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07_輪

輪



 牛車は、モウの村の入口で停まった。毎年来る、白龍組の提灯を掲げている。


 左手の指が二本しかない年嵩の男が、腰に剣を提げた若い衆七・八人を連れていた。


 牛車は空だった。荷台に何も載っておらず、筵だけが畳んで隅に押し込んである。牛が二頭、順に首を下げて、道端の枯れた草を舐めていた。


 村の者は、外に出てこなかった。戸の内側から見ていた。


 台数を数えるのが、この村では先だった。何が積まれて出ていくかは、来た台数で決まる。五年前は男が引く荷車が一台だった。三年前は二台になった。去年は牛車が二台で、今年は三台ある。


 数えれば分かることは、数えなくても分かった。それでも数えた。



 役所の人は、駕籠から降りて、祠堂の庭へ入っていった。


 長い上衣を着て、帽子をかぶって、袖の中で手を組んでいた。年寄りが前に出て、長いお辞儀をした。役所の人は下げ返さず、頷いただけで、庭の隅を指した。腰掛けが運ばれ、そこに座って、膝の上に帳面を広げた。


 去年とは、別の人だった。


 この国では、役人は自分の生まれた省には赴任しない。同じ土地に長く置くと、地元と癒着して手がつけられなくなるからである。だから任地は他省に限られ、しかも数年で替わる。県令の任期は、おおむね三年。実際にはもっと短いこともあった。


 人は替わる。帳面は替わらない。


 役所に残るのは人ではなく紙のほうで、書かれたことは引き継がれた。


 村の者に、それが分かっていたわけではない。腰掛けに座っているのが去年と同じ人かどうかを、誰も確かめたことがなかった。長い上衣と、帽子と、帳面と、筆がそこにあれば、それは役所の人だった。


 牛車を引いてきた男たちも、確かめなかった。



 量りは、いつもどおりに始まった。


 庭に筵を敷いて、官の枡で量る。縁を棒で撫でて、余りを落として、桶へ移す。移すときにこぼれた分は掃いて集めて、それも桶に入れる。手つきについて何か言う者は、誰もいなかった。


 村の言葉が、庭に満ちていた。


 牛車の脇に立っている男には、一言も分からない。分からないのに、聞き覚えのある調子だった。九年前の秋、上海の家の庭で、男が三人、低い声で長く喋っていた。あのときも一つも分からなかった。


 カイは、荷台の縄を締め直した。



 量り終わると、男の一人が指を折って数えて、腰掛けの方へ行って耳打ちした。


 役所の人は帳面を見て、しばらく何も言わなかった。それから筆を取って、二行ほど書いた。


 年寄りが呼ばれた。


「足りない分は、村の借りになる」


 それだけなら、いつもの話だった。ただ今年は、そこにもう一行が付いた。


「この一帯の村々が寄り集まって糧を納めぬ約束をした、という届けが出ている。県はそれを鎮めるために人を出した。出した以上、費用がかかる。かかった費用は、鎮められた側が持つ」


 年寄りは、その意味が分かるまでに少し時間がかかった。分かってから、両手を前で合わせた。合わせただけで、何も言わなかった。


 抗えば、借りが増える。増えた借りは翌年また量りの日に出てくる。それが五年かけて村に染みたやり方だった。



 役所の人が、そこで初めて、少し長く喋った。


 村の方は見なかった。帳面を見たままで、覚えている文句を読み上げるような口ぶりだった。


「事の露見する前に自ら申し出た者は、罪を問わない。仲間を告げた者も同じである。届け出ずにいて後で知れた場合は、届けを怠ったこととして、その者が問われる」


 説明ではなかった。手続きの確認だった。


 それだけ言うと、また黙った。



 村は、その話を先に聞いていた。


 半月ほど前に、川下の村へ牛車が入った。あちらでも紙が出た。誰が出したのかは、話が回ってくるうちに落ちて、残ったのは結果だけである。出した村は咎めを受けず、若い者が一人挙げられて、それで済んだ。


