↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/15

04_桝

枡



 朝は、髪から始まる。


 婆さんが土間の入口に腰かけて、タクを前に座らせる。櫛を通して、三つに分けて、下から編み上げていく。前と横は、月に一度、村を回ってくる剃り屋が剃る。あいだは伸びるに任せてある。


「まだか」


「まだだ」


 川の上の村だった。ここから川を下っていくと、そのずっと先に上海があるのだと、タクは聞かされていた。行った者は、帰ってこなかった。


 婆さんの手は遅い。目が悪いので、指で探りながら編む。タクの辮は太くて、片手では握りきれない。編み終わると、根本のあたりが引っ張られて、後ろに首が下がる。重いのだった。


「ようけ生えとる」


 婆さんはいつもそう言う。


「そんなら、少し減らしてくれ」


「阿呆」


 軽く頭を叩かれた。



 朝の粥は、匙が立たなかった。


 水の中に米粒が泳いでいるのが見える。数えられるほどだった。タクは碗を両手で持って、縁から少しずつ啜った。啜ると腹の中が温かくなるが、それは湯が温かいのであって、米が温かいのではない。それでも温かい方が腹は落ち着くので、熱いうちに飲んでしまうのがよかった。


「もっと食え」


 母が自分の碗をタクの前に置いた。


「母ちゃんは」


「食うた」


 碗の中は、湯だけだった。



 村は、みな同じ姓だった。


 どの家もモウといい、少し離れた家もモウといい、川向こうの三軒もモウといった。祠堂には木の札が並んでいて、そこに何十代ぶんの名前が書いてあるのだと聞かされていたが、タクは字が読めないので、並んでいるということしか分からなかった。


 揉め事があると、年寄りが祠堂に集まって決めた。田の水をどう分けるか、誰の家の牛を先に使うか、そういうことを半日かけて決めた。決まったことには誰も逆らわなかった。逆らえば、この村では暮らせない。


 去年も洪水で田が水をかぶった。今年は出穂の時期に大水が出た。稲は立ったが、穂が軽かった。刈ってみると、去年よりさらに少なかった。それでも納めるものは去年と同じだけあった。地主に納める分と、役所に納める分と、借りた分の利息と、三つある。三つとも、稲の出来とは関係なく決まっていた。



 水を汲みに行くと、ランがいた。


 石の縁に籠を置いて、菜を洗っていた。指が赤くなっている。水がまだ冷たい時期だった。


 髪は両側で結ってあった。耳の上に一つずつ、輪にして丸めて、根元を赤い紐でぐるぐる巻きにしてある。しゃがんで手を動かすたびに、その二つが少し揺れた。着物は何度も洗って色が落ちていたが、紐だけは色が濃かった。


 隣の家の娘で、十七だった。遊んでもらった覚えはあるが、それはずいぶん前のことで、いまは面倒を見てくれる側だった。


「おはよう、ラン姉ちゃん」


 タクは走っていって、背中に乗った。


「重いよう」


 ランはよろけて、片手を石についた。それから笑った。


「もう大きくなったんだから、乗るんじゃないの」


 言いながら、振り落としはしなかった。膝を伸ばして、タクを背負ったまま立ち上がった。二歩あるいて、また笑った。笑うと目が細くなって、口の端が上がった。


 タクの顔は、ランの首のすぐ後ろにあった。


 両側の団子は、耳の上で動かなかった。動かないぶん、その下の生え際に、短い毛が何本も残っているのが見えた。まとめきれなかったのが、うなじの真ん中で小さく渦を巻いている。そこだけ産毛が細くて、色が薄かった。汗で、二、三本が肌に貼りついていた。


 濡れた手が、タクの脛を掴んで支えていた。


「ほら、降りな」


 降ろしてから、ランはタクの前に回ってしゃがんだ。


「辮が曲がっとる」


「婆ちゃんが編んだ」


「婆ちゃん、目が見えんもんな」


 ランはタクの太い辮を持ち直して、編み目を指で締めた。指が速かった。婆さんの三分の一の時間で終わった。顔が近かった。菜の匂いと、水の匂いがした。目の下に、小さな黒子が一つあった。


