13_要件
柔術は、二週目からだった。
道場に上がって、組んで、投げる。倒れたら、そこで一本である。
ゴウに、勝てなかった。
組んだ瞬間に、決まっていた。
手が大きい。掴まれると、そこが動かなくなる。動かないところを支点にして、腰を落として、引く。カイの体が浮いて、そのまま落ちた。
二度目も同じだった。三度目も同じだった。
読みが効かなかった。
剣なら、相手の動きが見える。踏み込む前に、どこへ来るかが分かる。分かれば、そこへ入れる。
組んでしまえば、見えるものがない。
目の前にあるのは相手の肩と、自分の手が掴んでいる襟だけである。あとは、力の向きだった。向きは、掴まれてから分かる。分かったときには、もう投げられている。
ヤナには、勝てた。
力がないのである。手先が器用で、細かいところは巧いが、組んで押されると耐えられない。三度やって、三度とも同じところで腰が落ちた。
四度目に、ヤナが笑った。
「これは駄目だ」
銃剣は、柔術と同じ週に始まった。
木で作った銃を持つ。長い。先に、革を巻いた突起がついている。
打ってよいのは、突くことだけだった。斬る動きがない。喉、胸、小手、下腹。そこへ真っ直ぐ入れる。
カイは、これが得意だった。
九つのときから、やっていることである。振らない。まっすぐ出す。狭いところで通るのはその動きだけで、薪でも、柳葉刀でも、同じことをしてきた。
得物が長くなっただけだった。
力もあった。
背が高く、肩の幅が出ている。押し込めば、たいていの相手は下がる。下がったところへ、もう一度入れる。
速さもあった。
入ると決めてから先が速い。教官が、腕は悪くないと言った。行進のことは言わなかった。
ゴウは、押し合いになると強かった。
組んで押すのと同じである。ただ、突きになると届く前に止まる。柔術と剣術で見たのと、同じことをしていた。
ヤナは、細かく速いが、押されると耐えられない。
トキは、声が大きい。
リンに、当たらなかった。
最初は、たまたまだと思った。
二度目も、当たらなかった。三度目も、四度目も、当たらなかった。
リンは、強くなかった。
力はカイより弱い。速さもカイの方が上である。押し込めば下がるし、突けば防ぐのがやっとに見える。
それなのに、当たらない。
リンは当てにこないのである。こちらが入る前に、体が半歩、外れている。真っ直ぐ下がるのではなく、斜めに逃げる。逃げた先で構え直して、また待つ。
突きは、真っ直ぐしか行かない。真っ直ぐ行くものは、真っ直ぐ避けなくてもよかった。
カイは、変えてみた。
入る前の間合いを変えた。踏み込みの速さを変えた。先に一度浅く出して、二度目に入るようにした。
全部、外された。
読まれていた。
カイは、人を読む。相手の動きを見て、どこへ来るかが分かる。分かれば、そこへ入れる。上海の細い道からずっと、それでやってきた。
読まれた覚えが、なかった。
終わってから、リンが面を外した。
汗をかいていて、息が上がっていた。勝ったという顔はしていなかった。
「あんた、入る前に一度だけ肩が下がるよ」
カイは、返事をしなかった。
「右の肩だ。ほんの少し。落として、それから出る」
自分では、知らなかった。
いつからそうなのかも、分からなかった。九つのときからそうだったのかもしれない。細い道でも、路地でも、出入りの晩でも、ずっとそうしていたのかもしれない。
誰も言わなかった。
言われるまで、誰も気づかなかったのだと思っていた。
リンは、それ以上言わなかった。
直せとも言わなかったし、直せば強くなるとも言わなかった。
言って、面を拭いて、次の相手のところへ行った。
剣術は、その次の週だった。
防具を着ける。面と、小手と、胴と、垂れがある。喉のところにも、厚い革が下がっていた。
竹刀を持たされた。
打ってよい場所が決まっていた。
面。小手。胴。それと、喉である。喉は、垂れの中央に先が当たらなければ取らない。
当たれば点になるのではない、と教官が言った。
条件が五つある。
声を出していること。姿勢が崩れていないこと。竹刀の当てる場所が正しいこと。刃の向きが正しいこと。打ったあとに構えが残っていること。
五つ揃って、はじめて一本になる。
防具に当たっていても、揃っていなければ点にはならない。
カイは、その説明を二度聞いた。
二度聞いても、腑に落ちなかった。
当たったかどうかは、当てた手が知っている。刺さったなら刺さった、外れたなら外れた。それだけのことである。
なぜ、声を出さないと当たったことにならないのか。
ゴウには、勝てた。
柔術で三度投げられた相手に、剣では勝てた。
ゴウは、届く前に止まる。
