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10/15

10_杯と水筆

 杯と水筆


 剃り屋は、路地の入口に台を出していた。


 椅子が一つと、湯を沸かす小さい竈と、革の帯が壁に下げてある。剃刀は、その帯で研ぐ。


 月に一度、カイはそこへ行った。


 前と横を剃って、後ろは伸ばす。伸ばしたところを編んで、辮にする。剃るのは根元の周りだけである。伸びてくると境目に短い毛が浮いてくるので、それを落とす。


「先生、今日は丁寧に頼みます」


 カイがそう言うと、剃り屋は顔を上げた。


 この男が注文をつけたことは、これまで一度もない。座って、剃られて、銭を置いて出ていく。それだけだった。


「何かあるんか」


「あります」


 剃り屋は、それ以上訊かなかった。



 剃る前に、剃り屋は一度だけ右の頬を見た。


 九年前に自分が縫ったものである。四針だった。糸を抜きに来たのも自分だった。あのころは、この客の頭に手を置くと、体ごと動いた。


 いまは、動かない。


 湯を新しく汲み直して、剃刀を二度研いだ。


 いつもより長くかかった。剃ったあとで頭に手を当てて確かめ、二度戻った。それから辮をほどいて、根元から編み直した。


 編み終わって、後ろから軽く引いた。締まり具合を見るのである。


 片手で余った。


 この男の辮は、昔から細い。子供のころからそうだった。組の若い衆のものは、握ると指が回りきらない。カイのは、親指と人差し指で輪を作れば、その中に収まってしまう。編み目が三つも通れば、もう先が細くなる。