「重たいやろ、これ」


「重たい」


「切ったらええのに」


「切ったら役人に叱られる」


「叱られんよ。ちょっとくらい」


 ランは笑って、桶を提げて先に行った。歩きながら何か歌っていた。節だけで、言葉のない歌だった。



 荷車が来たのは、昼前だった。


 犬が先に鳴いた。


 タクは畑の縁にいて、乾いた土を掘り返していた。顔を上げると、村の入口の道に人影が見えた。四人か、五人。荷車を一台引いていて、その横に、もう少し小さいのがいた。


 自分と同じくらいの背丈の子供だった。少し高いかもしれない。痩せていて、日に焼けていて、右の頬に白い線が一本あった。古い傷が塞がった跡だった。手には畳んだ提灯を提げていて、腰に短い剣をさげていた。


 辮が、細かった。


 タクの半分もなかった。編んであるというより、束ねてあるように見えた。


 先頭に、駕籠が一挺あった。


 降りてきたのは、役人だった。長い上衣を着て、帽子をかぶって、袖の中で手を組んでいた。荷車を引いていた連中とは、着ているものがまるで違った。日に焼けてもいなかった。


 荷車の男たちは、上海の言葉で喋っていた。


 タクにはほとんど分からない。音の上がり下がりが違う。同じ国の言葉には聞こえなかった。年に何度か来る連中で、来るたびに同じ喋り方をした。役所の人と話すときだけ、彼らはまた別の喋り方をした。それも分からなかった。


 祠堂の前で、年寄りが待っていた。いちばん年嵩の一人が前に出て、頭を下げた。長いお辞儀だった。役所の人は下げ返さず、頷いただけで、庭を指した。


 荷車が庭に入った。


 役人は、庭の隅に運ばれた腰掛けに座った。それきり立たなかった。膝の上に帳面を広げて、筆を持っていた。


 働くのは、荷車の男たちだった。


 役人は、その男たちに名を訊かなかった。どこの誰が来ているのかを、確かめる素振りもなかった。荷車と、それを引く人数が揃っていれば、それでよかった。男たちの方も、腰掛けの人が去年と同じ人かどうかを気にしていなかった。


 村の若い衆が、離れたところに集まっていた。


 自警団の連中だった。夜回りをして、猪を追い、余所者が来れば見に行く。棒を持っている者もいた。だが、庭には入らなかった。年寄りが一度そっちを見て、顎を小さく振った。それだけで、若い衆は動かなくなった。



 母に呼ばれて、タクは水を運んだ。


 欠けた碗を四つ盆に載せて、庭へ持っていく。取り立てに来た者にも、村は水を出す。茶があれば茶を出す。今年は茶がなかったので、水だった。


 男たちは受け取って、飲んだ。飲みながら喋っていて、タクの方は見なかった。空になった碗を、見もせずに盆へ戻した。


 碗が一つ残った。


 タクは、荷車の横に立っている小僧のところへ行った。


 タクは碗を差し出した。


 小僧は受け取った。飲んだ。碗を返した。


 顔は見なかった。


 礼も言わなかった。嫌そうにもしなかった。ただ、そこに人がいると思っていないようだった。飲み終わると、また荷車の方を向いて、大人たちの手元を見ていた。


 タクは盆を持って戻った。



 枡が出された。


 庭に筵を敷いて、その上で量る。斗枡は駕籠と一緒に運ばれてきたもので、村のものではなかった。役所の枡だった。年寄りが一度それを見て、何も言わなかった。官の枡に文句をつけるということが、何を相手に文句をつけることになるのか、年寄りには分かっていた。


 量りが始まった。


 米を枡に入れて、縁を棒で撫でて、余りを落として、それから桶へ移す。移すときに少しこぼれる。こぼれた分は筵の上に落ちるが、拾って戻すことはしない。掃いて、まとめて、それも桶に入れる。


 タクは母の後ろに立って、見ていた。


 枡に入れるときの手つきが、途中から変わった。最初は縁いっぱいまで入れて撫でていたのが、そのうち山にしてから撫でるようになった。撫でる棒の当て方も浅くなった。同じ一杯なのに、後の方が多い。


