第1話 私の婚約破棄は、三枚つづりです
「リディア。君との婚約を破棄する。必要な書類を作っておいてくれ」
婚約者は、昼食の献立を変えるような口調で言った。
私はペンを止めた。
机の上には、明朝までに清書する取引契約が四通。返事を待つ手紙が七通。そして、たった今追加された、私自身を捨てるための書類。
「……私が、作るのですか」
「ほかに誰がやるんだ。君はそういうことが得意だろう」
エドガー様は窓硝子に映る襟元を確かめながら、首飾りを直した。
今日の石は青。先月、私の冬服を仕立てる予算がなくなった日に買われたものだ。
「クラリス嬢との話がまとまった。先方も早く正式な婚約をと望んでいる。面倒を残したくない」
「私との婚約が、その面倒に当たるのですね」
「そういう言い方はよせ。君には感謝している」
その言葉で、かえって何も言えなくなった。
感謝している。
それは、熱のある日に帳簿を運ばれてきたときにも聞いた。父の命日に帰省を取りやめ、急ぎの申立書を書いたときにも。
私は机の隅のカップを見た。朝に淹れてもらったお茶は、まだ半分以上残っている。
「不満があるなら、父が戻ってから――」
「いいえ」
思ったより、はっきりした声が出た。
伯爵様がお戻りになれば、きっと話は長くなる。
もう少し考えてやってくれ。エドガーにも立場がある。君なら分かるだろう。
私はきっと、また分かった顔をする。
「書類を作ります。今日中に済ませましょう」
エドガー様は、ようやくこちらを向いた。
「そうか。君なら理解してくれると思った」
「いくつか、終わらせる手続きがありますので」
私は新しい紙を三枚、取り出した。
*
ベル家は、爵位だけが残った貧しい家だった。
父は代書士として暮らしを立て、私にも文字の整え方から契約の読み方まで教えてくれた。父が亡くなったあと、取引先だった伯爵家から婚約を申し込まれたときには、母と二人で喜んだものだ。
家柄の釣り合いを気にする私に、エドガー様は言った。
君のように、僕の仕事を理解してくれる女性がいい。
あのときは嬉しかった。
だから三年間、理解しようとした。
彼が忙しいことも、結婚式の日取りが決まらないことも、婚約者なのだから報酬はいらないだろうと言われたことも。
けれど、自分の婚約解消書にまで彼の名前を丁寧に書いていると、さすがにおかしくなってきた。
私は小さく息を吐き、最後の一行を書き終えた。
午後の書斎には、立会いを頼んだ家令のオズワルドさんも来ていた。
「三枚もあるのか」
戻ってきたエドガー様が眉を寄せる。
「一枚目は婚約解消の合意書です。二枚目は、それに伴う代書業務の終了確認。三枚目は、書類と鍵の引渡し目録になります」
「仕事のことまで?」
「はい。私が無報酬で代書をお引き受けする契約は、婚約期間中に限られています」
元の契約書を開き、該当する箇所を示した。
父の筆跡だった。
娘が先方の家で働くことを、父は最後まで心配していた。せめて範囲だけは決めておこうと、この一文を足してくれたのだ。
「婚約を解消する本日付で、代書も終了します。未処理のものは、期限と進捗をこちらにまとめました」
エドガー様は、私の指先ではなく壁の時計を見た。
「清書くらい、ほかの者でもできる」
「でしたら、後任の方にお渡しください」
オズワルドさんが目録を受け取り、しばらく黙って目を通した。
「お嬢様。この倉庫の更新契約は、来月ではなく明日が期限でございますか」
「はい。来月なのは使用開始日です。先方から届いた通知も、一緒に挟んであります」
「承知いたしました」
家令は私の目を見て、静かに頭を下げた。
その間にも、エドガー様は指で机を叩いていた。
「慰謝料などは求めないだろうな」
「双方とも、婚約解消に伴う金銭の請求をしない。その条件でよろしければ」
「もちろんだ」
「私の持ち物と、代書士として保管する業務記録は持ち出します。伯爵家の契約原本は、すべて目録のとおりお返しします」
