04_桝
枡
朝は、髪から始まる。
婆さんが土間の入口に腰かけて、タクを前に座らせる。櫛を通して、三つに分けて、下から編み上げていく。前と横は、月に一度、村を回ってくる剃り屋が剃る。あいだは伸びるに任せてある。
「まだか」
「まだだ」
川の上の村だった。ここから川を下っていくと、そのずっと先に上海があるのだと、タクは聞かされていた。行った者は、帰ってこなかった。
婆さんの手は遅い。目が悪いので、指で探りながら編む。タクの辮は太くて、片手では握りきれない。編み終わると、根本のあたりが引っ張られて、後ろに首が下がる。重いのだった。
「ようけ生えとる」
婆さんはいつもそう言う。
「そんなら、少し減らしてくれ」
「阿呆」
軽く頭を叩かれた。
朝の粥は、匙が立たなかった。
水の中に米粒が泳いでいるのが見える。数えられるほどだった。タクは碗を両手で持って、縁から少しずつ啜った。啜ると腹の中が温かくなるが、それは湯が温かいのであって、米が温かいのではない。それでも温かい方が腹は落ち着くので、熱いうちに飲んでしまうのがよかった。
「もっと食え」
母が自分の碗をタクの前に置いた。
「母ちゃんは」
「食うた」
碗の中は、湯だけだった。
村は、みな同じ姓だった。
どの家もモウといい、少し離れた家もモウといい、川向こうの三軒もモウといった。祠堂には木の札が並んでいて、そこに何十代ぶんの名前が書いてあるのだと聞かされていたが、タクは字が読めないので、並んでいるということしか分からなかった。
揉め事があると、年寄りが祠堂に集まって決めた。田の水をどう分けるか、誰の家の牛を先に使うか、そういうことを半日かけて決めた。決まったことには誰も逆らわなかった。逆らえば、この村では暮らせない。
去年も洪水で田が水をかぶった。今年は出穂の時期に大水が出た。稲は立ったが、穂が軽かった。刈ってみると、去年よりさらに少なかった。それでも納めるものは去年と同じだけあった。地主に納める分と、役所に納める分と、借りた分の利息と、三つある。三つとも、稲の出来とは関係なく決まっていた。
水を汲みに行くと、ランがいた。
石の縁に籠を置いて、菜を洗っていた。指が赤くなっている。水がまだ冷たい時期だった。
髪は両側で結ってあった。耳の上に一つずつ、輪にして丸めて、根元を赤い紐でぐるぐる巻きにしてある。しゃがんで手を動かすたびに、その二つが少し揺れた。着物は何度も洗って色が落ちていたが、紐だけは色が濃かった。
隣の家の娘で、十七だった。遊んでもらった覚えはあるが、それはずいぶん前のことで、いまは面倒を見てくれる側だった。
「おはよう、ラン姉ちゃん」
タクは走っていって、背中に乗った。
「重いよう」
ランはよろけて、片手を石についた。それから笑った。
「もう大きくなったんだから、乗るんじゃないの」
言いながら、振り落としはしなかった。膝を伸ばして、タクを背負ったまま立ち上がった。二歩あるいて、また笑った。笑うと目が細くなって、口の端が上がった。
タクの顔は、ランの首のすぐ後ろにあった。
両側の団子は、耳の上で動かなかった。動かないぶん、その下の生え際に、短い毛が何本も残っているのが見えた。まとめきれなかったのが、うなじの真ん中で小さく渦を巻いている。そこだけ産毛が細くて、色が薄かった。汗で、二、三本が肌に貼りついていた。
濡れた手が、タクの脛を掴んで支えていた。
「ほら、降りな」
降ろしてから、ランはタクの前に回ってしゃがんだ。
「辮が曲がっとる」
「婆ちゃんが編んだ」
「婆ちゃん、目が見えんもんな」
ランはタクの太い辮を持ち直して、編み目を指で締めた。指が速かった。婆さんの三分の一の時間で終わった。顔が近かった。菜の匂いと、水の匂いがした。目の下に、小さな黒子が一つあった。