触って確かめる男である。手で掴めば、掴んだことが分かる。竹刀では、掴めない。当たったかどうかを、自分ではなく審判が決める。
それが腑に落ちないので、腕が伸びきらない。
伸びきらないところを、カイが打った。
ヤナは、速かった。
小手が来る。細かく、鋭く、二度三度と続けて出る。鉛筆を削る手つきと同じで、当てる位置が正確だった。
三本のうち、一本は取られた。
トキは、声が大きかった。
打つ前から声を出している。技を出すたびに叫ぶ。当たっていないときも叫ぶ。それでも、叫んでいるあいだは審判がこちらを見ている。
カイは、それを見ていた。
ソウには、勝てなかった。
一度もなかった。
ソウは、型どおりに動く。
間合いを取る。構える。踏み込む。打つ。引く。
全部が、教本に書いてあるとおりだった。算と同じである。速いだけでなく、途中を飛ばさない。飛ばさないので、審判が見て取れる形になっている。
カイの打ちは、当たっても取られなかった。
当たり方が違うのである。教本にない入り方をするので、審判の目が追わない。追わないものは、なかったことになる。
それだけではなかった。
道場が、広かった。
上海の細い道では、相手が下がれなかった。
肩幅より少し広いだけの道である。避ける幅がない。だから、読んで入れば必ず届いた。
道場は、いくらでも下がれる。
カイが入ろうとすると、ソウは下がる。下がってから、正しい間合いで打ってくる。
届かない。
カイは、考えた。
広いところで、下がる相手をどうやって倒すか。
追ってはいけない。追えば、追った分だけ下がられる。速さでは勝てない。あの男は下がるのが型に入っているので、下がる速さも決まっている。
だとすれば、下がらせなければよかった。
下がらせないためには、相手が前に出ているところへ入るしかない。
竹刀は、長さがいくつかあった。
背丈で決まっているが、道場の隅に何本か置いてある。カイは、いちばん短いのを取った。
短ければ、届く距離が近くなる。
近くなるということは、そこまで入らなければならない、ということである。
入るには、打たせるしかなかった。
試合が始まった。
カイは、半歩引いた。
引けば、ソウは前に出る。型どおりに、正しい間合いを作りにくる。作ってから、打つ。
打ってきた。
カイは、避けなかった。
肩で受けた。
肩は、打ってよい場所ではない。
ソウの一本は、点にならない。
点にならないのに、ソウは打ち込んだぶん前に出ている。前に出た体を、引き戻す途中だった。
その中に、カイが入っていた。
突いた。
先が、喉の垂れの中央に入った。
手が知っていた。刺さった、と手が言った。
声は、出さなかった。
出す理由が分からなかったからである。
ソウが、倒れた。
膝から落ちて、面の中で咳をした。両手が喉に行った。息を吸おうとして、吸えていなかった。
九年前に、細い道で見たものと同じだった。
旗は、上がらなかった。
審判が、上げなかった。
声がない。姿勢が崩れている。肩を打たれてから入っている。突いたあと、カイは構えを残さずにソウを見ていた。
五つのうち、三つが欠けていた。
試合は、ソウの勝ちで終わった。
ソウは、しばらく起きられなかった。
更衣室で、ソウが言った。
まだ声が掠れていた。
「おまえ、むちゃくちゃしやがるなあ」
怒ってはいなかった。
「痛かったか」
「痛かった」
「生きてるだろう」
ソウが笑った。笑って、咳き込んだ。
「そういう話じゃねえんだよ。剣道だぞ。ああいうのはなしなんだ」
「そうなのか。なんで」
「なんでって」
ソウが、口を開けた。
開けたまま、何も出てこなかった。
「戦の稽古じゃないのか」
「……そうなんだけど、違うんだ」
「ここは軍の学校だろう。戦の支度をするところだろう」
ソウは、答えなかった。
しばらくして、首を振った。
目が細くなって、口の端が上がっていた。頬に力が入っている。
カイは、それを見た。
何がおかしいのか、分からなかった。
その日の夕方に、呼び出された。
教官室である。立たされたまま、長く言われた。
剣道は喧嘩ではない。相手を倒すためのものではない。試合は、勝ち負けを決める場ではなく、正しく打てたかどうかを見る場である。
声を出さないのは、相手を軽んじることだ。
教えていない技を使うな。
突きは危ない。分からんのか。
肩で受けるとは何事だ。あれは打たれに行ったのと同じだ。
長かった。
中身が、一つに絞られなかった。
声のこと、姿勢のこと、突きのこと、心構えのこと。順に出てきて、どれがいちばん悪かったのかが分からない。
カイは、黙って聞いていた。
聞きながら、並べ替えていた。
同じことを、前にも聞いた。
上海の埠頭である。桟橋の手前で、カシラが並べた。
