03_カイ
カイ
数えることから始めた。
いつも五人だった。たまに六人になり、二人しかいない日もあったが、決まって顔を出すのは五人だった。そのうち三人は子供と同じくらいの背丈で、一人は少し小さく、残る一人だけが頭ひとつ大きかった。十二か、十三に見えた。
その大きいのが頭だった。囃すのはいつも小さい連中で、大きいのは少し離れたところに立って見ている。
連中は隣の組の使い走りだった。子供と同じことをしている子供たちで、桶を提げていたり、包みを抱えていたりする。水場はもともと向こうの領分にあった。境というのは線ではなく、どの店がどっちに銭を納めているかで決まっているらしく、水場の周りは向こうに納めていた。だから子供は毎日、向こうの領分に入って水を汲み、そこを通って帰ってくる。理不尽だったが、他に道はなかった。
子供は、使いに出るたびに道を歩いた。
水場から事務所まで、通る道は三本あった。いつも使うのは、いちばん広くて早い道だった。二本目は遠回りで、荷車が通るので人が多い。三本目は、家と家のあいだを抜ける細い道だった。
子供はその道を、何度か歩いてみた。
肩幅より少し広いくらいだった。両側は煉瓦と板で、途中に窓はない。溝が片側に寄っていて、そこだけ足元が悪い。突き当たりを右に折れると、事務所の前の通りに出る。折れるところが、いちばん狭かった。
人が並んで通れないのだと分かった。
薪を選んだのは、火の番の仕事のついでだった。
毎日触っているので、どれがどんな重さかは手が覚えていた。太すぎるのは握れない。細いのは折れる。節のあるものは重いが、当たりがいい。子供は何本か試して、腕の半分ほどの長さの、片方が少し太くなっているのを選んで、脇へよけておいた。
誰も何も言わなかった。薪を選り分けるのは、火の番の仕事だからだ。
その晩、子供はそれを懐に入れた。
棚の袋は、そのままにしておいた。あれは預かりもので、取るときは言わなければならない。言えば、なぜ要るのかを訊かれる。だから懐にあるのは、薪一本だけだった。
歩くと、腹の前で木が骨に当たった。音はしなかったが、当たるところが痛くなったので、帯の位置を直した。
それから何日も、子供は薪を抱えて歩いた。
水場へ行き、囃され、黙って歩き、こぼさずに帰った。連中が四人しかいない日があった。頭の大きいのがいない日もあった。それでもやらなかった。人数の問題ではなかった。広いところでやれば、何人だろうと同じことになるのを、子供は二度覚えていた。
連中は、子供が大人しくなったと思ったらしい。囃し方が少しつまらなそうになった。
事務所でも、あのガキはようやく懲りたと思われていた。誰もそれを口には出さなかったが、以前ほど子供の顔を見なくなった。
キビだけが、たまに妙な顔をした。
「ショウショウの、お前、なんか持っとるな」
一度だけ、そう言われた。
子供は「カイです」としか答えなかった。キビはそれ以上訊かなかった。
その日は、雨のあとだった。
路地の石が乾ききっておらず、溝の水が増えていた。子供は水場で桶を満たし、天秤棒を担いで、いつもの道へ入った。
連中は、いつもの場所にいた。五人いた。
「おい、ショウショウ」
子供は足を止めた。
止まったのを見て、向こうが少し前に出た。子供は半歩下がった。それから、いつも曲がらない方へ曲がった。
背中で、声が変わったのが分かった。逃げた、と誰かが言った。
子供は走らなかった。走れば水がこぼれるからだが、それだけではなかった。走らずに歩いていく方が、都合が良い。
下見してあった、細い道に入った。
突き当たりの手前まで進んで、そこで桶を下ろした。
こぼさないように、端に寄せて置いた。
天秤棒も、その上に載せた。
振り返ると、道の口に連中がいた。
「なんで入るんや、こんなとこ」
「いけ。行き止まりや」
入ってこようとして、一度つかえた。二人並ぶと肩がぶつかる。誰かが誰かを押しのけた。押された方が、押すなよ、と言った。
先に入ってきたのは、小さい方だった。
子供は懐に手を入れた。
薪を短く握った。振らなかった。振る幅がない。
