知していたはずだ」


 私は顔を上げた。


「最後の受取証には、管理費に充てたとあります。ただ、支払いのあとで渡された紙です」


 登記官が、その一枚を取り上げる。


「ハンナさん。この費用の金額や、毎月増える仕組みについて、事前に説明を受けましたか」

「いいえ。遅れた手間賃があるとだけ。それで、まだ返し終わらないんだと思って……」


 ローデンさんは口を挟みかけたが、登記官に手で制された。


「借用書には、追加費用は別途書面で合意するとあります。帳簿は、あなたが請求額を記録したものですね。これだけでは、相手が同意したことの確認にはなりません」


 部屋が静かになった。


「別の合意書はありますか」


 同じ質問が、もう一度された。


 ローデンさんは帳簿を見たまま答えた。


「……ない」


     *


 そのあとも、話合いには時間がかかった。


 ローデンさんは、商売には信用が必要だと言った。

 困っているところを助けてやったのだとも言った。


 登記官はそのたびに、請求の根拠となる書類があるかを確かめた。


 私も、何度か意見を求められた。


 そのときだけ、受取証の日付と金額を示した。


 やがてローデンさんが、帳簿を閉じた。


「もういい。残りは請求しない。それで済むだろう」


 ハンナさんがほっと息をつきかけた。


 私は彼女に向かって、小さく手を上げた。


「その条件を、書面にしていただけますか」

「まだ書くのか」

「あとで、お互いに確かめられるようにです」


 登記官が頷き、合意の内容を整理した。


 この借用書に基づく債務は完済していること。

 争いになっていた追加費用の請求を取り下げること。

 余分に受け取った銀貨四枚を返すこと。


 その確認書を前に、ローデンさんはしばらく動かなかった。


「追加請求を維持するのであれば、裁定の手続きについてご案内します」


 登記官が告げる。


 ローデンさんは、ようやくペンを取った。


 署名を終えると、財布から銀貨を四枚出した。硬貨が机に当たり、一枚だけ転がった。


 ハンナさんはそれを拾い、受領欄に名前を書いた。


 婚姻については、別に記録された。


 エマさんが承諾していないこと。

 ローデンさんが申し入れを撤回し、この件でこれ以上返答を求めないこと。


「これで、いいんだな」


 彼は、エマさんを見ずに言った。


 登記官が書面を確かめ、認証印を押した。


 淡い青の光が、日付の上を走る。


 私たちは、それぞれ控えを受け取った。


     *


 外に出ると、午後の日差しが眩しかった。


 昼食の時刻は、とっくに過ぎている。


 ハンナさんは受け取った控えを開き、また閉じた。


「もう、あのお金を取り分けなくていいんですね」

「はい。この借金については」


 私は確認書の該当する行を指した。


「もし同じ請求をされたら、これを持って、今日の窓口へ。受取証も、捨てずに保管してください」

「はい。あの缶に、全部入れます」


 エマさんが、小さく笑った。


「お菓子を入れる場所、なくなっちゃったね」

「別の缶を買うわ。今度は、お菓子のために」


 二人の笑い声を聞いて、ようやく私も息をつけた。


 膝が少し頼りない。


 自分の代書が誰かの暮らしを左右することは、知っていた。


 でも、その誰かが目の前で笑うところを、私はあまり見たことがなかった。


     *


 仕立店に戻ると、マルタさんは何も尋ねず、私たちのために水を注いでくれた。


 ハンナさんが、机の上に銀貨を一枚置いた。


 最初に説明した、確認と書類作成の代金だった。


「本当に、ありがとうございました」


 私は硬貨を受け取り、受取証を書いた。


 依頼の内容。

 日付。

 受領額。

 リディア・ベル。


 自分の仕事に対して、自分の名前でお金を受け取る。


 署名を終えても、すぐには紙から目を離せなかった。


「リディアさん」


 エマさんの声に、顔を上げる。


「私、断ってもよかったんですね」


 彼女はもう、泣いていなかった。


「はい。お断りする権利は、あなたにあります」


 私は受取証を差し出した。


 エマさんはそれをお母様と一緒に受け取った。


 二人が向かいのパン屋へ戻ったあと、私はしばらく銀貨を掌に載せていた。


「穴が開くわよ」


 マルタさんが言った。


「そんなに見てると」

「……初めてなんです」

「でしょうね」


 彼女は私の横に立ち、窓の貼り紙を眺めた。


『署名する前のご相談も承ります』


 昨日より、少し斜めになっていた。


 私は立ち上がって、その端を貼り直した。


「明日も、ここで仕事をしていいんですよね」

「一週間分、払ったでしょうが」


 マルタさんが呆れた顔をしたので、私も笑った。


 その夕方、店の前で足を止めた青年がいた。


 濃紺の上着に、飾りの少ない革手袋。

 背が高く、右手には細長い書類筒を持っている。


 青年は窓の貼り紙を読んだあと、入口へ目を向けた。


 私と目が合う。


 一瞬迷ったように見えたが、彼は扉を開けた。


「婚約についての相談は、ここでいいだろうか」


 私は、机の向こうの椅子を引いた。

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