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05_灯

灯



 一九〇〇年の夏である。


 噂が先に来た。


 北で、外国人が殺されているという話だった。次に、都が囲まれているという話になった。その次に、朝廷が戦をすると決めたという話になった。


 話は日ごとに変わり、変わるたびに大きくなった。事務所に出入りする男たちが、それぞれ違うことを言った。誰の話も、どこかで聞いてきたものだった。


「拳匪ちゅうのが出とるらしい」


「刀が刺さらんそうだ」


「阿呆か」


 カイは湯を運びながら聞いていた。十三になっていた。背は伸びたが、まだ小さい方だった。若い衆はもうカイと呼ぶ。古株の何人かは、たまにショウショウと言った。オヤッサンは、もう間違えなかった。



 その連中は、もとは拳法の団体だった。


 北の内陸の、日照りの続いた土地から起こった。作物が穫れず、外から入ってきた品物のせいで、機織りや運送で食っていた者の仕事が消えていた。教会が建ち、信者になった者だけが役所で優遇されるという不満もあった。


 彼らは、呪文を唱えれば刀も鉄砲も通らないと信じていた。信じて、実際に前へ出た。掲げた文句は、清を扶けて洋を滅ぼす、という意味の四文字だった。


 朝廷は、これを潰すか、使うかで割れた。


 このとき、決めていたのは玉座の帝ではなかった。二年前、帝が若い官僚たちと組んで急な改革を始めたのを、先の代から力を持っていた女が押し戻し、帝を宮中に閉じ込めていた。帝は玉座にはいたが、決めるのはその女だった。女の周りには、外国を憎む者が多かった。


 外国の公使たちは、この団体を取り締まれと繰り返し求めた。取り締まれば、民が離れる。取り締まらなければ、列国が兵を出す。


 六月二十日、都の路上で、ある国の公使が殺された。


 翌二十一日、朝廷は列国に対して宣戦を布告した。同時に、公使館の集まっている区域が包囲された。籠城は、八月の半ばまで続くことになる。



 北がどうなっても、上海は変わらなかった。


 役所は開いていた。荷は動いていた。賭場は毎晩立った。米の値だけが少し上がって、それから戻った。


「南は、やらんそうだ」


 カシラがそう言うのを、カイは聞いた。


「総督衆が、揃うて手を握ったと」


「朝廷が戦を言うたのに、やらんのですか」


「聞かんかったことにするんだ」


 カシラは、それ以上説明しなかった。


 カイは、聞かなかったことにするというのが、どういうことなのか分からなかった。上から言われたことを聞かないというのは、この家では有り得ないことだった。それをやって、しかも咎められない者がいるらしい。



 宣戦の報を受けた南の重臣たちは、あれは都にいる者が出させた乱れた命であって、国の意思ではない、という立場を取った。そのうえで、各国の領事と個別に約束を交わした。


 南では外国人に手を出さない。その代わり、外国の兵も南へは入れない。


 都が戦をしているあいだ、南半分は戦をしないことにした。決めたのは朝廷ではなく、地方を預かっている者たちだった。


 結果として、長江から南は戦火に触れなかった。上海の商売は続き、租界の灯は消えなかった。北で都が焼かれているあいだ、同じ国の南半分は平常どおりに動いていたのである。



 夏のあいだに、人が増えた。


 北から下ってきた者たちだった。荷を担いで、子供を負って、路地の隅に座り込んだ。何日かいて、いなくなり、また別の連中が座った。


 言葉が違うので、話は分からなかった。碗を出す家もあれば、戸を閉める家もあった。


 カイは、水場との往復でその横を通った。


 道を変えなかった。変えれば遠回りになるし、桶を提げて回り道をする理由がなかった。だから毎日、同じところを通った。


 座り方で、いつ着いたかが分かるようになった。


 着いたばかりの連中は、荷を体の前に抱えて座る。何日か経つと、荷が横に置かれる。もっと経つと、荷がなくなっている。売ったのか、取られたのか、どちらかだった。


 人数も減っていった。減った分がどこへ行ったのかは、誰も知らなかった。


 三日目か、四日目に、女と目が合った。


 子供を膝に抱えていた。子供の方は眠っているのか、目を開けていなかった。女は痩せていて、顔が日に焼けていた。年は分からなかった。母より若いようにも、ずっと上のようにも見えた。


