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『婚約破棄の書類は、私が書きました。 ~捨てられた代書令嬢は、離縁のお手伝いで幸せにします~』  作者: やまご


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第2話 最初のお客様は、泣いていました

「貸すのは机よ。あんたを座らせておくだけなら、お金は取らないけど」


 マルタさんはそう言って、私の前にお茶を置いた。


 伯爵家で飲みそびれたものと違って、湯気が立っている。


「ありがとうございます。でも、お借りしたいんです。仕事をする場所として」


 店の奥では、縫いかけのドレスが人台に掛かっていた。深い緑の布に、袖だけ白い仮縫い糸が走っている。


 マルタさんはその横に腰を下ろすと、私の旅行鞄を一度見た。


「急な話ね」

「婚約を解消しました」

「へえ」


 針山から針を抜きかけた手が止まった。


「それで、その荷物」

「はい」

「晩ご飯は?」

「……まだです」


 もう少し事情を尋ねられると思っていたので、返事が遅れた。


 マルタさんは立ち上がり、奥からパンの籠を持ってきた。


「先に食べなさい。空腹で家賃の相談をすると、こっちが悪徳大家みたいになる」


 籠の中には、丸いパンが二つあった。


 私は礼を言い、一つを取った。割った中には玉葱とチーズが入っている。


 最初のひと口を飲み込んだ途端、ひどくお腹が空いていたことに気づいた。


 マルタさんは急かさず、ドレスの袖に針を入れた。


 糸が布を抜ける、かすかな音がした。


     *


「机と椅子、それから窓の下の棚。一週間で銀貨二枚。どう?」


 パンを食べ終えたころ、マルタさんが言った。


「お客様に座っていただく椅子も、置けますか」

「奥の丸椅子でよければね」

「お店のご迷惑にならないでしょうか」

「騒ぐ客なら追い出す。あんたの客でも、私の客でも」


 私は財布を開けた。


 宿代を払いながら場所を借りれば、手持ちは思っていたより早く減る。けれど、店を構えずに依頼を探す方法も、今の私にはなかった。


「まず一週間、お借りできますか」

「いいわよ。合わなければ、そこで終わり」

「では、借用の書面を」

「もう書くの?」


 マルタさんが笑った。


「口で決めたことを、あとで忘れないためです。私も、緊張していますので」


 鞄から紙とペンを取り出す。


 借りる場所。使える時間。家賃。預かる鍵。

 一週間ごとに更新すること。お客様の秘密を守るため、相談中は仕切りを使わせてもらうこと。


「衝立なら、古いのがあるわよ」

「助かります」


 書き終えた紙を二人で読み、名前を入れた。


 今度は署名を急かす人も、説明の途中で時計を見る人もいなかった。


「寝る場所は決まってる?」

「このあと探します」

「向かいのパン屋に聞いてあげる。親戚が宿をやってるの。うちの屋根裏も空いてるけど、まず雨漏りを直さないとね」


 私は窓の向こうを見た。


 パン屋の戸は閉まっていて、庇の下に空の籠が重ねられていた。


「親切にしていただいて、ありがとうございます」

「家賃を払う人に逃げられたくないだけよ」


 マルタさんは書面を畳み、裁縫箱の引き出しにしまった。


「で、何を書く店にするの?」

「手紙や申請書、契約書の清書を。内容の確認もできます」

「それ、外から見て分かるようにしないとね」


 私は余った紙を一枚、机の上に置いた。


『代書承ります』


 そう書いてから、しばらくペンを止めた。


 伯爵家では、書くものはいつも決まっていた。


 商会への返事。役所への申立て。相手に都合のよい条件を認めさせるための契約。


 これからは、どんな依頼を受けたいのだろう。


 鞄の中に入れた、婚約解消書の控えを思い出す。


 今日、私が最も欲しかったもの。


 私は下に一行、書き足した。


『署名する前のご相談も承ります』


     *


 最初のお客様が来たのは、翌朝だった。


 まだ看板の紙を窓に貼り終えたばかりで、インク壺の蓋も開けていない時刻。


 入口の鈴が、小さく鳴った。


「おはよう、エマ。お母さんは?」


 マルタさんの声に、振り返る。


 戸口にいたのは、私より少し年下の娘だった。栗色の髪を後ろで結び、腕には蓋付きの籠を抱えている。