 剃り屋は、それを毎月握っている。


 今日は丁寧に頼まれているので、いつもより長く見ていた。


 剃刀の走る距離が、短くなっている。


 前と横を剃って、後ろは残す。剃り屋の手は、当てる範囲を覚えている。額の上から後ろへ向かって、去年は何度か往復したところを、今年は一度で済んでいた。


 剃るものが、そこにもうない。


 際が、少しずつ上がっているのだった。


 言わなかった。


「よかろう」


 カイは、頭に手をやった。


 剃ったあとの地肌が、指に冷たかった。


「背中は」


「船に乗ります」


 剃り屋は、それきり言わなかった。



 その日は、いちばんいいものを着た。


 組から出た着物である。去年、揉め事の礼にもらったもので、一度も袖を通していなかった。紺で、袖口と裾に地味な模様が入っている。帯は借りた。


 履物も、下ろしたてを出した。


 着てみると、体に合っていなかった。もらったときより肩が出ている。腕が少し短く見えた。


 それでも、着た。


 組の家の奥の部屋は、ふだん使わない。


 その日は、朝から掃いてあった。窓を開けて風を通し、床を拭き、壁際のものを全部外へ出してある。


 正面に、赤い布をかけた台が置いてあった。


 台の上に、燭が二本と、香が立ててある。その手前に、水を張った盆と、盃が二つ。塩の小皿と、徳利。


 誰も口を利かなかった。


 オヤッサンが、絹の長衫で座っていた。


 カシラがその横で、こちらも改まったものを着ている。ホーのアニキも、若い衆も、みな着替えていた。畳んだ手を膝に置いて、背筋を伸ばして並んでいた。


 いつも大声を出す連中が、一言も喋らなかった。


 カイは、正面に座らされた。



 やり方は決まっていた。


 水を張り、酒を注ぎ、塩を落とす。オヤッサンが先に口をつけ、それをカイが受ける。受けたら飲み干して、盃を懐に納める。


 注ぐのは、カシラの役だった。


 徳利を両手で持って、音を立てずに注いだ。指の欠けた手である。塩を落とすときに、小皿を持つ手が少し止まった。


 口上は、長かった。


 カシラが読み上げた。読み上げるあいだ、誰も動かなかった。


 筋の話である。誰の下につき、誰を立て、何をしないか。


 義理を欠かないこと。人の女に手を出さないこと。組の金に手をつけないこと。堅気に迷惑をかけないこと。上を飛び越さないこと。


 カイは、聞いていた。


 聞きながら、なぜこの順で並んでいるのかを考えていた。いちばん重いものが最後に来るのだとすれば、上を飛び越さないことが、いちばん重いことになる。


 オヤッサンが、盃を口につけた。


 置いた。


 カシラが両手で運んできて、カイの前に置いた。


 カイは、両手で持った。


 持ったところで、手が少し震えた。震えたのは自分でも意外だった。数を数えているときも、縄を掛けているときも、剣で突くときも、震えたことはない。


 飲み干した。


 塩が舌に残った。


 懐に納めた。


 その瞬間から、呼び方が変わるはずだった。


 誰も何も言わなかった。言わないのが決まりなのかどうか、カイには分からなかった。



 燭を消して、香を片付けてから、オヤッサンが紙を出した。


 畳んであった。


 開くと、印が押してあって、字が並んでいた。


 カイは、それを見た。


 読める字が、いくつかあった。


 指を当てて、一つずつ言った。


「これは、海です」


「そうだ」


「これは、上」


「そうだ」


「これは、学」


 カシラが頷いた。


 カイは、指を右へ動かした。


「これは、末……」


 止まった。


 似ているが、違った。横の棒が二本あって、上と下がある。どちらが長いのかを、いま見ている字と、頭の中にある字とで、取り違えた気がした。


「未だ」


 カシラが言った。


「未ですか」


「上が短いほうが未だ」


 カイは、その字をしばらく見ていた。



 単位の字なら、間違えない。


 斤も、両も、石も、丈も、毎日見ている。荷札に出て、帳面に出て、相場の紙に出る。書き手が違っても、崩し方が違っても、一目で分かる。取り違えたことはない。


 単位でない字が、駄目だった。


 そういうことは、これまでにも何度もあった。


 荷札を読み違えて、直された。帳面の数を読み違えて、直された。似た字を並べて見せられて、どこが違うかを言われた。


 一度言われれば、二度目はない。


 だから読める字は増えていった。増えたが、増え方が偏っていた。荷と、数と、日付と、地の名と、金にかかわるもの。船と、車と、俵と、箱。何度も出てくる人の名。



 その外は、まるで駄目だった。


 文になると崩れる。知っている字が並んでいても、そのあいだを繋ぐものが読めない。


 自分がどこまで読めるのかを、カイは知らなかった。


 読めると思って受け取った紙が、二行目で止まる。止まってから、読めていなかったのだと分かる。


「そこまでか」


 カシラが訊いた。


「そこまでです」


 カシラは、少し黙った。


 それから、残りを読み上げた。


 船に乗る。海を渡る。向こうに、この国から来た者を入れる学校がある。そこで言葉と、字と、算を一年ほどやり直す。