 カイは通り過ぎた。


 次の日も、女はそこにいた。


 その次の日、女が何か言った。


 北の言葉だった。役人が使うのと同じ調子の音だったが、速くて、崩れていた。役所の人が読み上げるときの、区切って、はっきり言う喋り方とはまるで違った。


 時々、知っている音が混ざった。


 水、と言ったように聞こえた。


 それきりだった。前も後ろも分からなかった。カイは首を振った。振ってから、それでは通じないことに気づいた。何と言えばいいのか分からなかったので、桶を下ろした。


 女が、両手を出した。


 カイは、桶に両手を突っ込んで、水をすくった。


 合わせた掌に、少しだけ注いだ。こぼれた分が指のあいだから落ちて、地面が黒くなった。女は口をつけて飲んで、それから残りを子供の口に持っていった。子供は目を開けなかったが、口だけ動いた。


 女がもう一度、両手を出した。


 カイは、もう一度注いだ。


 それから桶を担いで、事務所へ帰った。減った分は、誰にも分からなかった。



 その晩、飯のあとで、ホーが言った。


「あれ、いつまでおるんじゃ」


「知るか」


「路地の端に座っとるだろう。あそこ、うちの持ち場じゃないんか」


「銭を取るんか。あいつらから」


 誰かが笑った。ホーも笑った。


「取れんな」


「取れんな」


 しばらくして、ホーがまた言った。


「取れんが、金にはなるじゃろ」


 誰も答えなかった。


「女と子供だけでも、いくらかにはなる。歩けるうちなら値がつく」


「攫うんか」


「攫うも何も」


 ホーは指で碗の縁を叩いた。


「あれは誰のもんでもない。座っとるだけじゃ」


 カシラが顔を上げた。


「拾うな」


「けど」


「厄介ごとを拾うな」


 ホーは黙った。


 カイは、板の間の端で碗を洗っていた。手は止めなかった。



 先生が来る日は、月に二度か三度だった。


 男たちの頭を順に剃っていく。前と横を当たって、辮を編み直す。そのあいだ、剃られている男は動けないので、黙って喋りを聞くことになる。


 先生は新聞を読んでいた。


 この街には申報という新聞があって、毎日出ていた。先生はそれを畳んで鞄に入れてきて、剃りながら中身を話した。剃られている男も、順番を待っている男も、字が読めない。読めるのは先生だけだった。


「北京は、まだ囲んどるそうだ」


「囲んどるのはどっちだ」


「うちの方が囲んどる。公使館を」


「勝っとるんか」


「勝っとらん」


 先生は剃刀を止めずに答えた。


「外国が兵を出した。八つだ」


「八つ」


「日本、露西亜、英吉利、仏蘭西、亜米利加、独逸、伊太利、墺太利。八つで一緒に来る」


 誰かが笑った。


「八つ相手に戦をしよるんか。うちの国は」


 誰も答えなかった。


 カイは、湯を継ぎ足しながら聞いていた。八つという数だけが、頭に残った。



 軍艦が上がってきたのは、その頃だった。


 川が近いので、汽笛はよく聞こえた。太い音が二つ、三つ重なって鳴ると、事務所の男たちが顔を上げた。


「また来たな」


「何隻おるんじゃ」


「知るか」


 外国の兵が揚がってくるという話は、前から出ていた。租界を守るためだと言っているらしかった。何から守るのかは、誰もはっきり言わなかった。



 その日、カイは包みを一つ届けに出た。


 行き先は境の近くだった。中身は訊かない。訊かないことになっている。腰に紐で括って、上着の前を合わせて歩いた。


 境の手前で、人が溜まっていた。道が塞がれていた。


 通りの向こう側から、列が来ていた。


 足音が揃っていた。それが遠くから聞こえてくるのが、まず妙だった。人が大勢歩けば足音は散らばるものだが、その音は一つの塊になって近づいてきた。


 地面が、少し鳴っていた。


 カイは足の裏で、それを感じた。何十人かが同じ拍で足を下ろすと、そうなるらしかった。近づくにつれて、音の粒が大きくなった。二つに割れることはなかった。ずっと一つのままだった。