 済んだ、という言い方で回ってきた。


 だから前の晩、祠堂に年寄りが六人集まったとき、話し合うことは実のところ何もなかった。答えはもう出ていて、確かめるだけだった。それでも半日かかった。決めるのに半日が要るのではなく、決めた形にするのに半日が要るのである。


 田の水を分けるときと同じ場所で、同じ座り方で、同じ半日だった。


 決まったことには、この村では誰も逆らわない。逆らえば、この村では暮らせない。



 村長が、庭に入ってきた。


 懐から紙を出した。折り目が四つ付いていて、端が擦れていた。両手で持って、腰掛けの前まで運んで、置いた。


 誰も止めなかった。年寄りも止めなかった。


 村長は、運んだだけである。


 村に入った余所者、怪しい寄合、そういうものは上へ届けることになっている。届けるのは村長の役目だった。届けなければ、届けなかったことが咎めになる。


 だから村長には、届けただけだという言い分があった。


 その言い分は、要らなかった。


 誰も、村長に何も言わなかったからである。


 役人は三年で替わるが、村長は替わらない。年寄りも替わらない。次に来る人ともやっていかねばならなかった。


 悪びれた様子は、庭のどこにもなかった。



 役所の人は、紙を開いた。


 名前が、円く並んでいた。


 端がない。上も下もない。どこから読み始めても、どこかで元へ戻る。一つ一つの名の下に、赤い指印が押してあった。


 首謀者を隠すために、そう書くのである。順に並べれば、一番上に書いた者が首謀者ということになってしまう。円くすれば、誰が言い出したのか分からない。


 役所の人は、それを膝の上で回した。二度ほど回して、それから顔を近づけた。


 姓は、全部モウだった。


 当たり前である。この村の者は代々そうで、祠堂の札もそう並んでいる。何十とある名前の、上の一字が全部同じだった。


 一つだけ、違うのが混じっていた。


 この村にない姓である。しかも字は、全部その手で書かれていた。筆の運びが速く、崩し方に癖がなく、どの名も同じ大きさで揃っている。書き慣れた者の字だった。


 役所の人は、そこで一度、筆の先を止めた。



 止めて、それだけだった。


 顔を上げなかった。庭を見回しもしなかった。その姓の男が今どこにいるのかを、村の者に訊きもしなかった。


 追えば、この村だけでは済まないことは分かる。同じ手で書かれた紙が、他の村にもあるはずだった。同じ姓が、そこにも混じっているはずだった。


 追うには、人を出す。人を出すには県に理由を通す。通しても、見つかるとは限らない。見つからなければ、費やしただけになる。


 しかも、その仕事は一年では終わらない。


 三年で任地を離れる者にとって、終わらない仕事を始めることに利はなかった。始めた者ではなく、次に来る者が片をつけることになる。今年の分を今年のうちに閉じた者が、正しく評価される。


 もう一つ、手元に帳面があった。



 県の帳面である。


 この村について書かれたことが、そこに溜まっていた。何年ぶんあるのかは、数えたことがない。誰が何を納め、誰が何を滞らせ、庭で誰が何を言ったか。書いた者は次々に替わり、いま県にいる者は一人もいない。それでも、書かれたものは残る。


 役所の人は、指で行を追った。


 遡っていくと、同じ名前が出てきた。


 紙の上に一つ、帳面の上に一つ。


 それで済んだ。


 探す必要がない。その日のうちに片がつく。県が求めているのは首謀者一名であって、事の仔細ではない。二度出た名前が一つある。それが答えだった。


 簡単な方を選んだのである。


 役所の人は、紙を畳んで、帳面のあいだに挟んだ。



 名を、読み上げた。


 庭の空気が動かなかった。誰も返事をしなかった。年寄りは目を伏せた。村長は、少し離れたところで自分の袖を見ていた。


 村の大人は、全員あの紙に指印を押している。誰も出なかった。


 出たのは一人だった。


 背の高い、二十五ほどの男である。壁際に立っていて、そこから庭の真ん中へ歩いてきた。


 五年前と同じで、自分で出た。今度は誰も腕を掴まなかった。年寄りも動かなかった。


 男は、腰掛けの前で立ち止まって、自分の名を言った。五年前と同じ言い方だった。村の言葉ではなく、たどたどしい方の北の言葉で、区切って、聞き取りやすいように、ゆっくり言った。


