第3話 この借金、もう返し終えています
お菓子の缶は、甘い匂いがした。
蓋には、苺を摘む少女の絵が描かれている。縁の塗装が剥がれ、何度も開け閉めしたところだけ銀色に光っていた。
「順番には、してあるつもりなんですが」
エマさんのお母様は、缶を両手で机に置いた。
ハンナさんという、細身の女性だった。急いで店を抜けてきたのだろう。袖口に白い粉がついている。
「途中から、字が小さくなって。どこに何が書いてあるのか、よく分からなくて」
「大丈夫です。一枚ずつ拝見します」
中には、折り畳まれた受取証が詰まっていた。
その下に、厚紙で挟まれた借用書が一通。
私はまず、借用書を開いた。
借りた金額は金貨十二枚。
返済期間は三年。
利息を含め、毎月銀貨四枚ずつ納める契約だった。この国では銀貨十枚で金貨一枚になる。
父が私に最初に教えたのは、美しい字の書き方ではなかった。
計算は、二度しなさい。
一度目は正しい答えを出すために。
二度目は、一度目の自分を疑うために。
「こちらを、日付順に並べてもよろしいですか」
「お願いします」
机だけでは足りず、マルタさんが裁断台の端を空けてくれた。
受取証を開き、日付と金額を写す。
銀貨四枚。
銀貨四枚。
次も、その次も。
受領者の欄には、同じ名前と商印があった。
ローデン。
エマさんに婚姻承諾書を渡した男の名前だった。
*
二年目の秋で、手が止まった。
そこだけ、ひと月分の受取証がなかった。
「この月は、納めていらっしゃいませんか」
ハンナさんの顔が曇った。
「店を十日ほど休んだことがあって。私が、熱を出してしまったんです」
「翌月の分は、銀貨八枚ですね」
「はい。遅れた分と、その月の分を一緒に」
私は借用書を読み直した。
支払いが遅れた場合の加算額は、銀貨一枚。
ほかの金額を請求するには、別途、書面で合意すること。
小さな文字だったが、読み取れた。
「遅れた分の銀貨一枚は?」
「年の終わりに。ここに……」
ハンナさんが缶の底を探る。
細長い紙が一枚、出てきた。
『遅延加算分として銀貨一枚、受領』
日付と商印もある。
私はそれを借用書の横に置いた。
時計の針が動く音が、やけに大きく聞こえた。
残りの受取証を、もう一度数える。
三十七枚。
毎月の支払いを記したものが三十六枚。遅延加算分が一枚。
ただし、ひと月休んだぶん、翌月には二か月分を納めている。
私は合計を書いた紙を裏返し、何も見ずに、もう一度計算した。
同じ答えになった。
「ハンナさん。三年の返済期間が終わったあとも、お支払いを続けたのですね」
「先月も、持っていきました。まだ残っていると言われたので」
私は最後の受取証を見た。
日付は、先月の十五日。
銀貨四枚、受領。
その余白に、以前にはなかった言葉が書かれていた。
『残債管理費充当』
「この費用について、説明はありましたか」
「支払いが遅れたことがあるから、その手間賃だと」
「金額はいくらだと?」
「それは……帳簿を見なければ分からないと」
エマさんが、お母様の手を握った。
「新しい借用書や、費用を認める書面に署名なさったことは?」
「ありません。私はただ、言われた日にお金を持っていって……」
私は借用書と、二度計算した紙を並べた。
「この借金は、もう返し終えています」
母娘は動かなかった。
言葉が届かなかったのかと思ったころ、ハンナさんの唇が震えた。
「……そんなはずは」
「毎月のお支払いの合計が、銀貨百四十八枚。別に、遅延分の銀貨一枚です」
数字の横に、短い線を引く。
「契約で決められた返済総額は、銀貨百四十四枚。遅れた一回分を足しても、百四十五枚です。受取証の金額は、それを銀貨四枚上回っています」
「でも、まだ金貨六枚残っているって」
エマさんの声が裏返った。
「だから、私が結婚すれば、それをなくしてくださるって……」
金貨六枚。
私は余白に、その数字を書いた。
当初借りた金額の、半分だった。
「その請求が何に基づくものなのか、ローデンさんに示していただく必要があります。少なくとも、お持ちになった契約書にはありません」
