08_北へ
北へ
誰も、何も言わなかった。
連れて行かれた男の家では、その晩、灯が点いていた。泣き声はしなかった。翌日、その家の者は畑に出た。出て、いつもどおりに働いて、日が暮れたら戻った。
村長は、次の日も村長だった。
年寄りは祠堂に集まって、来年の水の分け方を半日かけて決めた。決まったことには誰も逆らわなかった。
紙のことを言う者は、一人もいなかった。全員が指印を押した紙である。押した指のことを口にすれば、押したことを認めることになる。だから誰も言わなかった。
タクは、五日ほど待った。
誰かが何か言うだろうと思っていた。言わなかった。
六日目に、婆さんが辮を編んだ。
櫛を通して、三つに分けて、うえから編み込んでいく。手は前より遅くなっていた。目がもっと悪くなっていた。
「ようけ生えとる」
いつもと同じことを言った。
タクは、何も言わなかった。
あの男が最初に村へ来たのは、その年の春だった。
三十くらいに見えた。長衫を着ていたが、裾が擦り切れていて、履物は草鞋だった。荷は肩に掛けた布袋が一つきりで、中身は筆と墨と紙と、着替えが一枚だった。
川上の、もっと上の方から来たのだと言った。
生まれは村で、家は田を少し持っていた。子供のうちに私塾へ入れられ、四書を読まされた。そこまでは、この国のどこにでもある話だった。
科挙は受けなかった。
受ける気でいたのに、途中でやめたのだと言った。理由は、聞いた者によって少しずつ違った。金が続かなかったと言ったこともあり、読めば読むほど、あれを通った者がやっていることと書いてあることが合わんと分かった、と言ったこともある。
その頃、そういう若い男が国じゅうにいた。
字が読めて、田を耕さず、官にもならない。行き場のない読み書きだけが手元に残る。彼らは新聞を読み、外国の話を読み、外国へ渡った者の書いたものを読んだ。読んだものを、読めない者に喋って回るようになる。
こういう者たちをまとめて新学と呼ぶものもあった。
前の年、その新学の男は省都にいた。
人が集まっていた。学堂の教師や学生と、会党の頭とが寄り合って、秋に事を起こす相談をしていた。
会党というのは、この国の古い結社である。
食い詰めた者や、兵の脱けた者が集まって、盃を交わして義兄弟になり、互いに助け合う。像を立て、序列を作り、掟を作る。
モウの村の自警団も、成り立ちだけを見れば同じ形をしていた。
形が同じだというだけである。それが国じゅうに、別々にあった。
その別々のものを、一つに繋ごうとする者が出てきた。
字の読める新学の若い連中と、会党とが、そこで手を組もうとした。
喋る言葉を持っているのは、新学の若い連中の方だった。人数と腕を持っているのは、会党の方だった。
事は、起きる前に漏れた。
支度をしているうちに知れて、役所が先に動いた。捕まった者があり、殺された者があり、外国へ逃げた者があった。頭格の男は上海を経て、海の向こうへ渡ったという。
その新学の男は、逃げた側だった。
省を出て、それから村を回るようになった。
「都で事を起こすのは、もうやめた」
と、その男は言った。
夏の夕方で、祠堂の前に若い衆が十人ばかり集まっていた。タクは輪の外側にいて、大人たちの背中の隙間から聞いていた。
「都で人を集めても、県令の首をすげ替えるだけだ。次の県令が来る。同じことをやる」
誰かが、では何をするのかと訊いた。
「村だ」
新学の男は地面に棒で線を引いた。
この村に、いくつ家があるか。隣の村に、いくつあるか。その隣に、その先に。線が何本も引かれて、そのあいだが繋がれた。
「一つの村が納めるのをやめたら、県は兵を出す。出して、一人挙げて、終わりだ。おまえたちも知っとる」
知っていた。
「だが、十の村が同じ日にやめたら、どうなる」
誰も答えなかった。
「県には、十の村へ同時に出すだけの人がおらん。おらんから、話をしに来る。話をしに来た時点で、こっちが勝っとる」
その晩から、紙の話になった。
口約束では駄目だと、男は言った。一つの村が怖じ気づけば、残りが潰される。約束したという証が要る。だから紙に書いて、名を並べて、指印を押す。