「重たいやろ、これ」
「重たい」
「切ったらええのに」
「切ったら役人に叱られる」
「叱られんよ。ちょっとくらい」
ランは笑って、桶を提げて先に行った。歩きながら何か歌っていた。節だけで、言葉のない歌だった。
荷車が来たのは、昼前だった。
犬が先に鳴いた。
タクは畑の縁にいて、乾いた土を掘り返していた。顔を上げると、村の入口の道に人影が見えた。四人か、五人。荷車を一台引いていて、その横に、もう少し小さいのがいた。
自分と同じくらいの背丈の子供だった。少し高いかもしれない。痩せていて、日に焼けていて、右の頬に白い線が一本あった。古い傷が塞がった跡だった。手には畳んだ提灯を提げていて、腰に短い剣をさげていた。
辮が、細かった。
タクの半分もなかった。編んであるというより、束ねてあるように見えた。
先頭に、駕籠が一挺あった。
降りてきたのは、役人だった。長い上衣を着て、帽子をかぶって、袖の中で手を組んでいた。荷車を引いていた連中とは、着ているものがまるで違った。日に焼けてもいなかった。
荷車の男たちは、上海の言葉で喋っていた。
タクにはほとんど分からない。音の上がり下がりが違う。同じ国の言葉には聞こえなかった。年に何度か来る連中で、来るたびに同じ喋り方をした。役所の人と話すときだけ、彼らはまた別の喋り方をした。それも分からなかった。
祠堂の前で、年寄りが待っていた。いちばん年嵩の一人が前に出て、頭を下げた。長いお辞儀だった。役所の人は下げ返さず、頷いただけで、庭を指した。
荷車が庭に入った。
役人は、庭の隅に運ばれた腰掛けに座った。それきり立たなかった。膝の上に帳面を広げて、筆を持っていた。
働くのは、荷車の男たちだった。
役人は、その男たちに名を訊かなかった。どこの誰が来ているのかを、確かめる素振りもなかった。荷車と、それを引く人数が揃っていれば、それでよかった。男たちの方も、腰掛けの人が去年と同じ人かどうかを気にしていなかった。
村の若い衆が、離れたところに集まっていた。
自警団の連中だった。夜回りをして、猪を追い、余所者が来れば見に行く。棒を持っている者もいた。だが、庭には入らなかった。年寄りが一度そっちを見て、顎を小さく振った。それだけで、若い衆は動かなくなった。
母に呼ばれて、タクは水を運んだ。
欠けた碗を四つ盆に載せて、庭へ持っていく。取り立てに来た者にも、村は水を出す。茶があれば茶を出す。今年は茶がなかったので、水だった。
男たちは受け取って、飲んだ。飲みながら喋っていて、タクの方は見なかった。空になった碗を、見もせずに盆へ戻した。
碗が一つ残った。
タクは、荷車の横に立っている小僧のところへ行った。
タクは碗を差し出した。
小僧は受け取った。飲んだ。碗を返した。
顔は見なかった。
礼も言わなかった。嫌そうにもしなかった。ただ、そこに人がいると思っていないようだった。飲み終わると、また荷車の方を向いて、大人たちの手元を見ていた。
タクは盆を持って戻った。
枡が出された。
庭に筵を敷いて、その上で量る。斗枡は駕籠と一緒に運ばれてきたもので、村のものではなかった。役所の枡だった。年寄りが一度それを見て、何も言わなかった。官の枡に文句をつけるということが、何を相手に文句をつけることになるのか、年寄りには分かっていた。
量りが始まった。
米を枡に入れて、縁を棒で撫でて、余りを落として、それから桶へ移す。移すときに少しこぼれる。こぼれた分は筵の上に落ちるが、拾って戻すことはしない。掃いて、まとめて、それも桶に入れる。
タクは母の後ろに立って、見ていた。
枡に入れるときの手つきが、途中から変わった。最初は縁いっぱいまで入れて撫でていたのが、そのうち山にしてから撫でるようになった。撫でる棒の当て方も浅くなった。同じ一杯なのに、後の方が多い。
