12_寮
夕方に、寮へ移った。
試験から入学までは、宿にいた。学校が借り上げている宿だ。そこから寮へ荷を運ぶ。荷といっても、着るものが二枚と、碗と、筆と、切符の紙だけである。
部屋は、八人で一つだった。
ヤナと、トキと、ゴウが同じ部屋だった。リンは隣である。ソウはいなかった。
その晩、寮則が読み上げられた。
起きる時刻。寝る時刻。外へ出てよい時刻。持ち込んでよいもの。掃除の当番。飯の時刻。火の始末。
そのうちの一行に、頭髪は短く刈ること、とあった。
実技が始まるからである。走って、跳んで、組み合う。長いものは邪魔になるし、掴まれる。それだけの理由だった。
書いた者は、支那のことを知らないのだと、カイは思った。
辮を落とすというのは、只事ではない。落とせば咎めを受ける。落とした頭で帰れば、役所の目がある。
寮則には、そんなことは書いていない。
頭髪は短く刈ること、とだけ書いてある。
書いた者はそこにいない。訊く相手もいない。
辮というのは、頭の後ろと横の下の方だけを残して、そこを編むものである。
残す以外は、剃る。額の生え際からてっぺんを通って、後頭部の途中まで、剃刀を当てる。だから、この形をしている者の頭は、上半分に髪がない。
剃るのは月に一度か、二度である。伸びれば、剃った範囲に短いものが浮いてくるので、それを落とす。
剃り屋の手が、当てる範囲を覚えている。
この形をしているかぎり、生え際がどこにあるかは、誰にも見えない。
剃った範囲が、それを飲み込んでいるからである。
髪が減っても、減ったところは剃る範囲の内側にある。剃ってしまえば、生えていないのと剃ったのとは、同じに見える。
剃り屋だけが知っている。当てる先に髪がなければ、そこは剃らずに済むからである。剃刀の走る距離が、年ごとに短くなる。
言う者はいない。客商売である。
刈ると、剃った範囲が消える。
てっぺんにも髪が生えてくる。生えてくれば、生えている範囲と、生えていない範囲の輪郭が、そのまま出る。
剃り跡ではなく、本物の生え際が出る。
てっぺんを剃るのは、年寄りに合わせる作法だった。若い者が自分で選んだ形ではない。落として刈ってしまえば、頭じゅうに髪がある。
寮の裏に、台が二つ出された。
散髪屋が二人来ていて、順に呼ばれた。前から来ている者たちは、もう坊主である。落とすのは、この春に来た連中だった。
列ができた。
誰も喋らなかった。日本人の教員が一人立っていて、順に数えていた。
リンは、笑っていた。
自分の番が来ると、台に座って、さっさとやらせた。落ちた辮を拾い上げて、しばらく持っていた。
「軽いな」
桶に、放った。
ゴウのときに、列が止まった。
鋏が、一度で入らなかった。
太いのである。編み目が詰まっていて、束のまま握れば、散髪屋の手には余った。刃を咬ませて、少し切って、抜いて、また咬ませる。何度も繰り返した。
途中で、散髪屋が道具を持ち替えた。
後ろの列が、動かなくなった。誰かが足を組み替えた。誰かが座り込んだ。教員が、数え直した。
落ちたとき、桶の底に音がした。
カイの番が来た。
座ってから、動かなかった。
散髪屋が待っていた。後ろがつかえていた。
「早うせえ」
誰かが言った。
カイは、九年、同じ形をしていた。
その形しか、知らなかった。
落とせば、剃った範囲がなくなる。てっぺんに髪が生える。生え際が出る。
自分の生え際を、カイは見たことがなかった。
嫌だった。
理由は、自分でも言えなかった。
規則である。規則なら従う。従わない理由がない。
それなのに、体が動かなかった。
散髪屋が、鋏を入れた。
一度で、行った。
二度目は要らなかった。刃を咬ませたところで、もう先が落ちていた。
あとは、上を刈るだけである。剃刀を使うほどのものではないので、鋏でざっと落として、それで済んだ。
早かった。
後ろの列が、急に進んだ。
落ちたものを、散髪屋が足元の桶に入れた。
桶の中には、もう何人ぶんも入っていた。太いものと、細いものが混ざっている。
カイは、自分のがどれかを見なかった。
寮の洗い場に、鏡があった。
小さいものが一枚、柱に打ちつけてある。八人で使う鏡である。
カイは、順番を待った。
待っているあいだに、二人が前を通った。どちらも自分の頭を触っていた。触って、笑っていた。
映った。
こめかみのところが、左右から食い込んでいた。
額の真ん中はまだ残っている。残っているので、そこだけが三角に前へ出ている。左右が引いて、真ん中が残る。そういう形だった。
ローマ字のMに見えた。
いままで、そこは剃ってあった。
剃ってあったから、食い込んでいるのか、剃ってあるだけなのか、区別がつかなかった。