「けど、その紙が役所に行ったら」
誰かがそう言った。
「行かんようにする」
新学の男は、そこで書き方を説明した。
順に並べれば、一番上に書いた者が首謀者になる。だから円く書く。端をなくす。どこから読んでも、どこかで元に戻る。そうすれば役人は、誰が言い出したのかを紙から読み取れない。
自分の名も、その円の中に入れると言った。
書いた者だけが円の外にいるのでは、書いた者が首謀者だとすぐに分かる。だから中に入る。仲間だという印でもある、と言った。
その夜、若い衆が順に指を切って、押した。
タクは押していない。十三だった。
新学の男が村を出たのは、秋の初めである。
朝のうちに発つと言って、前の晩に若い衆へ行き先を告げた。
北の都会だと言った。川沿いの、荷揚げ人足の集まる一角のことも言った。あそこの飯屋に行けば居場所は知れる、いつでも来い、と言った。
それから、一つだけ頼んだ。
「役人には言うな」
言い方は、それだけだった。脅しもしなかったし、念も押さなかった。頼んだというより、当たり前のことを確かめたような口ぶりだった。
若い衆は、頷いた。
タクも、輪の外で頷いた。
その半月あまり後に、牛車が三台来た。
紙は、前の晩に祠堂で決まって、朝に村長が運んだ。
役人には言うな、と頼まれた紙である。頼まれたことを覚えていた者が、あの晩の祠堂には何人もいた。年寄りは半日かけて、それを承知のうえで決めた。
決めたことには、この村では誰も逆らわない。
紙を書かせたのも村だった。押したのも村だった。出したのも村だった。三つとも同じ村がやって、そのあいだ誰の考えも変わっていない。ただ、順番に、そのときいちばん損の少ない方を選んだだけである。
新学の男は、そこまで承知していたのかもしれなかった。承知したうえで、行き先を告げていったのかもしれない。
タクには、そこは分からなかった。
分かったのは、村がそういうものだということだけだった。
村を出たのは、七日目の朝だった。
誰にも言わなかった。持って出たのは、婆さんが編んでくれた辮と、母が縫った上着と、乾かした芋が少しだけだった。母の碗には、湯を入れておいた。
まだ暗かった。犬は鳴かなかった。
米が下っていくのは、上海の方である。
村の者はそれを知っていた。牛車が出ていく道と、川の流れる向きと、荷が着く先とが、頭の中で一つに繋がっている。上海というのは、そちらの果てにあるものだった。
タクは、反対へ歩いた。
三日で芋がなくなった。四日目に、川筋の町に出た。
町には、船着場があった。
艀が何艘も繋いであって、荷が積まれていた。人足が板の上を行き来していた。
タクは、親方らしい男のところへ行った。
「何か、やることはありませんか」
食わせてくれ、とは言わなかった。
言えばもらえたかもしれない。もらえなければ、そこで終わりだった。あの村を出てきた理由が、それだと自分では思っていた。あの庭には、米を作らない者ばかりが来ていた。役人も、組も、地主も、村長も、誰一人として田を起こしていない。取る側にいる人間の顔は、もう十分に見ていた。
言葉にできたわけではない。ただ、口が先にそう動いた。
男はタクの背丈を見て、それから肩を見た。
「担げるか」
「担げます」
岸から船へ、板が二本渡してあった。
幅は、足の裏より少し広いだけである。長さは五間ほどあって、真ん中がたわんでいた。下は水だった。
積むときは、右の板を使う。空身で戻るときは、左の板を使う。決まっていて、間違えると怒鳴られる。
人足は列になって渡った。
前の男との間を、二歩ぶん空ける。詰めすぎると板が同じ方に沈んで、二人とも振られる。空けすぎると列が止まって、後ろがつかえる。
板は歩くたびにしなった。踏み込んだ足の下で沈んで、次の足を出したときに跳ね返ってくる。跳ね返りに合わせて足を出せば楽で、外せば体が持っていかれる。
止まってはいけなかった。
止まると板が上下に揺れはじめて、収まらなくなる。だから怖くても歩き続ける。荷を担いでいるので下も見えない。見えるのは前の男の踵だけである。