 若い衆の一人が、前に出た。


 背の高い、二十くらいの男だった。タクの家の遠い縁者で、去年、猪を一人で仕留めた男だった。


 量っている男の前は素通りして、庭の隅の腰掛けの方へ行った。


「お役人さま」


 村の言葉だった。それから、覚えている限りの、たどたどしい方の言葉になった。


「枡が、違います。さっきと、いまと」


 役人は、筆を止めなかった。


「同じ一杯なのに、後の方が多い。見ておられましたか」


 筆が止まった。


 役人は顔を上げて、若い衆を見た。それから、若い衆の後ろの、量っている男の手元を、一度だけ見た。見て、また若い衆に目を戻した。


 腰掛けの周りには、誰もいなかった。役人は一人で来ていた。


 量っている男たちは、腰に刀を下げていた。荷車の横の連中も、下げていた。


「……枡は、官の枡だ」


 北の言葉で、それだけ言って、また下を向いた。


 若い衆は、そこに立っていた。


 役人が、顔を上げずに言った。


「名は」


 年寄りが動いた。


 前に出ようとして、口を開けた。代わりに名乗るつもりだったのだと、タクは思った。


 間に合わなかった。


 若い衆が、自分で答えた。


 名を言った。それから、この村の者で、こういう家の者だと言い足した。村の言葉ではなく、たどたどしい方の言葉で、区切って、はっきり言った。聞き取りやすいように、ゆっくり言った。


 年寄りは、途中で足を止めていた。


 役人は聞きながら筆を動かした。ひと呼吸ほどの短い動きだった。


 書き終わると、また下を向いた。それだけだった。


 若い衆は、言い返す言葉を探していた。探しているのが、タクにも分かった。何か言いかけて、口を開けて、閉じた。もう一度開けた。


 年寄りが割って入った。


「下がれ」


「けど、いま」


「下がれ言うとる」


 年寄りは若い衆の腕を掴んで、後ろへ引いた。そのまま腰掛けの方へ向き直って、頭を下げた。若い者が失礼をした、という意味のことを、たどたどしい言葉で言った。


 役人は、帳面から顔を上げなかった。


 若い衆は半歩下がって、それから背を向けて、庭を出ていった。棒を壁に立てかけて、そのまま井戸の方へ行った。


 誰も追わなかった。


 量りは続いた。手つきは、直らなかった。



 量り終わって、男の一人が指を折って数えた。それから腰掛けの方へ行って、耳打ちした。


 役人は帳面に何か書いて、それから顔を上げた。


 言葉は分からなかったが、足りないのだと分かった。


 年寄りが前に出て、何か言った。両手を前で合わせていた。もう一度言った。声が高くなって、それから低くなった。年寄りが使っているのは村の言葉ではなく、北の、たどたどしい言葉だった。


 それでも足りないらしく、途中で詰まって、また頭を下げた。


 役人は、筆を持ったまま聞いていた。最後まで聞いてから、首を横に振った。


 それから、顎で村の方を小さく示した。



 家を検めることになった。


 指図はそれだけだった。役所の人は腰掛けから動かなかった。


 男たちが分かれて、一軒ずつ入っていった。土間を見て、寝床を見て、竈の裏を見る。米櫃を開けて、底を叩く。屋根裏に上がる者もいた。


 タクの家の番になった。


 母が戸を開けて、下がった。タクは母の横に立った。


 男が二人、入っていった。


 うちには、隠してある米があった。冬を越すぶんだけ、母が土間の隅に埋めて、上に薪を積んである。タクは埋めるところを見ていた。誰にも言うな、と言われていた。言っていなかった。