いま、区別がついた。
トキが、後ろから覗いた。
「若くなったな」
悪気はなかった。この男に悪気があったことは、一度もない。あったことがないので、止まらないのだった。
それから、少し黙って、言い直した。
「ゴウは熊だな」
ゴウの頭は、黒かった。
もみあげが濃く、そこから額まで一続きに繋がっている。額が狭い。生え際が眉のすぐ上まで下りていて、刈った直後なのに青かった。刈っても、生えている範囲そのものが広いのである。
カイは、笑った。
笑って済ませた。
上海では、誰も言わなかった。編んでいたし、剃っていたし、みんな同じ形をしていたからである。
ソウは、そこにいなかった。
官舎から通っている。寮に入っていないので、寮則がかからない。
同じ教室で、同じ時間割で、同じ鐘で動いている。かからないのは、その一行だけだった。
寝床に入ってから、カイは耳の上に指をやった。
短いものが並んでいる。撫でると、ざらざらと鳴った。
毎日撫でていた場所ではない。毎日撫でていたのは、剃ったあとの、つるりとしたところである。
こんな音がするとは、知らなかった。
指を上へ動かすと、途中で引っかからなくなった。
そこから先が、生え際だった。
カイは、しばらくそこを撫でていた。
懐に、銅鏡がある。
磨けば映る。
出さなかった。
朝は鐘で起きる。
同じ時刻である。前の日も、その前の日も、同じ時刻に鳴った。窓の明るさが少しずつ変わっていくので、季節が動いているのは分かるが、鐘は動かない。
起きて、顔を洗って、飯を食う。
教室へ行くと、時間割どおりに始まる。
組では、夜中に起こされることがあった。
誰かが土間で戸を叩く。板の間に灯が入る。支度をして出ろと言われる。何があったのかは、出てから聞くか、聞かないまま終わる。
出れば、誰かが血を出して帰ってくる。
帰ってこない者もいた。
朝、頭数が足りないことがある。
誰も説明しない。飯の膳が一つ少なく出るだけである。次の日には、その男の話をする者がいなくなっている。
どこへ行ったのかを訊く場所がなかった。訊けば、知らんと言われる。
だから、寝ていても半分起きていた。
路地を歩く足音で目が覚める。戸が鳴れば体が起きる。起きてから、自分の家の戸ではないと分かって、また横になる。
明日は自分かもしれない、と思って寝る。
思っているので、眠りが浅い。
九年、そうやって寝ていた。
起きるのが、怖かった。
眠るのが怖いのではない。眠ってしまえば、そのあいだは何も起きない。
怖いのは、目が覚めたときである。
目を開けて、まだ動かずにいる。
板の間が静かなことがある。静かすぎることがある。
静かなのは、昨日の晩に誰かが出ていって、まだ帰っていないからだった。膳を数える前に、そこで分かる。
だから、動かずにいた。
動かなければ、まだ数えずに済む。
しばらくして、誰かが咳をする。誰かが起きる。土間で水を使う音がする。
起きて、数える。
合っている日と、合っていない日があった。
寮では、来なかった。
夜中に戸を叩く者がいない。灯も入らない。物音がすれば、それは誰かが便所へ立ったのである。
朝、鐘が鳴って、全員が起きる。
減っていない。
そのことに気づくまでに、しばらくかかった。
気づいたのは、二週目の朝だった。
起きて、飯の膳を数えた。数える癖がついているのである。数えて、合っていることに気がついた。
前の日も合っていた。その前も合っていた。
カイは、学校が好きになった。
好きになった理由を、本人は説明できなかった。
時間割があること。鐘が鳴ること。教科書が全員に配られていること。飯の時刻が決まっていること。誰かの気分で予定が変わらないこと。夜中に起こされないこと。朝、頭数が減っていないこと。
どれも、当たり前のことである。
当たり前だと思っている連中が、四十人いた。
実技が始まったのは、その月の半ばだった。
まず、行進である。
庭に線が引いてある。
四列に並んで、号令で足を出す。左から出す。全員が同じ側の足を、同じ速さで、同じ歩幅で出す。それだけである。
教官が号令をかける。一、二、一、二。
カイは、遅れた。
最初は、意味が分からなかった。
難しいところが一つもない。歩くだけである。歩けと言われて歩けない道理がなかった。
それなのに、遅れた。
号令がかかると、頭が動く。
いま何歩目か。次はどちらの足か。前の男の踵との間はどれだけ空いているか。列は真っ直ぐか。自分は端から何人目か。
全部、同時に見えてしまう。
見えたものを処理しているあいだに、体が半拍遅れる。
遅れたので、直した。
直すと、崩れた。