掛け声があった。
節のついた短い声で、意味はない。板の上の全員が同じ拍で足を出すためのものだった。声に足を合わせていれば、板は一定の揺れ方をする。
最初の日、タクは三度、板の上で足を止めた。三度とも怒鳴られた。
二日目には、止まらなくなった。
四日、積んだ。
飯が出た。夜は艀の上で寝た。
五日目に、船が出るというので、乗せてくれと頼んだ。北へ行きたいのだと言った。親方は、途中まで乗せてやると言った。
積んであるのは、米ではなかった。
鉄の罐が並んでいた。四角くて、油が入っているのだという。灯りに使う油で、海の向こうから来る。それが木箱に二罐ずつ収まって、箱ごと積み上げてあった。
その隣に、布の梱があった。機械で織った布で、これも外から来る。
塩の俵もあった。
全部、下から上へ運ばれるものだった。
米は下る。これは上る。
船は、平たかった。
枝分かれした川筋を行く船で、帆はない。水が浅いので喫水も浅く、荷を積むと縁が水に近くなった。竿で押し、櫓で漕ぎ、それで足りなければ岸から曳く。
下りは流れに乗ればいい。上りは、流れに逆らって進む。
曳くのは、人である。
二日目の午後に、風が落ちた。
船頭が岸を指した。人足が順に舷から降りて、浅いところを歩いて岸へ渡った。タクもついていった。
太い綱が船首から出ていて、その先が何本かに分かれていた。分かれた先に、それぞれ短い革帯が結んである。
その帯を、肩から斜めに掛ける。
掛けてから、前を向いて歩く。腰を折らないと力が入らない。折ると、目に入るのは足元の石ばかりになる。
岸には細い道があった。何十年も曳き船が通ってきた道で、地面が固く踏まれて、ところどころ石が剥き出しになっていた。草鞋の裏はすぐに切れた。
最初の一歩が、いちばん重かった。
船が止まっているうちは、水がまるごと重い。何歩か進んで船が動きだすと、少し楽になる。楽になったところで、歩調を合わせる。前の男の踵を見て、同じ拍で足を出す。
揃わないと、船が振られた。
振られると綱が緩んで、次に張ったときに肩へ食い込む。食い込むと痛いので、揃えるようになる。誰も教えなかった。二度食い込めば覚える。
タクの肩に、その日のうちに赤い筋が二本ついた。
曳きながら、川を見た。
川筋は、行くほど太くなった。
枝が寄り集まって一本になり、それがまた別の枝と合わさる。合わさるたびに水の面が広くなって、岸が遠くなった。曳く道も、幅が出てきた。
下ってくる船と、何度もすれ違った。
俵を積んでいた。筵をかけて、縄をかけてある。流れに乗っているので速い。誰も漕いでいなかった。
あれは下る。こちらは曳く。
同じ川で、米は座って流れていき、油と布は人が肩で引き上げていた。
四日目の昼に、川が終わった。
終わったのではなかった。開けたのである。
枝の川が本流に出た。
向こう岸が、霞んでいた。目を凝らしても、家の形が見えるだけだった。水の色が変わっていて、流れが速く、白いものが立っていた。風が正面から来た。
タクは、綱を肩から外して、しばらくそこに立っていた。
これだけの水が、どこから来るのかを考えた。考えても分からなかった。上に村がある。その上にも村がある。その上にも。全部の村の前を通ってきた水が、ここに集まっている。
そして、下っていく。米と一緒に。
合流点に、大きな船が待っていた。
帆が二枚あった。舷が高く、荷を積んだままでも縁が水から遠かった。板も、こちらの倍ほどの幅があった。
荷を積み替えた。
罐の箱を一つずつ担いで、小さい方から大きい方へ移す。同じ荷である。
数え方が、そこで一段細かくなった。
箱の数を口で言い、別の男が帳面に書き留め、蓋に貼ってある紙が剥がれていれば貼り直した。割れていないか、濡れていないかも見た。一箱ずつ見た。
村の庭では、こぼれた米は掃いて集めて、ひと握りにもならなかった。
ここでは、誰も何もこぼさなかった。こぼれるようなものを運んでいなかった。
大きい船には、帳面をつける男がいた。