相手が手を伸ばしてきた。子供は半歩踏み込んで、下から突いた。
喉に当たった。
相手の声が途中で切れた。両手が喉に行った。目を大きく開いて、口だけ動かして、息を吸おうとして、吸えなかった。膝が落ちた。
それから、泣きだした。
痛いのではなく、息ができないのが怖かったのだと思う。壁を伝って、道の外へ這って出ていった。
「なんや、どしたんや」
「おい、どけよ。お前どけって」
二人目が入ってきた。
一人目が這って出ていくのを見ていたので、少し遅かった。手が前に出ていた。子供はその手を左で払って、右で突いた。今度は顎の下に入った。同じことが起きた。
三人目は、殴ってきた。
拳が肩に当たった。痛かったが、倒れはしなかった。子供は前に出た。相手が下がろうとして、後ろの四人目にぶつかった。二人が絡んで、足がもつれた。
片方が溝に落ちた。
雨のあとで水が増えていた。落ちた方が悲鳴を上げて、掴まろうとして、もう一人の裾を引いた。二人とも尻から溝に入った。泥の水が跳ねて、壁まで飛んだ。
「冷たっ、冷たい」
「離せ、離せて」
子供は、上から近い方の顔に薪を打ち下ろした。鼻に当たった。血が出た。
二人は這い上がって、泥だらけのまま、道から出ていった。片方は途中で布靴をなくして、それを拾いに戻ろうとして、やめた。
最後の一人は、ずっと見ていた。
道の口に立ったまま、四人が出てくるのを見て、それから中を見た。子供は立っていた。息が上がっていた。
「お前ら、なにしとんじゃ」
誰も答えなかった。泥だらけの二人は、道の外で膝をついたままだった。
大きいのは、足元から板切れを拾った。
入ってきた。
背が高いぶん、狭さがこたえていないように見えた。板を両手で持って、真上に上げた。
振り下ろしてきた。
板は真上から落ちてくる。左へ避けた。板を握った両手のあいだが、空いている。そこへ右手を差し込んで、喉を突く。三人にやったのと同じ手だった。
左の肩が、壁に当たった。
体が止まった。それでも、右手は出ていた。
握った先が、相手の喉に入った。手応えがあった。
同じときに、板の柄の、握った手の下に出ている端が、右の顔に入った。
音が、頭の中で鳴った。
痛くはなかった。熱かった。右の目が急に見えにくくなって、白いものが視界に混ざった。
相手の体が後ろへ傾いた。板が落ちた。
相手は、ひっくり返った。
溝の縁に頭がぶつかる音がした。
子供は、上から打った。
一度打って、もう一度打った。相手が手を上げたので、その手ごと打った。相手が横を向いたので、また打った。
相手が泣いた。
それでもしばらく打った。
やめてから、道に誰もいないことに気づいた。
自分の息の音だけが、壁と壁のあいだで大きく響いていた。手が震えていた。震えているのが分かるのに、止まらなかった。薪を持ったままだった。
相手が、這って出ていった。
子供は動かなかった。
それから、顔が痛くなってきた。
急に来た。右の頬から顎にかけて、熱いものが割れて広がるようだった。手で触ると、指がぬるりとした。見ると、赤かった。着物の前にも落ちていた。
板切れが、足元にあった。片方の端に赤いものが付いていた。
子供は、桶を見に行った。
端に寄せて置いた二つは、そのままそこにあった。倒れていなかった。水も減っていなかった。
天秤棒を担いだ。
肩に載せると、右の顔がずきりとした。
歩幅と息を合わせて、細い道を出た。表の通りに出ると、明るかった。まだ日は落ちていなかった。すれ違った女が、子供の顔を見て、それから目をそらして足を速めた。
子供は、こぼさずに帰った。
事務所の土間に入ると、若い衆が二人、こっちを見た。
顔を見て、それから桶を見た。
誰かが奥に声をかけた。板の間から人が降りてきた。カシラが出てきて、子供の前にしゃがんだ。顎を掴んで、顔を横に向けさせた。
「深いな」
傷を見ながら、そう言った。それから、少し口の端を動かした。
「跡になるな」
褒めているのだと、子供には分かった。
いま、それが自分の顔に入っている。
先生が呼ばれた。