歩幅を合わせようとすると速さがずれる。速さを合わせようとすると歩幅が伸びる。前の男に合わせると、隣とずれる。隣に合わせると、前とぶつかる。
合わせようとするほど、合わなくなった。
四十人のうち、一人だけ遅れている。
すぐに分かる。
「止まれ」
全員が止まる。
名を呼ばれる。もう一度やり直しになる。四十人が、一人のせいで最初から歩き直す。
後ろから、舌打ちが聞こえた。
三度目に止められたとき、教官が前まで来た。
「考えるな」
カイは、返事をした。
考えるなと言われて、考えないやり方が分からなかった。
トキが、いちばんうまかった。
号令が聞こえた瞬間に足が出る。あいだに何もない。耳がいいのだった。教師の言葉をそのまま返すのと、同じことをしている。
ゴウも、崩れなかった。体が大きいので歩幅が広いが、そこを縮めて合わせていた。合わせているというより、周りの足音を聞いて、その中に自分を入れているように見えた。
リンは、普通だった。
ソウも、普通だった。ソウは寮にいないので、朝の行進には来ない日がある。来た日は、崩れなかった。
カイだけが、毎日止められた。
罰は、班に来た。
班は、五人だった。
四十人を八つに分けてある。誰と組むかは決められていない。並んだ順で切ったので、昼に飯を食っている五人が、そのまま一つになった。
カイ、ヤナ、トキ、ゴウ、リンである。
ソウは、別の班に入っていた。寮にいないので、来ない日は四人で歩くことになる班だった。
教練は班ごとにやり、班ごとに直される。
一人が崩れれば、班が崩れる。
最初はやり直しだった。五人が最初から歩き直す。それが二度、三度になると、時限が終わっても終わらない。飯の鐘が鳴っても、庭にいる。
次の週から、居残りになった。
最初のうちは、言われた。
合わせろ、と言われた。前を見ろ、と言われた。難しいことではないだろう、と言われた。
カイは、直そうとした。
直らなかった。
三週目から、誰も言わなくなった。
言っても直らないと分かったからである。
言われなくなってからの方が、こたえた。
居残りの庭で、四人が黙っている。
誰もこちらを見ない。見ないことに気をつかっているのが分かる。
カイは、そこに立っていた。
九つのときのことを、思い出した。
組では、こういうとき、殴られるのはキビだった。
教育係だからである。カイが水をこぼせば、キビが張られた。負けて帰った日も、キビが土間で張られていた。カイは座っていろと言われて、隅から見ていた。
いつも、そうだった。
顔を割られた日には、キビが勝手に出ていって、カシラが走って追いかけた。指の欠けた老けた男が走るのを、カイはあのとき初めて見た。
あのとき、受けたのは一人だった。
カイは、受けていない。座っていろと言われて、座っていた。
いまは、四人が庭に立っている。
誰も殴られない。ただ、日が暮れるまで残されるだけである。
黙っていたのは、三日だった。
四日目に、トキが言った。
「一個ずつ出そう」
誰も反対しなかった。
言い出したのがこの男だったので、たぶん深い考えはない。黙っているのが嫌になっただけである。
それでも、四人が順に出した。
ヤナが最初だった。
「前の男を見るな」
カイが前の男の踵を見ているのを、横から見ていたのだという。見ていると、そのぶん遅れる。見えたものに合わせるまでに、間があるからだ、と言った。
やってみた。
見ないと、どこに合わせていいのか分からなくなった。前より崩れた。
次はゴウだった。
喋らない男である。この日も、ほとんど喋らなかった。
カイの後ろに立って、肩に手を置いた。それから、自分が歩いた。
押された。
押される力に従って足を出せ、という意味だった。
やってみた。ゴウが押しているあいだは、揃った。
手が離れると、崩れた。
リンは、しばらく考えてから言った。
「数えるのをやめられないか」
カイが数えているのを、見抜いていた。
やめてみろ、と言われた。
やめようとすると、やめようとしていることを数えはじめた。
トキは、最後だった。
「聞け」
それだけ言った。
足音を聞け、と言うのである。この男は、そうやっているのだった。号令と、四十人の足音が一つになっているのが聞こえる。その中に自分の足音を入れれば済む、と言った。
カイには、四十人の足音は聞こえなかった。
聞こえるのは、自分の足音だけだった。
四つとも、駄目だった。
それでも、四人は毎日出した。
同じことを言い方を変えて出したり、新しいことを思いついたりした。ヤナが歩幅を測ろうと言って、庭に石を置いて印にした。ゴウが黙って歩いて見せた。リンが号令の言い方を真似た。トキは毎日ちがうことを言った。
