11_時間割
これは・・・書き始めて解ったのですが、
何年も掛かりそう。
ちょっと休憩して、短編でやり直します。スミマセン
時間割
港に着いたのは、朝だった。
山が近かった。上海には山がない。川の向こうまで平らで、どこまで行っても平らである。それが、船を降りる前から、すぐそこに立っていた。
建物が石で、道が狭く、坂だった。
同じ船で来た連中と一緒に、汽車に乗せられた。
迎えの者がいた。この国から先に来ている者で、話す言葉はこちらのものである。人数を数えて、名前を呼んで、切符を配った。慣れていた。毎月これをやっているらしかった。
汽車は速かった。
窓の外を、田が流れていった。畦が細かく切ってあって、一枚が小さい。上海の外の田は、もっと大きい。ここは山が多いので、平らになるよう坂を削って使っているのだった。
カイは、それを数えようとして、やめた。速すぎた。
試験は、三日後だった。
三つあった。漢文と、算と、外国語である。
漢文は、駄目だった。
読みは半分ほど分かった。書く方は、ほとんど手が動かなかった。答えの見当がついているのに、その字が書けない。書けない字を避けて、書ける字だけで書こうとすると、文にならない。
半分ほど白いまま出した。
算は、全部やった。
目方を換える。歩合を出す。日数と量から一日ぶんを割る。金の換算が二問あって、そのうち一問は外国の銀貨だった。
一問だけ、問いの文が読めなかった。
数は読める。字が三つ分からない。何を出せと言っているのかが、分からなかった。
カイは立って、試験官のところへ行った。手を挙げるものだということを、知らなかった。
紙を指して、この字は何かと訊いた。
試験官は、しばらくカイの顔を見た。それから、その一行を読み上げた。読み上げただけで、意味は言わなかった。
カイは、席に戻って解いた。
部屋じゅうが、見ていた。
紙を使わなかったので、途中の式を書けと言われて、書き足した。
書き足す方に手間がかかった。
外国語は、英語を選んだ。
選べるようになっていた。日本語でもよく、英語でもよく、ほかの国の言葉でもよかった。日本語はまだ何も知らない。英語は、二十六の字を知っている。
試験官は、痩せた男だった。
教師ではなく、貿易の方の人だという。港で長く働いていて、いまは請われて試験だけ見に来ている。
問いは、偏っていた。
船の部分の名前。荷の数え方。港の名前と、その国。方角。天気。積む、降ろす、繋ぐ、離す。石炭。真水。
聞き取りが先だった。
男が読み上げて、それを書き取る。速さは並で、二度は読まない。
埠頭で、何年も通じていた。船乗りは、どこの国のものでも英語は通じた。
ここに来る船の上では、それだけを見ていた。
罐の前で火夫に訊いた。綱の男に札を指して訊いた。海図の縁の字を読んだ。箱の焼き印を読んだ。厨房で皿を数えるのを見ていた。
出てくる言葉は、全部そこにあったものだった。
書き取りも、同じだった。
終わってから、試験官が紙を取り上げて、しばらく見ていた。
それから、顔を上げた。
何か訊かれた。カイは、船で来たと答えた。何日かかったかと訊かれて、日数を言った。帆を張ったかと訊かれて、張ったと答えた。何日張っていたかと訊かれて、それも答えた。
男は、少し笑った。
通った。
学校は、坂の途中にあった。
木の建物で、二階建てである。窓が大きい。廊下が長く、部屋が並んでいて、部屋には机が並んでいた。
机には、脚が四本ある。椅子も別にある。
カイは、それまで机に向かって座ったことがなかった。
入った日に、紙を一枚もらった。
刷ってあった。
縦に線が引いてあり、横にも線が引いてある。升目になっていて、その中に字が入っていた。
時間割というのだった。
横に、七日ぶんの日が並んでいる。縦に、時が並んでいる。交わったところに、その時間にやることが書いてある。
一つの升が、一時限である。
朝の八時に始まって、途中に休みが入って、昼に飯を食って、午後にもう二つか三つ。それが六日、繰り返される。
カイは、その紙をしばらく見ていた。
明日、何をするかが書いてあった。
明後日も書いてあった。その次も、その次も、七日ぶん全部書いてあって、しかも来週も同じである。
組では、そうではなかった。
明日どこへ行くかは、前の晩に言われる。言われないこともある。朝になってから、支度をして出ろと言われることもある。訊いても答えは決まっていた。知らん。言われたら動け。