エマさんは、机の上の受取証を見つめた。
お母様はその隣で、何度も口を開いては閉じた。
「毎月……」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「毎月、先に取り分けていたんです。小麦代が上がっても、薪が高くなっても。あのお金だけは、使わないように」
指先が、いちばん古い受取証に触れた。
「娘を嫁にやれば済むなんて、思いたくなかった。でも、これ以上、どうしたらいいのか」
エマさんが、お母様の肩に額を寄せた。
私は少しだけ視線を落とし、二人が落ち着くのを待った。
*
「じゃあ、この紙は破ってもいいんですね」
やがてエマさんが、婚姻承諾書を手に取った。
「破らずに、残しておきましょう」
「どうしてですか」
「何を求められたのか、分かるものですから。それに、まだこちらで計算を確かめた段階です。相手が請求を取り下げたわけではありません」
彼女の指が止まった。
私はできるだけ、落ち着いて続けた。
「私は書類を作る者です。ローデンさんに支払い済みと認めさせたり、店への立入りを禁じたりする権限はありません。ですから、受取証を揃えて、商事相談窓口に記録を残します。争いがあれば、裁定の手続きへ進めます」
「お金は、どのくらい……」
ハンナさんが財布を握った。
「私の確認と書類作成は、料金表のこちらです。役所で費用が必要になれば、別にご説明します。勝手に増やすことはしません」
金額を見せると、彼女はじっと確かめてから頷いた。
「お願いします。娘が、あの方に断れるようにしてください」
私は依頼内容を書き、二人に読んでもらった。
婚姻を承諾しないこと。
返済記録を整理し、残額請求の根拠を求めること。
ハンナさんが、自分の名前を書いた。
力の入った、少し角張った字だった。
署名の下に、私も名前を入れる。
最初の依頼が、正式に決まった。
顔を上げると、マルタさんが壁の時計を見ていた。
正午まで、あと半刻ほどだった。
「リディア。役所に行くなら、裏通りを使いなさい。表は荷車が詰まる時間だから」
「はい。受取証の原本は、こちらの袋へ――」
入口の鈴が鳴った。
エマさんの肩が、目に見えて跳ねた。
「ここにいたのか」
男の声だった。
衝立の向こうで、靴音が止まる。
「パン屋に寄ったら、二人とも出ていると言う。仕事を放り出して何をしているんだ」
マルタさんが、低い声で応じた。
「うちのお客よ。ご用件は?」
「その母娘に話がある」
エマさんが婚姻承諾書を握りかけた。
私はそっと、紙の端を押さえた。
彼女が私を見る。
「渡す前に、しまいましょう」
小声で伝え、原本をまとめて鞄に入れた。
その間に男が衝立の脇へ回り込んできた。
よく手入れされた口髭。艶のある上着。指には、大きな赤い石の指輪。
彼は私を見ると、眉を寄せた。
「君は?」
「代書士のリディア・ベルです。お二人から、書類の確認をご依頼いただいています」
「余計な出費をする余裕があるとはな」
ローデンさんは、ハンナさんに向かって笑った。
「そんな金があるなら、先に私へ返してもらいたいものだ」
私は机の上に、一枚だけ残していた計算書を引き寄せた。
「その件で、確認がございます」
彼の視線が、私のペンへ落ちる。
「契約上の返済額は、すでに受領されていますね。残っているとおっしゃる金貨六枚について、内訳と、請求の根拠となる書面を拝見できますか」
ローデンさんの笑顔が消えた。
けれど、それはほんの一瞬だった。
「他人の商売に口を出す前に、事情を聞きたまえ。あの借用書には書いていない費用があるんだよ」
「では、その費用を合意した書面を」
「細かいことを。本人が納得して払っていたんだ。それで十分だろう」
隣で、椅子が小さく鳴った。
エマさんが立っていた。
両手は震えている。
それでも、机の陰には隠さなかった。
「私は、結婚しません」
ローデンさんは彼女を見た。
「エマ。お母さんの店がどうなっても――」
「そのお話も含めて」
私は新しい紙に、時刻を書き入れた。
「ここからは、記録を取らせていただきます」




