第9話 光秀の疑念
光秀の問いに。
俺はすぐに答えられなかった。
「久世玲央です。」
「名を聞いておるのではない。」
ですよね。
横を見る。
新七は黙っている。
助けてくれる気はなさそうだ。
「丹波のことは。」
光秀が俺を見る。
「誰から聞いた。」
「……人からです。」
「誰じゃ。」
答えられない。
この時代の誰かの名前を出したところで。
すぐに嘘だと分かる。
「覚えてません。」
光秀が少し笑った。
「覚えておらぬ?」
「はい。」
「丹波を平定したことは覚えておるのに。」
まずい。
完全に失敗した。
新七が口を開く。
「明智殿。」
光秀が新七を見る。
「何じゃ。」
「こやつは少々、変わったところがございまして。」
俺は新七を見る。
それ。
助けてるのか?
「変わった、か。」
「はい。」
光秀の視線が。
また俺に戻る。
「信長様も、この者をご存じなのか。」
新七が答える。
「はい。」
「ほう。」
光秀の表情が少し変わった。
「信長様が。」
それ以上は何も聞かなかった。
書状を手元に置く。
「もうよい。」
新七が頭を下げる。
「はっ。」
俺も慌てて頭を下げた。
「失礼します。」
立ち上がろうとしたとき。
「玲央。」
呼び止められた。
振り返る。
光秀は穏やかな顔に戻っていた。
「はい。」
「また会うこともあろう。」
「……はい。」
「その時までに。」
少し間を置く。
「誰から聞いたのか、思い出しておけ。」
笑っている。
でも。
目は笑っていなかった。
屋敷を出る。
しばらく歩いて。
新七が口を開いた。
「おぬし。」
「はい。」
「馬鹿じゃろ。」
「いきなり何ですか。」
「なぜ自分から余計なことを言う。」
「俺も分かりません。」
「分からんで済むか。」
「緊張してたんですよ。」
新七がため息をつく。
「信長様には怪しまれ。」
指を一本立てる。
「今度は明智殿じゃ。」
もう一本。
「この調子では、そのうち織田家中すべてに怪しまれるぞ。」
「それは嫌ですね。」
「他人事のように言うな。」
でも。
俺も笑えなかった。
明智光秀。
二年後。
信長を殺す男。
今の光秀からは。
そんな未来は想像できなかった。
落ち着いていて。
信長から直接書状を送られるほどの家臣。
新七より。
遥かに上の立場。
その男が。
本当に信長を裏切る。
「新七さん。」
「なんじゃ。」
「明智殿って。」
新七を見る。
「信長様と仲悪いんですか?」
「何を言うておる。」
即答だった。
「明智殿は、信長様から重く用いられておる。」
「ですよね。」
「なぜそんなことを聞く。」
俺は前を見る。
「どうして裏切るのかなって。」
新七は答えなかった。
俺も知らない。
授業で習ったのは。
明智光秀が本能寺で信長を討った。
それだけ。
なぜそうしたのか。
何があったのか。
そこまでは覚えていない。
「未来でも分からんのか。」
「いろんな説があったと思います。」
「説?」
「理由が、はっきり分かってないってことです。」
新七が考え込む。
「なら。」
「はい。」
「二年の間に、何か起きるのかもしれんな。」
俺は新七を見る。
その可能性はある。
今の光秀は。
少なくとも。
信長を裏切ろうとしているようには見えなかった。
城へ戻ると。
俺たちは信長のもとへ報告に向かった。
「書状、確かに明智殿ご本人へお渡しいたしました。」
新七が頭を下げる。
「そうか。」
信長は新七を見る。
「ご苦労。」
「はっ。」
これで終わり。
そう思った。
「玲央。」
また俺だ。
「はい。」
信長が俺を見る。
「光秀はどうじゃった。」
一瞬。
答えに詰まる。
「どうって……。」
「会ったのであろう。」
信長は笑っている。
俺は少し考えた。
「思ってたより。」
「うむ。」
「穏やかな人でした。」
信長が笑う。
「思っておった?」
しまった。
まただ。
信長はそれ以上聞かなかった。
ただ。
俺を見ていた。
光秀にも。
信長にも。
俺は何かを隠していると思われている。
そして。
それは間違っていなかった。