カイは、それを九年やった。
九年やって、一度も先のことを知らなかった。
紙に書いてあるのだった。
しかも、自分だけの紙ではない。同じものが、全員に配られていた。隣の男の持っているものと、見比べても同じである。
誰かの気分で変わることがない。
鐘が鳴る。
校舎の端に、太い縄が下がっている。時が来ると、用務の男がそれを引く。上で鐘が鳴って、廊下じゅうに聞こえる。
鐘が鳴れば始まる。もう一度鳴れば終わる。
誰が偉いかは、関係がなかった。
鐘を鳴らす時は、時計が決めている。
玄関の壁に大きいのが掛かっていて、教員室にもう一つある。用務の男は、そのどちらかを見て縄を引く。
カイは、その時計を見に行った。
振り子が下がっていて、左右に振れている。振れる幅は、いつ見ても同じだった。速くなったり遅くなったりしない。
それで時が刻まれるのだと、教えられた。
日の高さでは、こうはならない。
船の当直の男は、太陽を指した。あれは、太陽が見えるときにしか使えない。曇れば分からない。夜も分からない。
振り子は、曇っても振れている。
だから、時間割が組める。
教科書が配られた。
これも刷ってあった。
全員に同じものが行き渡る。写す必要がない。開けば同じ頁があって、同じ字が同じ場所に並んでいる。教師が頁を言えば、全員が同じところを見る。
こういう本は、木の板に彫って刷るのだと思っていた。上海で売っている本は、そうである。彫る手間がかかるので、部数が少なく、値が高い。
この本は、違った。
字を一つずつ作ってあって、それを並べて組んで、刷る。刷り終われば崩して、次の本に使い回す。だから安い。
安いから、全員に配れる。
配れるから、写さなくてよくなる。
写さなくてよいということの意味を、カイは少し考えた。
組では、帳面は一冊しかない。カシラが持っていて、カシラが書く。中身を知りたければ、カシラに訊くか、後ろから覗くしかない。
覗いていたのは、そのためだった。
筆記の道具も配られた。
筆ではなかった。
木の細い棒で、中に黒いものが入っている。削ると先が出る。紙に押しつけると線が引ける。墨も水も要らない。
鉛筆というのだと教えられた。
書いてみた。
残った。
乾くのを待たなくてよかった。書いた端から、そのまま残っている。二画目を引いているあいだに一画目が消えることがない。
いくらでも並べられた。
未と末を、紙の上に十も二十も並べた。並べたまま、置いておける。
間違えたら、消せた。
小さい四角いものを渡された。ゴムというのだそうである。書いた上を擦ると、線が消えて、紙が元に戻る。
カイは、それを何度もやってみた。
書いて、消して、また書いた。
水は、書いた端から消えていって、残らなかった。
これは、残る。残るが、消せる。
どちらも同じことではないかと、最初は思った。
違った。
水は、残しておきたくても残らない。こちらは、残すか消すかを、こちらが決められる。
最初の一日で、カイは鉛筆を二本潰した。
削りすぎたのである。中の黒いものが、削るたびに減っていく。減るのが惜しくなって、途中から折れた先をそのまま使った。
日本語は、いちばん時間の多い科目だった。
字は、半分は知っているものだった。同じ形が同じ意味で出てくる。ただ、読み方がまるで違う。しかも一つの字に読み方が二つも三つもある。
そのあいだに、知らない字が挟まっている。丸いのや、曲がったのが、漢字の隙間に入っている。
あれも数えた。
五十ほどあった。二十六より多いが、漢字よりはるかに少ない。それが二通りある。
部屋には、四十人ほどが座っていた。
半分は同じ船で来た連中で、半分は前から来ている者だった。
四億五千万人いる国から、四十人が、この部屋に座っていた。
初日に、教師が名簿を読み上げた。
名前が、長かった。
この国の名は、音が七つも八つも続く。読み上げられても、カイには最後まで追えなかった。追っているうちに次が来る。
カイの知っている名前は、みな音が二つである。
カイ。タク。キビ。ラン。ホー。ショウ。組の家で呼ばれていたものは、全部そうだった。二つなら、一度で入る。
だから、頭の二つだけを切った。
いちばん前に座っている支那人の男は、ソウといった。
こちらの名は、もともと短い。切る必要がなかった。
算のときに、手が止まらない。式を書くのが速く、速いだけではなく途中を飛ばさない。カイは頭の中でやってしまうので、書けと言われて書き足すことになる。この男は、最初から書きながら考えている。