若い衆の一人が、前に出た。
背の高い、二十くらいの男だった。タクの家の遠い縁者で、去年、猪を一人で仕留めた男だった。
量っている男の前は素通りして、庭の隅の腰掛けの方へ行った。
「お役人さま」
村の言葉だった。それから、覚えている限りの、たどたどしい方の言葉になった。
「枡が、違います。さっきと、いまと」
役人は、筆を止めなかった。
「同じ一杯なのに、後の方が多い。見ておられましたか」
筆が止まった。
役人は顔を上げて、若い衆を見た。それから、若い衆の後ろの、量っている男の手元を、一度だけ見た。見て、また若い衆に目を戻した。
腰掛けの周りには、誰もいなかった。役人は一人で来ていた。
量っている男たちは、腰に刀を下げていた。荷車の横の連中も、下げていた。
「……枡は、官の枡だ」
北の言葉で、それだけ言って、また下を向いた。
若い衆は、そこに立っていた。
役人が、顔を上げずに言った。
「名は」
年寄りが動いた。
前に出ようとして、口を開けた。代わりに名乗るつもりだったのだと、タクは思った。
間に合わなかった。
若い衆が、自分で答えた。
名を言った。それから、この村の者で、こういう家の者だと言い足した。村の言葉ではなく、たどたどしい方の言葉で、区切って、はっきり言った。聞き取りやすいように、ゆっくり言った。
年寄りは、途中で足を止めていた。
役人は聞きながら筆を動かした。ひと呼吸ほどの短い動きだった。
書き終わると、また下を向いた。それだけだった。
若い衆は、言い返す言葉を探していた。探しているのが、タクにも分かった。何か言いかけて、口を開けて、閉じた。もう一度開けた。
年寄りが割って入った。
「下がれ」
「けど、いま」
「下がれ言うとる」
年寄りは若い衆の腕を掴んで、後ろへ引いた。そのまま腰掛けの方へ向き直って、頭を下げた。若い者が失礼をした、という意味のことを、たどたどしい言葉で言った。
役人は、帳面から顔を上げなかった。
若い衆は半歩下がって、それから背を向けて、庭を出ていった。棒を壁に立てかけて、そのまま井戸の方へ行った。
誰も追わなかった。
量りは続いた。手つきは、直らなかった。
量り終わって、男の一人が指を折って数えた。それから腰掛けの方へ行って、耳打ちした。
役人は帳面に何か書いて、それから顔を上げた。
言葉は分からなかったが、足りないのだと分かった。
年寄りが前に出て、何か言った。両手を前で合わせていた。もう一度言った。声が高くなって、それから低くなった。年寄りが使っているのは村の言葉ではなく、北の、たどたどしい言葉だった。
それでも足りないらしく、途中で詰まって、また頭を下げた。
役人は、筆を持ったまま聞いていた。最後まで聞いてから、首を横に振った。
それから、顎で村の方を小さく示した。
家を検めることになった。
指図はそれだけだった。役所の人は腰掛けから動かなかった。
男たちが分かれて、一軒ずつ入っていった。土間を見て、寝床を見て、竈の裏を見る。米櫃を開けて、底を叩く。屋根裏に上がる者もいた。
タクの家の番になった。
母が戸を開けて、下がった。タクは母の横に立った。
男が二人、入っていった。
うちには、隠してある米があった。冬を越すぶんだけ、母が土間の隅に埋めて、上に薪を積んである。タクは埋めるところを見ていた。誰にも言うな、と言われていた。言っていなかった。
男の一人が、寝床をめくった。何もなかった。
もう一人が、竈の裏を覗いた。何もなかった。
タクは、土間の隅を見ないようにした。
見ないようにすると、見てしまう。見てしまうと、慌てて目を逸らす。逸らすと、また見たくなる。首から上が熱くなって、耳が鳴った。
暗かった。
窓のない土間だった。日は高かったが、中までは届かない。男たちは手探りで、床を踏んで、音を聞いていた。