どれも、駄目だった。
駄目だったが、居残りの庭は静かでなくなった。
上海の埠頭を、思い出した。
人足が列になって、板を渡っていた。細い板で、真ん中がたわんでいて、下は水である。荷を担いで、掛け声に足を合わせて、止まらずに渡る。
カイは、あれをやったことがない。
岸にいた。
客の間を行き来して、順番を組み替えて、置き賃を割った。担いだことは一度もない。
掛け声は、聞いていた。
節のついた短い声で、意味はなかった。何を言っているのかを訊いたことがある。訊いたら、意味はないと言われた。
あれで全員が同じ拍で足を出すのだ、と言われた。
もう一つ、思い出したものがあった。
十三の夏である。
包みを一つ届けに出て、境の手前で道が塞がれていた。通りの向こうから列が来ていた。四人ずつ並んで、同じ帽子をかぶり、同じ色の服を着て、同じ側に銃を担いでいた。
足音が揃っていた。
遠くから、一つの塊になって近づいてきた。人が大勢歩けば足音は散らばるものだが、あれは散らばらなかった。
カイは、押されて壁際まで下がった。包みを腹で押さえて、通り過ぎるのを見ていた。
肌の色が濃い連中と、白い連中が、同じ服を着て、同じ歩幅で歩いていた。
あのとき、列は外にあった。
いまは、その中に入っている。
ソウが言ったのは、一月ほど経ってからだった。
庭の隅である。ソウは来ない日が多かったので、そのときたまたま来ていたのだった。
「歌えばいい」
カイは、意味が分からなかった。
「歌を歌いながら歩く。合わせようとするから合わない。歌っていれば、勝手に合う」
カイは、歌を知らなかった。
母は歌わなかった。
組では、誰も歌わない。賭場でも、湯屋でも、飯のときでも、歌う者はいなかった。歌うのは、酔って絡んでいるときだけである。あれは歌ではない。
路地の女たちが何か口ずさんでいるのを、聞いたことはある。覚えていない。
知らないと言うと、ソウが少し黙った。
それから、一節だけ歌った。
短いものだった。子供のころに習ったのだと言った。
カイは、覚えられなかった。
長すぎたのである。名前と同じで、頭の二つしか入らない。
ソウは、それ以上教えなかった。
教える気がないのではなく、教え方が分からないのだった。あの男にとって、歌は生まれたときからそこにあるものである。ないという状態が、想像できない。
それからも、止められ続けた。
直ったのは、夏の盛りだった。
その日、カイは風邪をひいていた。
夏風邪である。熱はないが、鼻が詰まって、口で息をしていた。庭に出て、並んで、号令を待った。
息が苦しかったので、吸うところと吐くところを、自分で決めた。
二歩で吸って、二歩で吐く。
九つのときに、同じことを言われている。
水場との往復である。桶を担いで、こぼさずに帰る。速く歩くとこぼれる、とキビが言った。
同じ調子で歩け。足と息を合わせろ。
水は、揺れると勝手に大きく揺れる。抑えようとすると余計に揺れる。歩幅と息を一定にして、同じ速さで進むと、そのうち揺れが止まる。
覚えるのに、何日もかかった。覚えてしまうと、こぼさなくなった。
あれは、自分で拍を作る話だった。
速さは自分で決めていい。決めた速さを守ればいい。
行進は、速さが向こうから来る。
この日、カイは足を見なかった。
足は号令に合わないので、合わせるのをやめた。
合わせたのは、息である。
号令の一・二で吸って、三・四で吐く。それだけをやった。歩数は数えなかった。前の男との間も測らなかった。列が真っ直ぐかどうかも見なかった。
息だけを、号令に合わせた。
足が、勝手についてきた。
その日は、止められなかった。
終わってから、カイはしばらく立っていた。
何が起きたのかを、あとから並べようとした。並べようとすると、また分からなくなりそうだったので、やめた。
やめる、ということが、この日はできた。
班の連中は、何も言わなかった。
言わないまま、次の日も止められなかった。
三日目に、ヤナが「治ったな」と言った。
治ったのだと、カイも思った。
ソウの言った歌が、何をするものだったのかは、そのあとで分かった。
歌は、拍を持っている。歌っているあいだ、拍を作る仕事は歌がやってくれる。だから考えなくて済む。
カイには、歌がなかった。
かわりに、息があった。
教えたのは、キビである。
十年前に、水場までの道で言った。
あの男はいま、所払いで上海にいない。どこにいるのかも知らない。
本作のネタバレになりますが、全体を短編にしました。よかったらご覧ください。
歴史は髪の毛でできている『俺の髪で兄さんのカツラを作ったら、国が二つに分かれた件について』