艫の日の当たるところに床几を置いて、そこに座っていた。荷が動くたびに何か書いていた。
立たなかった。荷には触らなかった。人足の顔も見なかった。
床几と、帳面と、筆である。
村の庭で見たのと、同じ形だった。着ているものと、座っている場所が違うだけだった。
船の上では、話がよく聞こえた。
歩いていれば、宿場で切れ切れに耳に入るだけである。船だと、同じ連中が何日も同じところにいて、喋ることがなくなるので、方々の話が出てくる。
北の戦の話が、いちばん多かった。
去年から今年にかけて、この国の北の端で、外国が二つ戦をしていた。国の中が戦場になり、大砲を撃ち合い、何万も死んだ。町が焼け、畑が踏まれ、そこに住んでいた者が逃げた。
朝廷は、局外中立を宣言していた。
自分の国の中で外国同士が戦っているのに、うちは関わりません、と言った。言うより他になかった。言わなければ、どちらかに味方したことになって、その相手と戦をすることになる。
「うちの国でやっとるのに、うちは関わらんのか」
「関わったら、負けた方の相手にされる」
「どっちも敵じゃろが」
誰かが笑った。
北の王国は、昔から取っていく側だった。東北の海に面した一帯を、一発も撃たずに持っていったのだと、年嵩の男が言った。十年前には、東の島国が取った半島を返させて、返させておいて自分が借りたのだとも言った。
「そんで、今度は取り合いか」
「取り合いだ」
「うちの土地でな」
誰も、それ以上言わなかった。
秋のはじめに、講和が成ったという話が回ってきた。片方が勝ったのだ、という言い方をする者がいた。
タクには、勝ったからどうなるのかが分からなかった。
誰も、そこは説明しなかった。
川沿いの町を、いくつも通った。
灯りのついた町があった。飯屋があって、酒があって、芝居小屋があった。人が太っていた。
そういう町には、船着場があり、倉庫があり、油の罐と布の梱が降ろされていった。
降ろした先から、荷は小さい船に移されて、細い川筋へ入っていく。その先に村がある。
村から出ていくのは米で、村へ入っていくのは油と布と塩だった。
タクは、綱を担いだ肩を回しながら、それを見ていた。
北の都会に着いたのは、村を出て二十六日目だった。
川が広かった。向こう岸が霞んで見えるほどあった。船が、数えられないほど浮いていた。
川沿いに、石を敷いた広い道があった。道の片側に高い建物が並び、木が等間隔に植わっていた。人が歩いていて、走っている者はいなかった。埃が立っていなかった。
そこには入れなかった。
柵はなかったが、入れないことは見れば分かった。
入れない側に、荷揚げの人足が集まる一角があった。
あの男が言っていたのは、ここだった。
飯屋を探す前に、まず食わねばならなかった。タクは親方のところへ行って、いつもの言い方をした。何か、やることはありませんか。
十日ほど、そこで働いた。
俵は、村で担いでいたものより重かった。船から降ろして倉庫へ運び、あるいは倉庫から出して船へ積む。倉庫は川に沿っていくつも並んでいて、それぞれ別の国のものだった。
どれがどの国かは、分からなかった。
旗の色が違い、建物の造りが違い、そこにいる連中の顔が違った。去年まで北で撃ち合っていた二つの国の荷が、同じ川岸に並んで置いてあった。並んでいることを、誰も妙だとは言わなかった。
タクに分かったのは、荷の重さだけだった。
外国の人が、日除けの下にいた。
椅子を置いて、そこに座って、膝の上で帳面をつけていた。荷が一つ通るたびに、筆を動かした。
立たなかった。
荷には触らなかった。人足の顔も見なかった。親方が来て何か言うと、頷いて、また帳面に戻った。
三度目だった。
村の庭で一度、船の艫で二度、ここで三度。
三度見れば、さすがに何か思う。思っただけで、言葉にはならなかった。
あの新学の男を見つけたのは、その一角の飯屋だった。
荷揚げの終わったあと、そこで飯を食う連中に交じって、何日か通った。四日目の晩に、男が入ってきた。
男は、驚かなかった。
顔を上げて、タクを見て、それから床几の隣を空けた。
「歩いてきたのか」
