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13/15

13_要件

 柔術は、二週目からだった。


 道場に上がって、組んで、投げる。倒れたら、そこで一本である。



 ゴウに、勝てなかった。


 組んだ瞬間に、決まっていた。


 手が大きい。掴まれると、そこが動かなくなる。動かないところを支点にして、腰を落として、引く。カイの体が浮いて、そのまま落ちた。


 二度目も同じだった。三度目も同じだった。



 読みが効かなかった。


 剣なら、相手の動きが見える。踏み込む前に、どこへ来るかが分かる。分かれば、そこへ入れる。


 組んでしまえば、見えるものがない。


 目の前にあるのは相手の肩と、自分の手が掴んでいる襟だけである。あとは、力の向きだった。向きは、掴まれてから分かる。分かったときには、もう投げられている。



 ヤナには、勝てた。


 力がないのである。手先が器用で、細かいところは巧いが、組んで押されると耐えられない。三度やって、三度とも同じところで腰が落ちた。


 四度目に、ヤナが笑った。


「これは駄目だ」



 銃剣は、柔術と同じ週に始まった。


 木で作った銃を持つ。長い。先に、革を巻いた突起がついている。


 打ってよいのは、突くことだけだった。斬る動きがない。喉、胸、小手、下腹。そこへ真っ直ぐ入れる。



 カイは、これが得意だった。


 九つのときから、やっていることである。振らない。まっすぐ出す。狭いところで通るのはその動きだけで、薪でも、柳葉刀でも、同じことをしてきた。


 得物が長くなっただけだった。



 力もあった。


 背が高く、肩の幅が出ている。押し込めば、たいていの相手は下がる。下がったところへ、もう一度入れる。


 速さもあった。


 入ると決めてから先が速い。教官が、腕は悪くないと言った。行進のことは言わなかった。



 ゴウは、押し合いになると強かった。


 組んで押すのと同じである。ただ、突きになると届く前に止まる。柔術と剣術で見たのと、同じことをしていた。


 ヤナは、細かく速いが、押されると耐えられない。


 トキは、声が大きい。



 リンに、当たらなかった。



 最初は、たまたまだと思った。


 二度目も、当たらなかった。三度目も、四度目も、当たらなかった。



 リンは、強くなかった。


 力はカイより弱い。速さもカイの方が上である。押し込めば下がるし、突けば防ぐのがやっとに見える。


 それなのに、当たらない。



 リンは当てにこないのである。こちらが入る前に、体が半歩、外れている。真っ直ぐ下がるのではなく、斜めに逃げる。逃げた先で構え直して、また待つ。


 突きは、真っ直ぐしか行かない。真っ直ぐ行くものは、真っ直ぐ避けなくてもよかった。



 カイは、変えてみた。


 入る前の間合いを変えた。踏み込みの速さを変えた。先に一度浅く出して、二度目に入るようにした。


 全部、外された。



 読まれていた。



 カイは、人を読む。相手の動きを見て、どこへ来るかが分かる。分かれば、そこへ入れる。上海の細い道からずっと、それでやってきた。


 読まれた覚えが、なかった。



 終わってから、リンが面を外した。


 汗をかいていて、息が上がっていた。勝ったという顔はしていなかった。


「あんた、入る前に一度だけ肩が下がるよ」



 カイは、返事をしなかった。



「右の肩だ。ほんの少し。落として、それから出る」



 自分では、知らなかった。



 いつからそうなのかも、分からなかった。九つのときからそうだったのかもしれない。細い道でも、路地でも、出入りの晩でも、ずっとそうしていたのかもしれない。


 誰も言わなかった。


 言われるまで、誰も気づかなかったのだと思っていた。



 リンは、それ以上言わなかった。


 直せとも言わなかったし、直せば強くなるとも言わなかった。


 言って、面を拭いて、次の相手のところへ行った。



 剣術は、その次の週だった。


 防具を着ける。面と、小手と、胴と、垂れがある。喉のところにも、厚い革が下がっていた。


 竹刀を持たされた。



 打ってよい場所が決まっていた。


 面。小手。胴。それと、喉である。喉は、垂れの中央に先が当たらなければ取らない。


 当たれば点になるのではない、と教官が言った。



 条件が五つある。


 声を出していること。姿勢が崩れていないこと。竹刀の当てる場所が正しいこと。刃の向きが正しいこと。打ったあとに構えが残っていること。


 五つ揃って、はじめて一本になる。


 防具に当たっていても、揃っていなければ点にはならない。



 カイは、その説明を二度聞いた。


 二度聞いても、腑に落ちなかった。


 当たったかどうかは、当てた手が知っている。刺さったなら刺さった、外れたなら外れた。それだけのことである。


 なぜ、声を出さないと当たったことにならないのか。



 ゴウには、勝てた。


 柔術で三度投げられた相手に、剣では勝てた。


 ゴウは、届く前に止まる。


 触って確かめる男である。手で掴めば、掴んだことが分かる。竹刀では、掴めない。当たったかどうかを、自分ではなく審判が決める。