人に迷惑をかけるな。物を盗るな。金を借りるな。貸すな。博打をやるな。やるなら負けろ。喧嘩をするな。どうしてもやるなら、知っている相手とだけにしろ。役人に逆らうな。逆らうくらいなら先に頭を下げろ。
あのときも、長かった。
長かったが、並べ替えれば一つになった。
知らない相手は、後ろに何がついているか分からん。
カイは、ソウの後ろに何かがついていることを知っていた。
官舎から通っている。迎えの者が、あの男にだけ呼び方を変える。昼飯の途中で呼ばれて出ていく。誰に呼ばれるのかは、誰も訊かない。
知っていて、倒した。
分かったのは、相手を見て決めろ、ということだった。
カシラは、九年かけて、それを何度も言っていたのである。
教官が、まだ喋っていた。
最後に、こう言った。
「おまえは、強くなりたくてここへ来たのだろう」
カイは、顔を上げた。
「国が弱いから、おまえたちはここへ来ている。弱い者は、強い者の下につく。国も同じだ。だから強くなりに来ているのだろう。強くなるには、まず決まりを覚えろ」
そのとおりだった。
カイは、そう思った。
教官室を出てから、腹が立ってきた。
教官にではない。
自分にである。
当てた。刺さった。それでも、取られなかった。
取られなかったのは、こちらが要件を知らなかったからである。
知らないまま出て、負けた。
カイは、そういう負け方を許せなかった。
その晩から、調べはじめた。
まず、規則を書いたものを探した。
教員室にあった。借りたいと言うと、貸してくれた。読める字は半分もなかったが、ヤナに読ませて、分からないところは訊いた。
次に、審判をやっている上級生に訊いた。
どこを見ているのか。何を見て旗を上げるのか。上げなかったときは、どこが足りなかったのか。
訊けば、たいてい答えた。仕事のことで熱心に訊いてくる若い者を、たいていの大人は面白がる。上海でも、船でも、それは同じだった。
それから、外から試合を見た。
自分が出ない日も道場へ行って、隅に座って、片端から数えた。
旗の上がった打ちと、上がらなかった打ちを分けて数える。同じところに同じように当たっているのに、片方だけ取られることがある。何が違うのかを、目で拾っていく。
荷の順番を組み替えたときと、同じだった。
見えているものを並べれば、答えは一つしかない。
五つある。
声。
いちばん納得がいかなかった。突けば刺さる。刺さったかどうかは、突いた手が知っている。声で言う必要が、どこにあるのか。
分からないまま、出すことにした。
要件だからである。理由が分からなくても、条件なら満たせばいい。上海の役所で、紙が要件どおりに人を決めていたのと、同じことだった。あのときも分からなかった。いまも分からない。
分からなくても、満たせる。
残心。
突いたあとに、相手を見てしまう癖があった。次にどう来るかを見ている。
直した。
突いたら構えを戻す。相手が倒れようが座り込もうが、見ない。見ないのは、初めは気持ちが悪かった。
姿勢。
肩で受けてから入る、あのやり方をやめた。
やめると、入れなくなった。
だから、入り方を作り直した。相手が前に出る瞬間は同じである。そこへ、受けずに入る。受けない分だけ、間が細くなる。細い間へ入るには、出るのを早くするしかない。
早く出るには、迷いがあってはいけない。
肩。
リンに言われたものである。入る前に、右の肩が一度だけ下がる。
自分では見えない。
壁に向かって何度も出して、影で見た。夕方の、日が横から入る時刻でないと映らないので、その時刻に道場の裏へ行った。
映った。
言われたとおりだった。落として、それから出ている。
落とさずに出ようとすると、速さが落ちた。
落とすことで、力を溜めていたのである。溜めずに出るには、別のところから出さなければならない。
腰から出すことにした。
できるようになるまでに、ひと月かかった。
夏のあいだ、それをやった。
行進が直ったのも、同じ夏である。
秋の初めに、ソウに勝った。
倒さなかった。
喉も突かなかった。面を一本、取っただけである。
声を出した。姿勢を崩さなかった。打ったあとに構えを戻した。刃の向きも正しかった。
旗が、三本上がった。
ソウは、面を外して、何も言わなかった。
目が細くなって、口の端が上がっていた。更衣室で見たのと、同じ顔だった。
「そういうところだぞ」
何のことか、カイには分からなかった。
カイは、嬉しくなかった。
嬉しくはなかったが、これでいいのだとは思った。
規則を覚えれば、規則の中で勝てる。覚えるまでは負ける。それだけのことだった。
秋口には、剣でも柔術でも、道場でカイを止められる者がいなくなった。
銃剣だけが、別だった。