月に何度か来て、男たちの頭を剃っていく男だった。子供も前と横を剃ってもらっている。細い鞄を提げていて、中に剃刀と、鋏と、糸と、針が入っている。
薬を出す医者は、切らない。脈を診て、湯で煎じるものを書く。切ったり縫ったり抜いたりするのは、刃物を持っている者の仕事だった。毎日研いで、毎日人の顔に当てている手は、この路地にはこの男の手しかない。だから頭を剃るのも、腫れたところを切るのも、歯を抜くのも、同じ鞄で来る。
先生は土間の明るいところに子供を座らせて、鞄を開けた。
剃刀を出して、まず革に当てた。柄から下げた細長い革で、片面に何か塗ってある。刃を寝かせて、押すのではなく引いて、返して、また引いた。音が乾いていくのが分かった。それから親指の腹を近づけて、当てずに止めた。当てなくても分かるらしかった。
血は顎から首まで垂れて、剃ってある頭の横にも乾いて貼りついていた。先生は水で緩めて、布で拭った。拭うだけで落ちないところは、剃刀を寝かせて撫でた。頭を剃るときと同じ手つきだった。子供の顔が動かないように、手を頬骨に置いて、そこを支点にしていた。
顔を布で拭いて、水で洗って、それからもう一度拭いた。しみた。子供は動いた。
「動くな」
それだけ言った。
鞄から針を出しながら、先生がもう一言だけ言った。
「泣くなよ」
「泣いてません」
「泣いているやつには言わん」
針は、先が曲がっていた。まっすぐな針では、皮の下をくぐらせて向こうへ出せない。糸は先生が指で扱くと、指のあいだで少し光った。何か塗ってあるのだった。
針が入るとき、子供は奥歯を噛んだ。糸を引くとき、頬の皮が持ち上がるのが分かった。一針ごとに、先生は結んで、切った。続けて縫えば早いだろうに、そうしなかった。
四針だった。先生は数えなかったが、子供が数えた。
終わると、先生は鞄を閉めて、手を洗った。
何も言わずに出ていった。
キビがいないことに気づいたのは、そのあとだった。
誰かが、キビは、と言った。
誰かが、さっき出てったで、と答えた。
カシラが顔を上げた。土間を見て、路地の方を見て、それから布靴をつっかけて出ていった。
走っていた。
指の欠けた、あの年寄りが走るのを、子供は初めて見た。
子供も立った。立って、戸口の方へ行こうとした。誰かが肩を掴んで、下がらせた。
「座っとれ」
それだけだった。
キビが帰ってきたのは、夜になってからだった。
怪我はしていないようだ。何も言わずに土間で足を洗って、板の間に上がって、輪の中に座った。
誰もなにも言わなかった。
カシラも何も言わなかった。何があったのかは、誰も説明しなかった。翌日も、その次の日も、その話は出なかった。あとで、向こうの組とは話がついたらしいと聞いたが、誰から聞いたのかも覚えていない。
子供が負けた日には、キビは張られた。
子供が勝った日には、何も起きなかった。
同じことをして、片方は罰せられ、片方は罰せられない。この家では、そういうことになっているのだと、子供は思った。
飯が出た。
碗の横に、皿がもう一つあった。煮た肉が少し載っていた。
子供は食べた。噛むと、右の頬が痛かった。
その晩、賭場が長引いた。
湯が尽きた。奥から誰かが呼んだ。
板の間の上座で、オヤッサンが煙管を持ったまま、こちらを見ずに言った。
「カイ。湯」
ショウショウとは呼ばれなかった。子供は立った。
壺を提げて、土間に降りた。
靴を履くまでのあいだ、その二文字を頭の中でもう一度繰り返した。オヤッサンはもう別の話をしていた。誰も、何も言わなかった。
外は暗かった。
子供は、壺を提げて走った。
老虎灶は、路地を出た角にあった。飯も茶も出さず、沸いた湯だけを売る店である。道に向かって大きな竈が据えてあり、その上に釜が並んでいた。薪をくべる口はいつも開いていて、そこだけが明るい。湯気が絶えず上がっていて、夜は下から火の色に染まっていた。
子供は銭を出して、壺を差し出した。
店の男は、子供の顔を一度見た。それから何も言わずに柄杓で湯を汲み、壺の口へまっすぐ落とした。一滴もこぼさなかった。