 それが腑に落ちないので、腕が伸びきらない。


 伸びきらないところを、カイが打った。



 ヤナは、速かった。


 小手が来る。細かく、鋭く、二度三度と続けて出る。鉛筆を削る手つきと同じで、当てる位置が正確だった。


 三本のうち、一本は取られた。



 トキは、声が大きかった。


 打つ前から声を出している。技を出すたびに叫ぶ。当たっていないときも叫ぶ。それでも、叫んでいるあいだは審判がこちらを見ている。


 カイは、それを見ていた。



 ソウには、勝てなかった。



 一度もなかった。



 ソウは、型どおりに動く。


 間合いを取る。構える。踏み込む。打つ。引く。


 全部が、教本に書いてあるとおりだった。算と同じである。速いだけでなく、途中を飛ばさない。飛ばさないので、審判が見て取れる形になっている。


 カイの打ちは、当たっても取られなかった。


 当たり方が違うのである。教本にない入り方をするので、審判の目が追わない。追わないものは、なかったことになる。



 それだけではなかった。


 道場が、広かった。



 上海の細い道では、相手が下がれなかった。


 肩幅より少し広いだけの道である。避ける幅がない。だから、読んで入れば必ず届いた。


 道場は、いくらでも下がれる。


 カイが入ろうとすると、ソウは下がる。下がってから、正しい間合いで打ってくる。


 届かない。



 カイは、考えた。



 広いところで、下がる相手をどうやって倒すか。


 追ってはいけない。追えば、追った分だけ下がられる。速さでは勝てない。あの男は下がるのが型に入っているので、下がる速さも決まっている。


 だとすれば、下がらせなければよかった。


 下がらせないためには、相手が前に出ているところへ入るしかない。



 竹刀は、長さがいくつかあった。


 背丈で決まっているが、道場の隅に何本か置いてある。カイは、いちばん短いのを取った。


 短ければ、届く距離が近くなる。


 近くなるということは、そこまで入らなければならない、ということである。


 入るには、打たせるしかなかった。



 試合が始まった。


 カイは、半歩引いた。


 引けば、ソウは前に出る。型どおりに、正しい間合いを作りにくる。作ってから、打つ。


 打ってきた。



 カイは、避けなかった。


 肩で受けた。



 肩は、打ってよい場所ではない。


 ソウの一本は、点にならない。


 点にならないのに、ソウは打ち込んだぶん前に出ている。前に出た体を、引き戻す途中だった。


 その中に、カイが入っていた。



 突いた。



 先が、喉の垂れの中央に入った。


 手が知っていた。刺さった、と手が言った。



 声は、出さなかった。


 出す理由が分からなかったからである。



 ソウが、倒れた。



 膝から落ちて、面の中で咳をした。両手が喉に行った。息を吸おうとして、吸えていなかった。


 九年前に、細い道で見たものと同じだった。



 旗は、上がらなかった。



 審判が、上げなかった。


 声がない。姿勢が崩れている。肩を打たれてから入っている。突いたあと、カイは構えを残さずにソウを見ていた。


 五つのうち、三つが欠けていた。



 試合は、ソウの勝ちで終わった。


 ソウは、しばらく起きられなかった。



 更衣室で、ソウが言った。


 まだ声が掠れていた。


「おまえ、むちゃくちゃしやがるなあ」


 怒ってはいなかった。


「痛かったか」


「痛かった」


「生きてるだろう」


 ソウが笑った。笑って、咳き込んだ。


「そういう話じゃねえんだよ。剣道だぞ。ああいうのはなしなんだ」


「そうなのか。なんで」


「なんでって」


 ソウが、口を開けた。


 開けたまま、何も出てこなかった。


「戦の稽古じゃないのか」


「……そうなんだけど、違うんだ」


「ここは軍の学校だろう。戦の支度をするところだろう」


 ソウは、答えなかった。


 しばらくして、首を振った。


 目が細くなって、口の端が上がっていた。頬に力が入っている。


 カイは、それを見た。


 何がおかしいのか、分からなかった。



 その日の夕方に、呼び出された。


 教官室である。立たされたまま、長く言われた。


 剣道は喧嘩ではない。相手を倒すためのものではない。試合は、勝ち負けを決める場ではなく、正しく打てたかどうかを見る場である。


 声を出さないのは、相手を軽んじることだ。


 教えていない技を使うな。


 突きは危ない。分からんのか。


 肩で受けるとは何事だ。あれは打たれに行ったのと同じだ。



 長かった。


 中身が、一つに絞られなかった。


 声のこと、姿勢のこと、突きのこと、心構えのこと。順に出てきて、どれがいちばん悪かったのかが分からない。


 カイは、黙って聞いていた。



 聞きながら、並べ替えていた。



 同じことを、前にも聞いた。


 上海の埠頭である。桟橋の手前で、カシラが並べた。


 人に迷惑をかけるな。物を盗るな。金を借りるな。貸すな。博打をやるな。やるなら負けろ。喧嘩をするな。どうしてもやるなら、知っている相手とだけにしろ。役人に逆らうな。逆らうくらいなら先に頭を下げろ。


