第16話 信長の側近
馬廻に取り立てられてから、三日が過ぎた。
新七の朝は、これまで以上に早くなった。
まだ空が薄暗いうちに起き、身支度を整えて城へ向かう。
俺も一緒だ。
「新七さん、馬廻って毎日こんなに早いんですか?」
「上様がお目覚めになる前に、支度を整えておかねばならぬ。」
「信長様って、朝早いんですね。」
「お前が遅いだけじゃ。」
「まだ日も出てませんよ。」
「日が出るまで寝ておるつもりか。」
「できれば。」
新七は呆れた顔をした。
「お前を連れてきたのは間違いだったかもしれぬな。」
「今さらですか?」
「今さらじゃ。」
朝からひどい言われようだ。
けれど、新七の足取りは軽かった。
念願だった馬廻。
信長のすぐ近くで働けるのが、嬉しいのだろう。
俺も嬉しかった。
ただ、喜んでばかりもいられない。
馬廻になっただけでは、歴史の教科書には載らない。
ここから先、新七さんにどんな功績を立ててもらうか。
それが俺の次の課題だった。
***
安土城に着くと、新七は先輩の馬廻たちに挨拶をした。
「本日よりお仕えいたします、久世新七にございます。」
一人の武士が新七を見た。
「おお、そなたが久世か。」
「はっ。」
「近頃、上様のお耳にも名が届いておるそうじゃな。」
「恐れ入ります。」
「ここでは、これまでの働きなど関係ないぞ。上様のおそばで失態を犯せば、取り返しがつかぬ。」
「心得ております。」
武士は頷いた。
「よし。まずは持ち場を覚えよ。」
新七は城内の警護について説明を受けた。
信長が通る場所。
家臣たちが控える部屋。
許可なく立ち入ってはならない場所。
覚えることは山ほどあった。
俺はというと、新七の後ろについて歩くだけだ。
当然ながら、馬廻になったわけではない。
「玲央。」
新七が振り返った。
「はい。」
「勝手に歩き回るなよ。」
「分かってます。」
「人の話にも口を挟むな。」
「分かってますって。」
「上様に妙なことを申すな。」
「それ、何回言うんですか。」
「何回でもじゃ。」
まったく信用されていない。
まあ、これまでのことを考えれば仕方ないか。
***
しばらくして、城内が慌ただしくなった。
信長が姿を現したのだ。
周囲の武士たちが一斉に姿勢を正す。
新七も背筋を伸ばした。
信長は家臣たちの前を歩きながら、次々と指示を出していた。
「長秀には、城下の普請について報告させよ。」
「はっ。」
「近江の街道も見直せ。荷の行き来が滞ってはならぬ。」
「承知いたしました。」
歩きながら、話が進んでいく。
俺が学校で習った織田信長は、戦で勝ち続けた武将だった。
でも、目の前にいる信長は、それだけじゃない。
道を整え、城を築き、人を動かす。
一つの国を動かすだけでも大変なのに、この人はさらに大きなものを手に入れようとしている。
信長が足を止めた。
「新七。」
「はっ!」
突然名前を呼ばれ、新七が一歩前に出た。
「馬廻の務めは覚えたか。」
「ただいま教えを受けております。」
「そうか。励めよ。」
「はっ!」
信長はそのまま歩き出そうとした。
だが、俺に気づいて足を止めた。
「玲央。お前もおったか。」
「はい。おはようございます。」
「朝から眠そうな顔じゃな。」
「ちょっと早起きが苦手で。」
信長が笑った。
「新七。こやつを鍛え直しておけ。」
「承知いたしました。」
「ちょっと、新七さん!」
周囲の武士たちが笑いをこらえている。
信長は愉快そうに笑い、その場を去っていった。
俺は新七を見た。
「今の、冗談ですよね?」
「上様のお言葉じゃ。」
「本気にしないでくださいよ。」
「明日から、さらに早く起こすか。」
「勘弁してください。」
新七は珍しく声を出して笑った。
***
昼過ぎ。
信長のもとに、一人の使者が到着した。
近江の村々から集める荷について、問題が起きているという。
決められた場所に荷が届かず、運ぶ人足たちが混乱しているらしい。
報告を聞いた信長の表情が険しくなった。
「なぜ届かぬ。」
使者が頭を下げた。
「道中で荷を引き受ける者が定まらず、双方が相手の役目と申しておりまして。」
「役目を押しつけ合っておるのか。」
「はっ。」
信長は不機嫌そうに息を吐いた。
「つまらぬことで荷を止めおって。」
その場にいた家臣たちは黙っていた。
俺も口を閉じていた。
こういうとき、余計なことを言うと危ない。
信長はしばらく考えたあと、丹羽長秀に命じた。
「長秀。人を出して調べよ。」
「はっ。」
そのとき、新七が一歩前へ出た。
「上様。」
信長が目を向けた。
「何じゃ。」
「恐れながら、申し上げてもよろしゅうございますか。」
「申せ。」
「荷を運ぶ者と受け取る者、それぞれに役目を定めるだけでは、また同じことが起こりましょう。」
信長は黙って新七を見た。
新七は続けた。
「荷を渡した証しを残し、誰がどこまで運んだか分かるようにしてはいかがでしょうか。」
俺は思わず新七を見た。
そんなこと、いつ考えたんだ?