 役所の人は、帳面に一行書き足した。


 書き終わって、筆を拭いて、帳面を閉じた。


 それから、顎を庭の外の方へ、小さく振った。


 腰掛けからは、この日も一度も立たなかった。



 左手の指が二本しかない男が何か言った。左手を少し動かしただけで、どこかを指しているようだ。


 牛車の脇にいた男が、動いた。


 背が高く、痩せていて、肩の幅が出ていた。右の頬に白い線が一本あった。


 腰には短いものを差していたが、上着の前を合わせているので見えなかった。


 カイは、荷台から縄を取った。


 牛車を縛るための縄で、太さは指三本ぶんある。それを腕に巻いて、庭を横切った。


 首謀者の男は、待っていた。


 抵抗するという話にはならなかった。


 抵抗すれば、村に付けが回る。鎮めるための費用は鎮められた側が持つと、たったいま庭で言われたばかりだった。


 男も、それを聞いていた。


 カイはその後ろに回って、両腕を後ろで合わせさせ、手首を二重に巻いて、余りを腰へ回して締めた。締めてから、指を一本入れて、間を確かめた。きつすぎると道中で手が使えなくなる。使えなくなると歩けなくなる。歩けなければ、車に載せることになって、載せれば荷が減る。


 そういう理由で、加減した。


 男の顔は、見なかった。


 五年前、この庭でこの男が何か言い、腰掛けの人が筆を動かしたのを、カイは提灯を提げて見ていた。覚えてはいた。庭の隅で誰かが何か言って、それだけで済んだ日として覚えていた。それが目の前のこの男だということには、気がつかなかった。


 あの日も、名は口に出されていた。今日も出された。同じ音だった。


 カイは、どちらも聞いている。


 入らなかった。


 名前だけを耳に入れても、カイの頭には残らない。相手と喋れば残る。喋らなければ、音が通り過ぎるだけである。五年前、カイが見ていたのは荷だった。今日も、見ていたのは縄と手元だった。