「歩いて、船に乗せてもらいました」
「何日だ」
「二十六日です」
男はタクの手を見た。指の付け根が硬くなっていて、爪が割れていた。
「働いてきたな」
それから、丼を一つ頼んで、タクの前に置いた。
タクは食べた。食べているあいだ、男は何も訊かなかった。
食べ終わってから、タクが言った。
「連れて行かれました」
男は、まだ何も言わなかった。
タクは、名前を言った。庭に出てきて、自分で名乗って、縄をかけられて、県城の方へ歩いていった男の名前である。
新学の男は目を伏せて、しばらくそうしていた。
それから、顔を上げた。
「聞かせてくれるか。全部」
タクは喋った。
牛車が三台だったこと。役所の人が腰掛けから立たなかったこと。前の晩に祠堂で決まって、朝に村長が運んだこと。紙を膝の上で回して見ていたこと。それから、別の帳面を出したこと。
自分は持ち場にいて、見ていない。あとで人から聞いた。それも言った。
男は、最後まで黙って聞いた。
聞き終わってから、湯呑みを置いた。
「五年前のだ」
「五年前」
「その帳面は、五年前の分だ」
男は指で卓に円を描いて、その横に、まっすぐな線を一本引いた。
「円は、破られとらん。誰が言い出したかは、あの紙からは読めん。読めんまま、別のところから来た」
男は、円をもう一度なぞった。
「わしは、役人が円から選ぶと思うとった。選べんようにすれば、誰も出さんで済むと思うとった」
そこで、手を止めた。
「そうしたら、円を使わんかった」
しばらくして、男が言った。
「わしの名も、あの円の中にある」
タクは、顔を上げた。
「村にない姓だ。見りゃ分かる。字も全部わしの手だ。追えば、隣の村にも同じ紙がある。同じ姓が入っとる」
男は湯呑みを両手で持った。
「追われんかった」
それだけ言って、しばらく黙っていた。
それから、湯呑みを置いた。
「探すには人を出す。人を出すには理由が要る。出しても見つかるとは限らん。見つからんかったら、費やしただけになる」
男は指で卓を叩いた。
「三年で替わる者が、三年で終わらん仕事を始めるか」
「始めません」
「始めん」
男は湯呑みを持ち上げた。
「だから、簡単な方で役所の仕事を終わらせたんだ。五年前の帳面と、円と、同じ名が書いてあった」
新学の男は、そう言った。
「それでわしは、ここにおる」
新学の男は、そのあとで、なぜ今年の取り分が多いのかを話した。
五年前、北で戦があって、都が外国に入られて、この国は負けた。負けた分を金で払うことになった。四億五千万両という額で、三十九年かけて払う約束になっている。
その金は、どこからも湧かない。
省に割り当てられ、府に割り当てられ、県に割り当てられる。県は今ある税に足し、足りなければ名目を新しく作る。作った分は請負に出される。請け負った者は、約束の額さえ納めれば、その上にいくら乗せてもかまわない。
乗せた分が、官の枡になる。
枡が、あの庭に出る。
タクは、その話を前にも聞いていた。
夏に、村で聞いた。この男が同じことを喋るのを、若い衆の後ろで聞いていた。
あのときは、遠い話だった。北も、外国も、両という数も、どれも自分から遠かった。数の大きさが分からないので、大きいということも分からなかった。
いま、同じ話が、別のものに聞こえた。
あの日、庭に立っていた男が、なぜあの日に選ばれたのか。その理由を辿っていくと、五年前の北の話まで一本で繋がっている。途中で切れていない。誰も嘘をついていない。全員が、自分の持ち場のことを、そのとおりにやっただけである。
村も、そうだった。
それで、人が一人いなくなった。
タクは、腹の中で何かが動くのを感じた。憎む相手を探していた。探していたものが、そこにはいなかった。
「先生」
と、タクは言った。
男は、手を振った。
「よせ」
「けど」
「先生というのは、教える者と教わる者を分ける言い方だ」
男は湯呑みを持ち上げて、少し飲んだ。
「わしらは、そういう分け方をせん。同じことをやる者は、同じだ」
では何と呼べばいいのか、とタクは訊いた。
男は、少し困った顔をした。