新七はさらに説明した。
「荷を受け取った者が、その場で品と数を確かめる。食い違いがあれば、その場で申し出るようにいたします。」
丹羽長秀が頷いた。
「なるほど。それならば、後になって責任を押しつけ合うことも減りましょう。」
信長は新七を見た。
「以前、荷の扱いを改めたことがあったな。」
「はっ。」
「その経験か。」
「左様にございます。」
信長は少し考えた。
「よし。そのやり方で進めよ。長秀、新七にも手伝わせい。」
「承知いたしました。」
新七が深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ。」
信長は満足そうに頷いた。
俺は、そのやり取りを黙って見ていた。
すごい。
新七さん、信長に自分から意見を言った。
しかも、それが採用された。
俺が何かを教えたわけじゃない。
新七さん自身が考え、認められたのだ。
***
夕方。
城での務めを終えた新七と、帰り道を歩いていた。
「新七さん。」
「何じゃ。」
「今日、すごかったですね。」
「何のことじゃ。」
「信長様に意見を言ったじゃないですか。」
「あれか。」
「俺、びっくりしましたよ。」
新七は少し笑った。
「以前のわしなら、黙っておったかもしれぬな。」
「ですよね。」
「そこは否定せぬのか。」
「だって、本当でしょう?」
「まったく、お前という奴は。」
新七は笑っていた。
俺はその横顔を見ながら考えた。
最初に会った頃の新七さんとは、ずいぶん違う。
任された仕事をこなすだけじゃない。
今は、自分の考えを信長に伝えられるようになった。
もしかすると。
この人は、俺が思っている以上に出世するかもしれない。
「新七さん。」
「何じゃ。」
「次は、もっと大きな仕事を任されるといいですね。」
「そう簡単にはいかぬ。」
「でも、今日みたいなことを続けていけば、きっと。」
新七は少し黙った。
やがて、静かに口を開いた。
「玲央。わしは、上様のおそばに仕えることができるようになった。」
「はい。」
「じゃが、それだけで上様をお守りできるわけではない。」
俺は新七を見た。
新七の表情は真剣だった。
あの未来。
本能寺の変。
新七さんは、ずっとそのことを考えている。
俺が目指しているのは、新七さんの出世だ。
いつか歴史の教科書に名前が載るほどの武将になってほしい。
でも、新七さんは違う。
この人は、本気で信長を守ろうとしている。
「新七さん。」
「何じゃ。」
「まだ一年半くらいあります。」
新七が頷いた。
「うむ。」
「今は、信長様にもっと信頼してもらいましょう。」
「そうじゃな。」
新七は安土城を振り返った。
夕日に照らされた天守が、遠くに見える。
「玲央。」
「はい。」
「わしは、もっと上へ行くぞ。」
俺は笑った。
「もちろんです!」
新七も笑った。
その言葉を、俺はずっと待っていた。
馬廻は、まだ始まりにすぎない。
俺の先祖、久世新七。
この男を、歴史の教科書に載せてみせる。
俺は改めて、そう心に決めた。