 牛は取らなかった。


 牛を取れば、翌年、田が起こせない。起こせなければ翌年の米が出ない。米も牛も、来年また要る。だから村から牛を取ることはしないと、この商売では決まっていた。


 人は、別である。


 若い男が一人減っても、田は起こせる。誰かが余分に働けばいい。村は米を作り続ける。取れるものの中で、人がいちばん後に響かない。


 誰もそういう言い方はしなかった。ただ、そうなっていた。



 庭を出るまでに、少し手間取った。


 役所の人が、荷を出す前に人数と日数を訊いたからである。


 何人で行くのか。県城まで何日かかるのか。着くのは何日の何刻か。


 男の一人が答えた。役所の人は聞きながら書いて、書き終わると頷いた。


 そのやり取りのあいだ、役所の人は一度も相手の組の名を口にしなかった。「お前たち」で足りた。男の方も、「お役人さま」としか呼ばなかった。


 この日、庭で名を呼ばれたのは、一人だけだった。



 村を出て、坂を下ったところで、道が三つに割れた。


 分かれ道に、六人立っていた。


「川上のもんだ」


 ホーが、誰に言うでもなく言った。


 腰に牛尾刀を提げた男が四人と、年嵩が二人。提灯は持っていない。いつからそこにいたのかは分からない。カイは、その連中を見たことがなかった。


 駕籠が着くと、六人が前後についた。


 役所の人は、駕籠から降りなかった。年嵩の一人が簾の横で何か言って、頷いて、それだけだった。


 駕籠は、右へ行った。明日、別の村へ入る。今日と同じことを、明日もやるのだった。


 村の年寄りが道の端まで送って、頭を下げた。駕籠は止まらなかった。


 首謀者の男は、左だった。


 県城まで、歩いて二日ある。カシラが付いて、若い衆が二人。役所に引き渡して、帳面に一行書いてもらって、それで終わりになる。運び賃は、県から出る。


 男は牛車の後ろを歩かなかった。牛車と反対の方へ、二人に挟まれて歩いていった。



 牛車は、まっすぐ下った。


 ホーが割り振った。


「カシラに二人。あとは船着き場じゃ」


 カシラが付いていないときは、この男が言うことになっている。他に年嵩がいなかった。


 ホーは荷を一度見て、縄を一本だけ締め直させた。自分では締めなかった。



 船着き場までは、半日である。


 牛も車も、そこで借りたものだった。返して、米を船に積み替えて、あとは川を下る。船に乗るのもホーの班で、上海に着いて荷を渡すまでが仕事だった。


 道は下りだった。行きは空だったので牛が速かったが、帰りは積んでいるので遅い。同じ道が、倍ほどの長さに感じられた。


 村を三つ通った。


 どの村も、通ると戸が閉まった。閉まる速さが違うだけで、やることは同じだった。提灯を見ているのだった。畳んであっても、白い龍の紙は見える。


 二つ目の村で、子供が道端に立っていた。


 牛車が通り過ぎるまで、そこにいた。逃げなかった。カイの方を見ていた。カイも見た。目が合ったが、どちらも何もしなかった。


 三つ目の村では、誰も外にいなかった。


 夕方に宿場へ入って、牛を外して、飯になった。



 残ったのは、カイと、若い衆が三人と、ホーだった。御者は現地の者で、別に寝た。


 酒が出た。行きには出なかったものである。


 ホーが、荷の見張りの順番を決めた。二人ずつで、夜のあいだを分ける。決めてから、自分を最後に入れた。最後は明け方で、いちばん眠い刻である。


 誰も文句を言わなかった。


 そのうち一人が、役所の人の話を始めた。あの人は去年の人と違ったのではないか、と言った。別の一人が、去年のことなど覚えているのかと言った。覚えていない、と言われて、それきりになった。


 しばらくして、若い方の一人がまた言った。


「あの人、一人でしたな」


 誰も答えなかった。


「帳面持って、筆持って、それだけで。庭には一人も連れてこんかった」


 碗を置いて、笑った。


「あれ、揺すったら幾ら出ますかね」


 ホーが立った。


 張った。碗が飛んで、卓の向こうまで転がった。


「川上のもんが六人付いとったろうが」


 若い衆は口を押さえたまま、何も言わなかった。


「見とらんのか。お前、何を見て歩いとる」


 ホーはもう一度張った。


「官と揉めるな。掟じゃ」


 それから座った。


 誰も止めなかった。カイも止めなかった。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 カイは、役所の人の顔を思い出そうとしてみた。


 長い上衣と、帽子と、腰掛けと、帳面は出てきた。顔は出てこなかった。


 見ていなかったのだった。



 村では、日が傾いてから、タクが持ち場を下りた。


 村の東の外れに、道と畑の境の見えるところがある。夜通しそこに立って、余所者と猪を見る。何も来なければ、何も起きない。自警団の割り当てで、いちばん下がその持ち場だった。十四になっていた。


 牛車が来たのは、昼だった。


 持ち場を離れてはいけないと言われていた。何かあったときに、そこに人がいないと、あとで村が咎めを受ける。だからタクは、日が傾くまでそこにいた。


 村へ戻ったとき、庭の筵はもう片付けられていた。


 こぼれた米は掃いて集めてあって、ひと握りにもならなかった。牛車の轍が、庭の土に二筋、外へ向かって残っていた。


 その横に、足の跡が何十も重なっていた。



 井戸の横には、誰も座っていなかった。

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