 男の一人が、寝床をめくった。何もなかった。


 もう一人が、竈の裏を覗いた。何もなかった。


 タクは、土間の隅を見ないようにした。


 見ないようにすると、見てしまう。見てしまうと、慌てて目を逸らす。逸らすと、また見たくなる。首から上が熱くなって、耳が鳴った。


 暗かった。


 窓のない土間だった。日は高かったが、中までは届かない。男たちは手探りで、床を踏んで、音を聞いていた。


 小僧が入ってきた。


 提灯に火を入れて、掲げていた。



 明かりが動いた。


 男が屈むと、小僧は明かりを下げた。男が壁の方を向くと、小僧は先に壁を照らした。言われる前に動いていた。誰も指図していなかった。


 男たちが屋根裏を見上げているあいだ、小僧は下を見ていた。


 まず、竈のそばを照らした。灰の落ち方と、燃えさしの積み方を見ていた。それから明かりを持ったまま、土間をゆっくり歩いた。歩きながら、足で床を撫でるようにしていた。


 薪の山の前で、止まった。


 タクは、息を止めた。


 小僧は、山を見ていた。手は出さなかった。ただ、しばらく見ていた。


 それから、提灯を下げた。腰の高さから、膝の高さまで。さらに下げて、床に置いた。


 明かりが低くなると、床が変わった。


 それまで平らに見えていた土間に、影ができた。掃いた筋が浮き上がって、そこだけ地面の色が違うのが分かった。周りより新しく、周りより平らで、周りより丁寧だった。


 小僧は、薪も見ていた。


 下の方の一本を、指で撫でた。指に何か付いたらしく、それを親指と擦り合わせていた。乾いた土だった。薪の下に土が付くことはない。積むときに、掘った土が跳ねたのだった。