小僧が入ってきた。
提灯に火を入れて、掲げていた。
明かりが動いた。
男が屈むと、小僧は明かりを下げた。男が壁の方を向くと、小僧は先に壁を照らした。言われる前に動いていた。誰も指図していなかった。
男たちが屋根裏を見上げているあいだ、小僧は下を見ていた。
まず、竈のそばを照らした。灰の落ち方と、燃えさしの積み方を見ていた。それから明かりを持ったまま、土間をゆっくり歩いた。歩きながら、足で床を撫でるようにしていた。
薪の山の前で、止まった。
タクは、息を止めた。
小僧は、山を見ていた。手は出さなかった。ただ、しばらく見ていた。
それから、提灯を下げた。腰の高さから、膝の高さまで。さらに下げて、床に置いた。
明かりが低くなると、床が変わった。
それまで平らに見えていた土間に、影ができた。掃いた筋が浮き上がって、そこだけ地面の色が違うのが分かった。周りより新しく、周りより平らで、周りより丁寧だった。
小僧は、薪も見ていた。
下の方の一本を、指で撫でた。指に何か付いたらしく、それを親指と擦り合わせていた。乾いた土だった。薪の下に土が付くことはない。積むときに、掘った土が跳ねたのだった。
男の一人が、屋根裏から降りてきた。
「ないな」
そう言って、出ていこうとした。
小僧は、動かなかった。
明かりも動かなかった。
男は二歩ほど歩いて、それから足を止めた。明かりが付いてこないので、振り返った。
振り返って、床の上の提灯を見て、その先の薪の山を見た。
男は戻ってきた。
しゃがんで、小僧が撫でたのと同じ一本を撫でた。指を擦り合わせた。それから、その上に足を載せて、体重をかけて、踏んだ。
音が変わった。
薪が退けられた。一本ずつではなく、腕でまとめて崩された。積み直したときの並びが崩れて、下から乾いた土がこぼれた。
男は指で床を探って、縁を見つけた。
掘られた。
布に包んだものが出てきた。
小僧は、提灯を持ち上げて、その上に明かりを寄せた。
母は、何も言わなかった。
男が包みを持ち上げて、外へ運び出した。タクは母の顔を見た。母は戸口の方を見ていて、タクの方は見なかった。
小僧は、提灯を提げて、そのあとについて出ていった。最後に土間を一度だけ照らして、掘り返された穴の縁を見て、それから明かりを外へ向けた。
荷車に積まれた。
村じゅうから出てきた分を、まとめて載せた。筵は、まだかけなかった。
男の一人が数え直して、腰掛けの方へ行って、また耳打ちした。
役人は帳面を見て、短く何か言った。
足りないのだった。
年寄りは、今度は前に出なかった。庭の隅に立って、荷車を見ていた。言うことがもうないという立ち方だった。
役人は、村の方を見なかった。帳面から顔も上げなかった。筆を持った手を少しだけ動かして、庭の外の方を示した。
それだけだった。
男が二人、庭を出ていった。
誰も案内しなかったのに、まっすぐ歩いていった。どの家へ行くかは、来る前から決まっていたらしかった。
タクは、その方へ目をやった。
隣の家だった。
揉めなかった。
声も上がらなかった。戸口で少し話して、それだけだった。
銭が数えられた。男が数えて、隣の家の母親が受け取って、もう一度自分で数えて、袖に入れた。それから両手を前で合わせて、頭を下げた。男は下げ返さなかった。
ランが出てきた。
包みを一つ持っていた。着物を二枚ほど包んだくらいの、小さなものだった。
髪は、朝とは違う、後ろに一本に垂らしてあった。
誰の顔も見なかった。母親の方も見なかった。戸口を出て、そのまま歩きだした。
縄はかけなかった。
庭を通るとき、タクは道の端にいた。
三歩ほどのところを、ランが通った。
顔は上げなかった。歌も歌わなかった。桶を提げていないので手が空いていて、その空いた方の手で、包みを抱え直しただけだった。
