第3話 織田信長
廊下を歩く。
俺の前には、久世新七。
その横には、さっき俺を斬ろうとした男がいる。
逃げたい。
めちゃくちゃ逃げたい。
でも。
逃げたところで、どこに行けばいい。
ここが本当に戦国時代なら。
コンビニもない。
警察もいない。
スマホも使えない。
頼れるものなんて、何一つない。
あるとすれば。
腰に差していた、あの短刀だけ。
そして今。
その短刀の持ち主に会おうとしている。
織田信長。
教科書に出てくる男。
本能寺で死ぬ男。
俺は、これからその本人に会う。
「止まれ。」
前を歩いていた新七が立ち止まった。
目の前には襖。
その向こうから、人の声が聞こえる。
「信長様。」
新七が膝をつく。
俺も慌てて真似をした。
「久世新七にございます。」
少し間があった。
「入れ。」
低い声。
それだけで。
身体が固まった。
新七が襖を開ける。
俺は頭を下げたまま、中へ入った。
畳。
数人の武士。
そして。
一番奥に、一人の男が座っていた。
俺はゆっくり顔を上げる。
――この人が。
織田信長。
もっと派手な男を想像していた。
目立つ着物。
大声。
いかにも俺が信長だ、みたいな。
でも違った。
静かだった。
その代わり。
目が怖い。
こっちを見ているだけなのに。
逃げたくなる。
信長の視線が、俺の腰へ落ちた。
いや。
もう短刀は取り上げられている。
さっきの男が前へ出た。
「信長様。こちらを。」
短刀が差し出される。
信長が受け取った。
鞘を見る。
柄を見る。
そして。
抜いた。
刃が光る。
俺の喉が鳴った。
信長はしばらく短刀を見ていた。
それから。
俺を見た。
「これはどこで手に入れた。」
来た。
一番答えたくない質問。
「……分かりません。」
部屋の空気が変わった。
横にいた武士が睨んでくる。
「貴様。」
信長が手を上げた。
男が黙る。
信長は俺から目を逸らさない。
「分からぬとは、どういう意味だ。」
「気がついたら……持ってました。」
自分でも何を言っているのか分からない。
信じてもらえるわけがない。
案の定。
誰も喋らない。
信長が聞く。
「名は。」
「久世玲央です。」
「久世?」
信長の視線が新七へ向いた。
「新七。」
「はっ。」
「知っておるか。」
新七が一度、俺を見る。
「存じませぬ。」
そりゃそうだ。
何百年も先の人間なんだから。
俺は息を吐いた。
でも。
そこで気づいた。
信長が俺を見ている。
怒っているようには見えない。
むしろ。
考えている。
「歳は。」
「十六です。」
「どこから来た。」
答えられない。
東京って言っても通じない。
この時代なら、江戸か。
でも。
江戸から来たと言えば、それはそれで話がややこしくなりそうだ。
「……遠いところです。」
また空気が重くなる。
信長が笑った。
「面白い。」
信長は短刀を鞘に戻した。
そして俺へ投げた。
「うわっ。」
慌てて受け取る。
周りの武士たちが驚いた。
俺も驚いた。
信長が言う。
「持っておれ。」
「いいんですか?」
言ってから気づく。
敬語。
いや。
この時代の敬語ってこれでいいのか。
信長は気にした様子もない。
「それを持つ理由があるのだろう。」
「俺にも分かりません。」
「ならば、分かるまで持っておれ。」
意味が分からない。
この人。
俺が思っていたより、ずっと変だ。
信長が立ち上がった。
部屋の空気が一気に変わる。
周りの武士が頭を下げた。
俺も慌てて下げる。
信長が俺の横を通る。
そして。
足を止めた。
「玲央。」
突然名前を呼ばれて、顔を上げる。
信長は俺を見ていた。
「お前、わしを知っておるな。」
心臓が止まりそうになった。
「……え?」
「初めて会う者の目ではない。」
何も言えなかった。
信長はそれ以上聞かなかった。
少しだけ俺を見たあと、新七へ視線を移す。
「新七。」
「はっ。」
「同じ久世か。」
新七が一瞬、俺を見る。
「……そのようにございます。」
信長が俺へ目を戻した。
「面白い縁じゃ。」
そして新七に言った。
「しばらく、お前が面倒を見てやれ。」
「はっ。」
俺は思わず新七を見る。
新七も、少し困った顔でこちらを見ていた。
信長はそのまま部屋を出ていく。
襖が閉まる。
しばらく。
誰も喋らなかった。
やがて新七が、小さく息を吐く。
「おぬし。」
「はい。」
「何者なんじゃ。」
俺は答えられなかった。
ただ。
一つだけ。
はっきりしたことがある。
俺は本当に。
織田信長に会った。
そして。
この時代で。
久世新七と一緒に暮らすことになった。