「好きにしろ」
私はペンを置いた。
「エドガー様。ご署名の前に、三枚ともお読みください」
「今、君が説明しただろう」
「説明を受けることと、お読みになることは――」
「リディア。これから約束があるんだ」
彼はペンを取り、一枚目に署名した。
二枚目にも。三枚目にも。
私は口を閉じ、その手元を最後まで見届けた。
続いて自分の名前を書いた。
リディア・ベル。
三枚の紙に、それぞれ一度ずつ。
最後だけ、ペン先が少し引っかかった。
「これで終わりだな」
「登記所への提出が残っています。私が参ります」
「ああ、任せた」
エドガー様は立ち上がった。
扉へ向かいかけて、ふと思い出したように振り返る。
「そうだ。明日の商会宛ての手紙も、出しておいてくれ」
「そちらは、引渡し目録の四番です」
「……まだ書いていないのか?」
「下書きまでです。以降は後任の方にお願いします」
彼の顔に、初めて不快そうな色が浮かんだ。
「そのくらい、最後までやってくれてもいいだろう」
机の上で、二枚目の署名がまだ濡れていた。
私はそれを指さすことはせず、目録を彼の側へ寄せた。
「本日で終了すると、先ほどご説明しました」
数秒、返事はなかった。
やがてエドガー様は小さく舌を打ち、今度こそ書斎から出ていった。
扉が閉まる。
私は膝の上で、冷たくなっていた指を握り合わせた。
*
荷物は旅行鞄一つに収まった。
着替えが三組。針箱。母の手紙。貯金の入った小さな財布。
父から譲られたペンは、布で二重に包んだ。
最後に、棚の奥から薄い青の布を取り出した。いつか正式なお披露目のドレスを仕立てるつもりで、少しずつ買いためたものだ。
膝に広げてみる。
今着ている服より、ずっと明るい。
しばらく眺めてから、それも鞄に入れた。売れば何日分かの食費になる。あるいは、もっと小さなものに仕立て直せるかもしれない。
玄関では、オズワルドさんが待っていた。
「お車を用意いたしましょう」
「ありがとうございます。でも、登記所に寄りますので」
「その先は」
私は答えるまでに、少し時間がかかった。
「これから決めます」
家令は何か言いかけ、代わりに封筒を差し出した。
「お預かりした書類の受領書です。控えも確認いたしました」
「お手数をおかけしました」
差し出された封筒は、両手で受け取った。
私が何を渡し、いつ仕事を終えたか。
それを証明する紙だった。
父に教わったとおり、鞄の内側にしまう。
「リディア様」
玄関の段を下りたところで、呼び止められた。
「三年間、ありがとうございました」
振り返ると、オズワルドさんは深く頭を下げていた。
喉が詰まった。
さっきは言えた返事が、なかなか出てこない。
「……こちらこそ、お世話になりました」
それだけ答えて、門へ向かった。
*
登記所を出たときには、夕方の鐘が鳴っていた。
受理印の押された控えが、鞄に一通増えている。
これでもう、私はエドガー様の婚約者ではない。
通りの端に立ち、財布の中を確かめた。
宿代と食費を切り詰めれば、二十日ほど。仕事が見つからなければ、母のところへ帰る旅費だけは残しておかなければならない。
急に心細くなった。
伯爵家を出ると決めたときには、あんなにはっきりしていたのに。
鞄の持ち手を握り直す。掌に硬い革が食い込んだ。
そのとき、通りの向こうで、見覚えのある赤い庇が目に入った。
マルタ仕立店。
伯爵家の使いで、何度も訪ねた店だった。店主は注文を受けるたびに、立ったまま待つ私にも椅子を出してくれた。
窓に、小さな貼り紙がある。
『店先、貸します。机一台置けます』
私は道を渡った。
硝子越しに見える店の隅には、本当に、小さな机が一台あった。
あそこに紙を置く。
父のペンを置く。
椅子に座って、誰かの話を聞く。
そこまで考えてから、初めて気づいた。
明日の朝、私に仕事を言いつける人はいない。
誰のために何を書くか、自分で決めていいのだ。
私は鞄から手を離し、仕立店の扉を叩いた。