背が低く、肩が薄く、着ているものがよかった。物言いが、都の方の言葉である。同じ船ではなく、先に来ていて、寄宿舎も別だった。
迎えの者が名前を呼ぶときに、この男にだけ言い方が違った。
窓際の日本人の男は、ヤナといった。
鉛筆の削り方が上手い。小刀の当て方が浅く、木を薄く長く落としていく。先が細く長く出て、しかも折れない。カイは初日に二本潰したので、その削り方を横から見ていた。
見ているのに気づかれて、貸してみろと言われた。
削ってくれた。
礼を言うときに、カイはその名を呼んだ。
「ヤナ」
相手が首を振った。
違う、それは半分だ、と言った。全部言ってみろと言われて、言ってみた。二つ目で詰まった。もう一度言われて、また詰まった。三度目で、相手が笑い出した。
「ヤナでいい」
その後ろの男は、トキという日本人だった。
これも、たぶん半分である。訂正されなかった。
日本語の発音がよかった。教師が読み上げるのを、そのまま返す。他の連中は口が回らずに詰まるが、この男は詰まらない。耳がいいのだった。
顔が大きく、笑うと目がなくなる。授業のあいだ中、誰かに話しかけていて、そのたびに叱られていた。
叱られても、次の時限にはまた話しかけていた。
三日目に、カイの隣に座った。
席は決まっていない。決まっていないので、この男は毎日ちがうところに座って、毎日ちがう相手に話しかけていた。
「あんた、船で来たろう」
なぜ分かるのかと訊いた。
「日に焼けてる」
いちばん後ろに、体の大きいのが一人いた。
ゴウという。
肩の幅が、カイより広い。手が大きく、指の付け根が硬くなっていた。何かをやっていた手である。
喋らなかった。
時間割を配られたとき、この男だけが、カイと同じくらい長くその紙を見ていた。
目が合った。
どちらも、何も言わなかった。
声をかけてきたのは、同じ船で来た男だった。
リンという。
「船で一緒だったね」
北の言葉だ。カイは、顔を覚えていなかった。
覚えていないと言うと、相手は笑った。甲板の隅に座っていた側だから、覚えていないのが当たり前だと言った。あんたは動き回っていた、と。
それから、笑って付け足した。
埠頭で、女に何人も泣かれていたのを見た。あれは全部あんたのだろう、と。
支那語である。トキとヤナには通じていない。
カイは、そうだと答えた。それだけだった。
毎朝、掃除を手伝っていたのも見ていたと言った。何を書いていたのかとも訊かれた。
カイは、字だと答えた。
リンは、よく喋った。
喋るが、相手の話を先に聞いた。カイが何か言うと、最後まで聞いて、それから自分のことを言う。押しつけがましくなかった。
どこから来たのかと訊かれて、カイは上海だと答えた。
リンは、自分は北の方だと言った。
村の名を言われたが、カイは知らなかった。知らないと言うと、誰も知らないところだ、と言って笑った。
「あんた、算が速いね」
試験のあとで、廊下でそう言われた。
見ていたわけではない。同じ部屋で受けて、カイが先に手を止めたのを見ていたのである。
カイは、答えなかった。答えなかったが、その男のことは覚えた。
昼の休みに、五人で飯を食うようになった。
誰が決めたわけでもない。トキが毎日ちがう相手に話しかけているうちに、そのうちの何人かが同じところに集まるようになっただけである。
喋るのはトキとリンで、あとの三人は聞いていた。
ソウは、来る日と来ない日があった。来ても、途中で立って行くことが多かった。呼ばれるのだった。誰に呼ばれるのかは、誰も訊かなかった。
ゴウは、毎日来た。毎日来て、何も喋らなかった。
ゴウは、喋らない男だった。
背が高く、肩が厚く、歩くと床が鳴る。教室では一番後ろに座って、一日に三度か四度しか口を開かない。訊かれれば答えるが、答えると終わる。トキが何を話しかけても、うん、で済ませる。
ただ、一つだけ例外があった。
この国がこれからどうなるか、という話になると、ゴウは喋った。
誰かが新聞を持ってきて、それを読み上げる。すると後ろの方からゴウの声がする。最初は一言である。次に、その一言の理由を言う。それから、その理由の理由を言う。止まらなくなる。
土地の話をした。どこの省が誰の言うことを聞いていて、どこが聞いていないか。兵の話をした。どの兵が誰から給料をもらっているか。金の話をした。借りた金を誰が返すことになっているか。