 列は、四人ずつ並んでいた。


 同じ形の帽子をかぶり、同じ色の服を着て、同じ側に銃を担いでいた。歩幅が揃っていた。腕の振り方まで揃っていた。銃の角度も、全部同じところで止まっていた。


 道の両側に人が寄って、そこを通した。


 押されて、カイは後ろに下がった。もう一度押されて、壁際まで下がった。包みを腹で押さえた。


 カイは数えた。


 四人、四人、四人。数えているうちに、どこまで数えたのか分からなくなった。前の列と次の列の区切りが、途中から見えなくなるのだった。全部が同じ速さで動いているので、目の方が置いていかれる。


 列は長かった。なかなか終わらなかった。前の方は肌の色が濃く、頭に布を巻いていた。後ろの方は白かった。同じ服を着ているのに、顔つきがまるで違う連中が、同じ歩幅で歩いていた。


 途中で、号令がかかった。


 何と言ったのかは分からなかった。短い一言だった。それだけで、全員の足が一度に変わった。速さが変わったのか、踏み方が変わったのか、カイには分からなかったが、音が変わったので変わったのだと分かった。


 誰も遅れなかった。


 一人も、半歩ぶんも、遅れなかった。


 喧嘩なら、揃わない方がいい。同じ動きをする者が並んでいれば、まとめて崩せる。カイはそう思ったが、この連中を崩す絵は浮かばなかった。崩す前に、こちらが押し流される。狭い道へ引き込めばいいのかもしれないと考えて、それから、この連中は狭い道へは入らないのだと気づいた。


 道を空けさせる方が、先だった。



 その中の一人と、目が合った。


 白い方だった。若かった。髭がまだ薄かった。汗をかいていて、襟のところが濡れていた。


 列の外に目をやって、それが壁際の子供のところで一度止まった。


 止まって、それだけだった。


 男はまた前を向いた。歩幅は変わらなかった。


 列は行ってしまった。



 道が空いてから、カイは境の方を見た。


 柵と、その向こうに広い道があった。


 石が敷いてあった。埃が立っていなかった。撒いた水の跡が残っていて、道の真ん中が黒く濡れていた。こちら側は、乾いて白くなっている。同じ日で、同じ天気だった。


 木が植わっていた。等間隔だった。誰かが測って植えたのだと分かる並び方をしていた。


 鉄の柱が、木と木のあいだに立っていた。上に硝子の箱が載っている。夜に明かりが点くのはあれだろうと、カイは思った。昼のあいだは、ただの柱だった。


 人が歩いていた。走っている者はいなかった。


 荷を担いでいる者も、担いだまま走ってはいなかった。担ぐ者と、歩く者と、乗る者がいて、乗っている方が速いのに、その方が急いでいなかった。


 馬車が通った。石の上で、車輪の音が高かった。土の道では鳴らない音だった。


 こちら側は、いつもの路地だった。


 カイは包みを届けて、帰った。



 八月十四日、連合軍が都に入った。


 実権を握っていた女は帝を連れて城を出て、西の街まで落ちのびた。都は各国の軍に分割して占領され、宮城も略奪を受けた。誰が何をどれだけ持ち出したかは、いまも数え切れていない。


 講和がまとまるのは、翌年である。


 条約で決まった賠償金は、四億五千万両。この国の人口ひとりあたり一両という計算だったといわれる。三十九年の分割払いで、利息を入れると倍近くになった。


 その金は、天から降ってはこない。


 税に上乗せされ、地方に割り当てられ、県に割り当てられ、村に割り当てられる。役所の帳面に一行増える。そして翌年も、その次の年も、庭に筵が敷かれ、官の枡が出される。


 北で焼けた分を、焼けなかった土地が払うことになったのである。



 その晩、カイは湯を汲みに出た。


 老虎灶までの道の途中に、少し高くなったところがある。前に一度、担いだ荷を下ろして休んだ場所だった。


 カイは壺を下ろして、屋根の向こうを見た。


 明るかった。


 白っぽい明かりが、空の低いところに浮いている。夏なので、まだ人が出ている時分だった。境の向こうでは、いまも人が歩いているのだろうと思った。あの鉄の柱の上の箱に、火が入っているのだろうと思った。


 北では、都が焼けているという。


 ここでは、灯りが点いている。


 カイは、それをしばらく見ていた。何かを考えたわけではなかった。考えるための言葉を、まだ持っていなかった。ただ、そのことは覚えた。


 壺を担いで、走った。

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