タクは、何も言わなかった。
言う言葉を、知らなかった。
荷車のところで、小僧が手を出した。
ランは包みを渡した。
小僧は受け取って、米の袋の横に載せた。置く場所を少し考えて、袋と袋のあいだの、崩れないところに押し込んだ。それから筵をかけて、縄をかけた。
縄の掛け方は手際がよかった。
小僧は、ランの顔を見なかった。
碗を受け取ったときと同じだった。そこに人がいると思っていないようだった。
役人は、荷が積まれるのを見て、帳面に何か書き足した。書き終わると筆を拭いて、しまって、立ち上がった。土間にも入らず、米にも触らず、隣の家の方も一度も見なかった。
この日、字を書いたのはその人だけだった。
年寄りが何か言って、また頭を下げた。役所の人は今度も下げ返さなかった。
出ていくときも、誰も何も言わなかった。
犬だけが鳴いた。
タクは、村の外れまでついていった。
道は川に沿って下っていく。荷車は轍にはまるたびに傾いて、そのたびに男たちが押した。小僧は先頭を歩いていた。まだ明るいので、提灯は畳んだままだった。
荷車の後ろを、ランが歩いていた。
男たちが押しているあいだは、少し離れて待っていた。押し終わると、また歩きだした。誰も見張っていなかった。見張る必要がなかった。
道が曲がるところで、荷車が見えなくなった。
しばらくして、また見えた。低いところを進んでいた。もう小さかった。
荷車の後ろの、もっと小さいのが、ランだった。
小僧が、一度こちらを向いた。
目が合ったのかどうかは、遠くて分からなかった。
そのまま行った。
タクは、見ていた。
戻ると、庭の筵が片付けられていた。こぼれた米は掃いて集められていて、ひと握りにもならなかった。母がそれを紙に包んで、竈の上に置いた。
井戸の横に、あの若い衆が座っていた。
棒を膝に載せて、地面を見ていた。タクが前を通ると、顔を上げた。
「見とったか」
「見とった」
「そうか」
それだけ言って、また下を向いた。
しばらくしてから、独り言のように言った。
「勝てんもんな」
その晩、粥はいつもと同じだった。
埋めてあった分がなくなったので、冬をどうするかという話を、大人たちが低い声でしていた。タクは寝床から聞いていた。眠っていると思われていた。
「春までは、どうにもならん」
「借りを増やすか」
「増やしてどうする。利息が先に来る」
しばらく黙って、それから誰かが言った。
「隣は、これで越せるな」
「越せる」
また黙った。
「働きに行くだけだ」
「そうだな」
それから、誰かが咳をした。
「もう寝え」
話は、そこで止んだ。
誰も、名前を言わなかった。
タクは目を開けていた。
うなじを思い出した。結い上げた下の生え際に、まとめきれない短い毛が残っていて、真ん中で小さく渦を巻いていた。汗で二、三本が貼りついていた。背中に乗ったときに、目の前にあった。
節だけの歌も思い出した。
上海というのは、荷車が下っていった方角の、ずっと先にあるのだと聞いていた。
寝返りを打った。しばらくして、また打った。
婆さんが、寝床に来た。
しばらく黙って、タクの背中に手を置いていた。
「ランはな、上海へ嫁に行ったんだと」
タクは何も言わなかった。
「いい家だそうだ」
それきりだった。
それから、婆さんはタクの頭を撫でた。指を入れて、後ろから前へ、何度か動かした。編んだ辮をほどいて、寝るときの形に緩めた。
「よう生えとる」
そう言って、また撫でた。
「髪が多いのは、うちの子だ」
うちの、というのは、この家のという意味ではなかった。村じゅうのモウが、同じように濃い。祠堂の札の並びと同じで、代々そうなのだった。
痩せていても、そこだけは生える。
タクは目を閉じた。
目を閉じると、土間の明かりが動くのが見えた。