トキが途中で茶を入れに立って、戻ってきてもまだ喋っていた。
カイには、分からなかった。
分からないが、この形には覚えがあった。組の若い衆に段取りを教えるとき、自分もこうなる。一つ言えば次が出てきて、次を言えば理由が出てきて、止まらない。相手が聞いていなくても止まらない。
喋る中身が違うだけで、喋り方は同じだった。
同じなのに、カイの方は一言も入ってこない。
船の上で、後ろの方に輪ができていたのを思い出した。五人か六人で膝を叩いていた連中である。あのとき分からなかったものが、今も分からない。
ゴウが一度だけ、こちらを向いて訊いたことがある。
「お前は、どう思う」
カイは、少し考えた。
「知らん」
ゴウは頷いて、それきり訊かなかった。嫌な顔はしなかった。訊いた相手が悪かった、という顔でもなかった。ただ、この男には訊いても仕方がない、と分かった顔だった。
その晩から、ゴウはカイに一度も政の話をしなかった。
カイは、それを気にしていない。気にしていないことにも気づいていない。
傷のことを、最初に言ったのはトキだった。
昼の休みである。飯を食いながら、いきなり顔を指した。
「それ、どうしたの」
部屋が少し静かになった。訊いていいことなのかどうかを、みんなが同時に考えたのである。
カイは、喧嘩だと答えた。
「勝ったの」
「勝ちました」
トキが笑った。それで済んだ。
右の頬に、白い線が一本ある。
顎の下から目尻の方へ、少し斜めに上がっている。塞がってから九年経つので、色は抜けていた。日に焼けると、そこだけ焼けずに残る。
縫ってある。
縫い目の跡が、線の上に点々と残っていた。
四つである。数えたのは、縫われているあいだだった。
その日から、ゴウが見るようになった。
喋らない男である。話しかけてくるわけではない。飯を食っているあいだ、ときどき顔を上げて、カイの右側を見ていた。
見ていることを隠さなかった。
四日目に、ゴウが訊いた。
この男の声を聞いたのは、それが最初だった。
「何で縫った」
カイは、糸だと答えた。
ゴウは、首を振った。
誰が縫ったのか、という意味だった。
剃り屋だと答えた。
月に何度か組へ来て、男たちの頭を剃っていく男である。細い鞄を提げていて、中に剃刀と、鋏と、糸と、針が入っている。刃物を扱う商売なので、刃物の傷も見る。医者よりずっと近くて、安い。
四針だった。
ゴウが頷いた。
それから、自分の左手を出した。
親指の付け根に、太い跡があった。真ん中が盛り上がって、両側が引き攣れている。カイのものより、ずっと荒い。
「これは、俺が縫った」
二人とも、それ以上言わなかった。
トキが何か訊こうとして、リンが袖を引いた。
ゴウの手を、カイはそのあとで見た。
指の付け根が硬い。爪が短く、割れている。掌の側に、細かい古い切り傷が何本もあった。
刃物ではない。刃物なら、線が長くなる。これは短くて、あちこちにある。
何かを削っていた手だった。あるいは、削られていた手である。
訊かなかった。
ヤナが、鉛筆をもう一本削ってくれた。
カイは、その代わりに、算を教えた。
ヤナは算が苦手だった。式を丁寧に書くが、途中で一つ落とす。落としたところから先が全部ずれる。
カイは、どこで落としたかをすぐ見つけた。
二度目からは、ヤナが自分で見つけるようになった。
リンが、それを見ていた。
「あんた、教えるのも上手いんだな」
カイは、教えていない、と言った。どこで落としたかを言っただけである。
リンは、それが教えることだ、と言った。
時間割の紙は、机の中に入れておくことになっていた。
カイは、懐に入れて持ち歩いた。
誰も、そうしていなかった。
トキが、箸を止めた。
「あんたたち、まだ三日だよね」
リンが頷いた。
「じゃあ、なんでリンとゴウの二人は日本語で喋ってるの」
三人が、顔を見合わせた。
リンが言った。
「わたしは北の言葉、ゴウは南の言葉しか話せない。カイは上海の言葉と、北の言葉と、南の言葉を話す。だから、これがいちばん早い」
トキが目を見開いた。
「じゃあ、カイは三つも話せるの」
「四つだ」
カイが言った。
「川上の言葉も、少し分かる」
トキとヤナが、両手をついて前のめりになった。口が半分あいて、瞼が上がって、黒目が小さく見えた。
「支那語って、そんなにいろいろあるの」
「十くらいあると聞いている」
カイが言った。
「人間が、四億五千万人いる」