「今日は、私が配達を」

「顔色が悪いわね。眠れてる?」

「はい。大丈夫です」


 そう答えた彼女は、パンを渡しても帰ろうとしなかった。


 視線が、私の机と窓の貼り紙の間を行き来する。


「あの」


 マルタさんが、静かに籠を置いた。


「どうしたの」


 エマさんは答えず、上着の内側から折り畳んだ紙を取り出した。


 四つに折った跡が、白く擦り切れかけている。


「これも、見てもらえるんでしょうか」


 紙の上には、『婚姻承諾書』と書かれていた。


「もちろんです。どうぞ、お掛けください」


 私は丸椅子を引き、机の脇に置いた。


 エマさんは座る前に、財布を出そうとした。


「お代は、いくら――」

「まず、何をお手伝いできるか確かめさせてください。そのあとで、費用をご説明します」


 昨日、料金表を作っておいてよかった。


 そう思いながら衝立を立てる。


 マルタさんは何も尋ねず、人台を店の奥へ移した。


 紙を広げると、右下に署名欄があった。


 そこは、まだ空白だった。


「こちらに、署名を求められているのですね」

「今日のお昼までに返事をするようにと」


 私は壁の時計を見た。


 あと三時間もない。


「お相手は、ローデンさん」

「母が、お金を借りている方です」


 彼女の指先に、小さな火傷の痕があった。


「父が亡くなった年に、窯が壊れたんです。直さなければ店を続けられなくて。それで借りたお金が、まだ残っているそうで」


 エマさんは膝の上で手を重ねた。


「私がお嫁に行けば、借金はなくなるから。母も、店を続けられるから」


 私は承諾書を読み進めた。


 借金の残額は書かれていない。

 代わりに、婚姻の成立と引き換えに、母親の債務を免除するという文章があった。


 これだけでは、何と引き換えに結婚するのかさえ確かめられない。


「元の借用書は、お持ちですか」

「家にあります。でも、お金を借りたのは本当なんです。だから――」

「はい。それも、確認しましょう」


 私はペンを取らずに、彼女を見た。


「その前に、一つだけ。エマさんは、この方と結婚したいですか」


 彼女の唇が開いた。


 けれど、声は出なかった。


 店の奥で、鋏を置く音がした。


「母は、無理をしなくていいって言うんです。でも、ほかに返す方法なんてなくて。私、仕入れの計算も、まだよく間違えて――」


 言葉が途切れる。


 膝に、一滴、涙が落ちた。


「ごめんなさい」

「謝らなくて大丈夫です」


 私は清潔な布を差し出した。


 エマさんはそれを受け取ると、顔を伏せた。


「結婚、したくありません」


 細い声だった。


「小さいころから知っている人なのに、この話になってから、店に来るのが怖くて。昨日は、もうよその男と話すなって……まだ、返事もしていないのに」


 私は机の上の紙を、彼女から少し離した。


 署名欄を見ているだけで、急かされることもある。


「分かりました。結婚を望んでいないことを、まずここに書いておきますね」


 相談の記録に、その言葉を残した。


 彼女は私の手元を見つめていた。


「それでも、相談していいんですか」

「はい」

「借りたお金があるのに」

「借金について確かめることと、結婚したいかどうかを聞くことは、両方できます」


 エマさんが、ゆっくりと顔を上げた。


 私は新しい紙に、必要なものを書き始めた。


「お母様と一緒に来ていただけますか。借用書と、これまでお金を返したときの控えも」

「控え……受取証のことですか」

「そうです。お持ちですか」


 初めて、彼女の返事が早くなった。


「あります。母が、一枚も捨ててはいけないって。全部、お菓子の缶に」


 私は頷いた。


 まだ、借金がいくらなのかも分からない。

 昼までに何ができるか、約束することはできない。


 けれど、見るべき紙は、この承諾書だけではなかった。


「では、その缶を持ってきてください」


 エマさんは立ち上がり、戸口で一度振り返った。


「母にも、結婚したくないって、言ってきます」


 私は今度こそ、ペンを取った。


 最初の仕事は、花嫁になるための書類ではない。


 彼女がまだ署名していない、その続きを探すことだった。

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