 あのときも、長かった。


 長かったが、並べ替えれば一つになった。



 知らない相手は、後ろに何がついているか分からん。



 カイは、ソウの後ろに何かがついていることを知っていた。


 官舎から通っている。迎えの者が、あの男にだけ呼び方を変える。昼飯の途中で呼ばれて出ていく。誰に呼ばれるのかは、誰も訊かない。


 知っていて、倒した。



 分かったのは、相手を見て決めろ、ということだった。


 カシラは、九年かけて、それを何度も言っていたのである。



 教官が、まだ喋っていた。


 最後に、こう言った。


「おまえは、強くなりたくてここへ来たのだろう」


 カイは、顔を上げた。


「国が弱いから、おまえたちはここへ来ている。弱い者は、強い者の下につく。国も同じだ。だから強くなりに来ているのだろう。強くなるには、まず決まりを覚えろ」


 そのとおりだった。


 カイは、そう思った。



 教官室を出てから、腹が立ってきた。


 教官にではない。


 自分にである。


 当てた。刺さった。それでも、取られなかった。


 取られなかったのは、こちらが要件を知らなかったからである。


 知らないまま出て、負けた。



 カイは、そういう負け方を許せなかった。



 その晩から、調べはじめた。


 まず、規則を書いたものを探した。


 教員室にあった。借りたいと言うと、貸してくれた。読める字は半分もなかったが、ヤナに読ませて、分からないところは訊いた。


 次に、審判をやっている上級生に訊いた。


 どこを見ているのか。何を見て旗を上げるのか。上げなかったときは、どこが足りなかったのか。


 訊けば、たいてい答えた。仕事のことで熱心に訊いてくる若い者を、たいていの大人は面白がる。上海でも、船でも、それは同じだった。



 それから、外から試合を見た。


 自分が出ない日も道場へ行って、隅に座って、片端から数えた。


 旗の上がった打ちと、上がらなかった打ちを分けて数える。同じところに同じように当たっているのに、片方だけ取られることがある。何が違うのかを、目で拾っていく。



 荷の順番を組み替えたときと、同じだった。


 見えているものを並べれば、答えは一つしかない。



 五つある。



 声。


 いちばん納得がいかなかった。突けば刺さる。刺さったかどうかは、突いた手が知っている。声で言う必要が、どこにあるのか。


 分からないまま、出すことにした。


 要件だからである。理由が分からなくても、条件なら満たせばいい。上海の役所で、紙が要件どおりに人を決めていたのと、同じことだった。あのときも分からなかった。いまも分からない。


 分からなくても、満たせる。



 残心。


 突いたあとに、相手を見てしまう癖があった。次にどう来るかを見ている。


 直した。


 突いたら構えを戻す。相手が倒れようが座り込もうが、見ない。見ないのは、初めは気持ちが悪かった。



 姿勢。


 肩で受けてから入る、あのやり方をやめた。


 やめると、入れなくなった。


 だから、入り方を作り直した。相手が前に出る瞬間は同じである。そこへ、受けずに入る。受けない分だけ、間が細くなる。細い間へ入るには、出るのを早くするしかない。


 早く出るには、迷いがあってはいけない。



 肩。


 リンに言われたものである。入る前に、右の肩が一度だけ下がる。


 自分では見えない。


 壁に向かって何度も出して、影で見た。夕方の、日が横から入る時刻でないと映らないので、その時刻に道場の裏へ行った。


 映った。


 言われたとおりだった。落として、それから出ている。



 落とさずに出ようとすると、速さが落ちた。


 落とすことで、力を溜めていたのである。溜めずに出るには、別のところから出さなければならない。


 腰から出すことにした。


 できるようになるまでに、ひと月かかった。



 夏のあいだ、それをやった。


 行進が直ったのも、同じ夏である。



 秋の初めに、ソウに勝った。



 倒さなかった。


 喉も突かなかった。面を一本、取っただけである。


 声を出した。姿勢を崩さなかった。打ったあとに構えを戻した。刃の向きも正しかった。


 旗が、三本上がった。



 ソウは、面を外して、何も言わなかった。


 目が細くなって、口の端が上がっていた。更衣室で見たのと、同じ顔だった。


「そういうところだぞ」


 何のことか、カイには分からなかった。



 カイは、嬉しくなかった。



 嬉しくはなかったが、これでいいのだとは思った。


 規則を覚えれば、規則の中で勝てる。覚えるまでは負ける。それだけのことだった。



 秋口には、剣でも柔術でも、道場でカイを止められる者がいなくなった。


 銃剣だけが、別だった。

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