 男の一人が、屋根裏から降りてきた。


「ないな」


 そう言って、出ていこうとした。


 小僧は、動かなかった。


 明かりも動かなかった。


 男は二歩ほど歩いて、それから足を止めた。明かりが付いてこないので、振り返った。


 振り返って、床の上の提灯を見て、その先の薪の山を見た。



 男は戻ってきた。


 しゃがんで、小僧が撫でたのと同じ一本を撫でた。指を擦り合わせた。それから、その上に足を載せて、体重をかけて、踏んだ。


 音が変わった。


 薪が退けられた。一本ずつではなく、腕でまとめて崩された。積み直したときの並びが崩れて、下から乾いた土がこぼれた。


 男は指で床を探って、縁を見つけた。


 掘られた。


 布に包んだものが出てきた。


 小僧は、提灯を持ち上げて、その上に明かりを寄せた。



 母は、何も言わなかった。


 男が包みを持ち上げて、外へ運び出した。タクは母の顔を見た。母は戸口の方を見ていて、タクの方は見なかった。


 小僧は、提灯を提げて、そのあとについて出ていった。最後に土間を一度だけ照らして、掘り返された穴の縁を見て、それから明かりを外へ向けた。



 荷車に積まれた。


 村じゅうから出てきた分を、まとめて載せた。筵は、まだかけなかった。


 男の一人が数え直して、腰掛けの方へ行って、また耳打ちした。


 役人は帳面を見て、短く何か言った。


 足りないのだった。


 年寄りは、今度は前に出なかった。庭の隅に立って、荷車を見ていた。言うことがもうないという立ち方だった。


 役人は、村の方を見なかった。帳面から顔も上げなかった。筆を持った手を少しだけ動かして、庭の外の方を示した。


 それだけだった。



 男が二人、庭を出ていった。


 誰も案内しなかったのに、まっすぐ歩いていった。どの家へ行くかは、来る前から決まっていたらしかった。


 タクは、その方へ目をやった。


 隣の家だった。



 揉めなかった。


 声も上がらなかった。戸口で少し話して、それだけだった。


 銭が数えられた。男が数えて、隣の家の母親が受け取って、もう一度自分で数えて、袖に入れた。それから両手を前で合わせて、頭を下げた。男は下げ返さなかった。


 ランが出てきた。


 包みを一つ持っていた。着物を二枚ほど包んだくらいの、小さなものだった。


 髪は、朝とは違う、後ろに一本に垂らしてあった。


 誰の顔も見なかった。母親の方も見なかった。戸口を出て、そのまま歩きだした。


 縄はかけなかった。



 庭を通るとき、タクは道の端にいた。


 三歩ほどのところを、ランが通った。


 顔は上げなかった。歌も歌わなかった。桶を提げていないので手が空いていて、その空いた方の手で、包みを抱え直しただけだった。


 タクは、何も言わなかった。


 言う言葉を、知らなかった。



 荷車のところで、小僧が手を出した。


 ランは包みを渡した。


 小僧は受け取って、米の袋の横に載せた。置く場所を少し考えて、袋と袋のあいだの、崩れないところに押し込んだ。それから筵をかけて、縄をかけた。


 縄の掛け方は手際がよかった。


 小僧は、ランの顔を見なかった。


 碗を受け取ったときと同じだった。そこに人がいると思っていないようだった。



 役人は、荷が積まれるのを見て、帳面に何か書き足した。書き終わると筆を拭いて、しまって、立ち上がった。土間にも入らず、米にも触らず、隣の家の方も一度も見なかった。


 この日、字を書いたのはその人だけだった。


 年寄りが何か言って、また頭を下げた。役所の人は今度も下げ返さなかった。


 出ていくときも、誰も何も言わなかった。


 犬だけが鳴いた。



 タクは、村の外れまでついていった。


 道は川に沿って下っていく。荷車は轍にはまるたびに傾いて、そのたびに男たちが押した。小僧は先頭を歩いていた。まだ明るいので、提灯は畳んだままだった。


 荷車の後ろを、ランが歩いていた。


 男たちが押しているあいだは、少し離れて待っていた。押し終わると、また歩きだした。誰も見張っていなかった。見張る必要がなかった。


 道が曲がるところで、荷車が見えなくなった。


 しばらくして、また見えた。低いところを進んでいた。もう小さかった。


 荷車の後ろの、もっと小さいのが、ランだった。


 小僧が、一度こちらを向いた。


 目が合ったのかどうかは、遠くて分からなかった。


 そのまま行った。


 タクは、見ていた。



 戻ると、庭の筵が片付けられていた。こぼれた米は掃いて集められていて、ひと握りにもならなかった。母がそれを紙に包んで、竈の上に置いた。


 井戸の横に、あの若い衆が座っていた。


 棒を膝に載せて、地面を見ていた。タクが前を通ると、顔を上げた。


「見とったか」


「見とった」


「そうか」


 それだけ言って、また下を向いた。


 しばらくしてから、独り言のように言った。


「勝てんもんな」



 その晩、粥はいつもと同じだった。


 埋めてあった分がなくなったので、冬をどうするかという話を、大人たちが低い声でしていた。タクは寝床から聞いていた。眠っていると思われていた。


「春までは、どうにもならん」


「借りを増やすか」


「増やしてどうする。利息が先に来る」


 しばらく黙って、それから誰かが言った。


「隣は、これで越せるな」


「越せる」


 また黙った。


「働きに行くだけだ」


「そうだな」


 それから、誰かが咳をした。


「もう寝え」


 話は、そこで止んだ。


 誰も、名前を言わなかった。



 タクは目を開けていた。


 うなじを思い出した。結い上げた下の生え際に、まとめきれない短い毛が残っていて、真ん中で小さく渦を巻いていた。汗で二、三本が貼りついていた。背中に乗ったときに、目の前にあった。


 節だけの歌も思い出した。


 上海というのは、荷車が下っていった方角の、ずっと先にあるのだと聞いていた。


 寝返りを打った。しばらくして、また打った。


 婆さんが、寝床に来た。


 しばらく黙って、タクの背中に手を置いていた。


「ランはな、上海へ嫁に行ったんだと」


 タクは何も言わなかった。


「いい家だそうだ」


 それきりだった。


 それから、婆さんはタクの頭を撫でた。指を入れて、後ろから前へ、何度か動かした。編んだ辮をほどいて、寝るときの形に緩めた。


「よう生えとる」


 そう言って、また撫でた。


「髪が多いのは、うちの子だ」


 うちの、というのは、この家のという意味ではなかった。村じゅうのモウが、同じように濃い。祠堂の札の並びと同じで、代々そうなのだった。


 痩せていても、そこだけは生える。


 タクは目を閉じた。


 目を閉じると、土間の明かりが動くのが見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。