「まだ、いい言い方がない」
それきり、その話はしなかった。
その晩、男はタクを泊めた。
狭い部屋で、卓が一つと、寝床が二つあった。壁に紙が貼ってあって、字が書いてあった。
男は卓の前に座って、筆を出した。
それから、タクの方を見た。
「字は、読めるか」
タクは、首を横に振った。
男は頷いて、紙を一枚、卓の上に置いた。
その頃、上海は冬に入っていた。
川筋の船着場へ、荷を受け取りに行く仕事だった。
上海の町のうちだが、外れの方である。川上から下ってきた船が着いて、そこで荷を降ろす。降ろしたものを組で受けて、町の中へ運ぶ。
カイと、ホーのアニキと、若い衆が二人。
船が遅れていた。
待つあいだに、カイは三度、人と喋った。
一度目は、隣に着いていた船の外国人だった。荷の上に腰を掛けていて、カイが何か言うと笑った。片言である。単語を並べて、指で数を出しているだけだった。それでも通じていた。
二度目は、南の方から来た船頭だった。訛りがきつく、何度も訊き返した。向こうも訊き返した。訊き返し合いながら、二人とも笑っていた。
三度目は、荷役の若い者で、これは上海の言葉だった。
三度とも、カイは笑っていた。
ホーのアニキが、荷車の向こうから見ていた。
「よう喋るな」
若い衆の一人が、驚いた顔をした。この男が笑うところを、あまり見たことがなかったのである。路地では人が避ける。組の中でも、用がなければ口を利かない。
ホーは、顎の引き攣れた側を撫でた。
「蒋のアニキもそうだったな」
誰とでも喋った。どこの言葉でも、通じるまでやった。そういう男だったのだと言った。
岸の方で、船乗たちが喋りだした。
川上の言葉だった。
カイは、荷車の轅に腰を掛けて、それを聞いていた。音の上がり下がりに覚えがある。
九年前の秋、櫃の中で聞いた。
村へ行くたびに聞く。ここでも聞く。
喋らなかった。喋りたくなかった。
ホーのアニキが、隣に来て座った。
しばらく黙って、それから言った。
「カイの、背が伸びたな」
カイは、何も言わなかった。
「蒋のアニキに似てきた」
それから、ホーは昔の話を始めた。
「あの人はな、売り物に手を出したんだ」
若い衆の一人が、笑った。
村から連れ帰る商品だった。荷の中に混じっていた娘で、村では評判だったらしい。蒋が一目で決めた。業者のところまで自分で行って、談判して、金で身請けした。
「まだ売り出しの頃だ。いまのカイの兄弟くらいの歳だな」
ホーは、そこでカイの方を見なかった。
「それで、嫁にしちまった」
若い衆が、また笑った。堅い人だと思っていた、という言い方をした。
「金はな、川上の金貸しから借りたらしい」
カイは、動かなかった。
川上、と聞いた。
路地で、悪ガキが言いかけた言葉である。お前の母ちゃん、川上で——。あのとき桶を置いて、負けて、キビが土間で殴られた。
取り立てが来るたび、母は泣いた。父は何も言わずに出ていった。子供の目には、父が母を泣かせているようにしか見えなかった。
その借金が、母を買った金だった。
ホーは、まだ喋っていた。
「あの人の最後の仕事はな」
湯呑みも持っていないのに、手が何かを持つ形になっていた。
「川上のやつらだ。こっちに出張ってきとった連中を、みんな畳んだ」
「それが最後ですか」
若い衆の一人が訊いた。
「最後だ」
ホーは、それだけ言った。
どうなったのかは言わなかった。知らないのか、言わないのか、そこは分からなかった。
しばらくして、ホーがカイの方を向いた。
喋り終わってから、そこにカイがいることに気がついた顔だった。
「おまえの母ちゃんだ」
カイは、訊かなかった。
なぜ組は、その借りを肩代わりしなかったのか。
肩代わりしときゃあ、よかったな。
あの晩、家の中で誰かがそう言った。よせ、とカシラが言った。
九つの晩から、カイはこの家の飯を食っている。
船が来た。
カイは轅を上げて、荷車を岸に寄せた。
降ろしが始まると、川上の言葉が岸に満ちた。カイはその中で縄を掛けた。二重に巻いて、余りを回して締めて、締めてから指を一本入れた。