 通れば、上の学堂へ行ける。


 金は、組が出す。


「試験がある」


 カシラが、そこで顔を上げた。


「入るのに、試験がある。読むだけじゃない」


「何をするんです」


「書かされる」


 カイは、紙を持ったまま座っていた。



 訊かなかった。


 なぜ自分なのか。いくらかかるのか。何年で帰るのか。帰ってどうするのか。


 どれも訊かなかった。


 訊けば答えは返ってくる。返ってくる答えは、たぶん一つである。


 組が出す。だから、おまえは行く。


 九年前の秋と同じだった。おまえ、ショウか。カイです。うちに来るか。


 あのとき、行くか行かないかは訊かれていない。


 オヤッサンは、最後まで何も言わなかった。


 カシラが読み上げ終わってからも、しばらく座っていた。それから立って、部屋を出ていった。


 出ていくときに、一度だけ振り向いた。


 振り向いて、何も言わずに出ていった。



 発つのは、月が変わってからだった。


 仕度は、多くなかった。


 着るものが二枚。銭がいくらか。書役に訊いておいた筆の持ち方を、忘れないうちに何度も指でなぞった。


 刀は、置いてきた。


 柳葉刀である。細く、反りが浅く、帯に落とせば見えない。路地の喧嘩ではこれしか使えなかった。持っていく先には、使う場所がない。


 組の家の、預ける場所に置いた。



 板の間の奥は、一段高くなっている。


 棚があって、髭の長い赤ら顔の像が置いてある。前に小さな香炉があり、細い煙が上がっている。朝と晩に一度ずつ、線香を上げるのはカイの仕事だった。九年、続けている。


 棚の端に、粗い木綿の袋がある。


 口に紐が通してあって、縫い目が曲がっていた。誰が縫ったものかは知らない。九年、そこにある。


 カシラを呼んだ。


「取ります」


 カシラは、何も訊かなかった。


 板の間に上がって、帳面を出した。黒い表紙で、紐で綴じてある。あれは一冊しかない。


 開いて、遡っていった。


 カイは、横から見ていた。



 九つのときも、同じところに立って、同じ姿勢で見ていた。


 あのときは、一字も読めなかった。


 いまは、読めるものがあった。


 日付が読める。数が読める。荷札と帳面と相場の紙で、毎日見てきた字ばかりだった。


 自分の名も、たぶんあれである。


 読めないものが、一つあった。


 その行の頭に、預かった品を書いた字がある。荷札には出ない字だった。


 カシラは、袋の紐をほどいて、中を出した。


 掌に載せて、明かりに近づけて、裏を返して、しばらく見た。


 九年前と、同じ手つきだった。


 それから、筆を入れた。


 九年前に書いた行の下に、一行足した。書いて、日付を入れて、筆を拭いて、帳面を閉じた。


 袋ごと渡した。


 何も言わなかった。


 カイは、袋を開けた。


 九年、開けていない。触ってもいない。棚の端に置いてあって、線香を上げるたびに目に入るだけだった。


 曇っていた。


 九年前と、同じである。誰も磨いていない。


 掌に収まる大きさで、縁が厚く、面は白く濁って、顔は映らなかった。


 裏を返した。


 龍と虎が、向かい合って鋳出してある。その周りを、字の帯が囲んでいた。


 読める字が、一つあった。


 子、である。


 あとは分からなかった。



 懐に入れたものが、二つになった。


 盃と、銅鏡だった。


 埠頭には、カシラとホーのアニキと、若い衆が四人来た。


 オヤッサンは来なかった。


 女が、七人来ていた。


 若い衆の後ろに固まっていて、前へ出るのは一人ずつだった。前の女が下がってから、次が出る。詰めもしないし、割り込みもない。順番は決まっているらしかった。


 最初の女は、泣かなかった。包みを一つ渡して、二言三言喋って、下がった。いちばん短かった。


 中ほどが賑やかだった。泣く女がいて、胸を叩く女がいて、抱きついたまま離れない女がいた。若い衆が囃した。カイも笑って、いちいち相手をした。


 一人が、襟の合わせから手を入れて、胸を撫でた。帯の上には盃と鏡が乗っている。手はそこまで届かなかった。気にはなったが、見られて困るものでもない。カイは、そのまま撫でさせておいた。


 囃す声が、止んだ。若い衆は四人とも、口を半分開けて前のめりになって見ていた。


 最後の女は、何も渡さず、何も言わずに出てきて、すぐ下がった。これもいちばん短かった。


 終わると、七人は元のところへ固まって、動かなくなった。



 組の若い衆が言った。


「これで修羅場にならないってのは、どういうことなんだい?」


 カイは、何も言わなかった。



 カシラは、桟橋の手前で立ち止まった。それ以上は行かないという立ち方だった。


「向こうで、誰に世話になったか書いて寄越せ」


「書けません」


「書けるようになってから書け」


 それから、カシラは注意を並べた。


 人に迷惑をかけるな。物を盗るな。金を借りるな。貸すな。博打をやるな。やるなら負けろ。


 喧嘩をするな。どうしてもやるなら、知っている相手とだけにしろ。知らない相手は、後ろに何がついているか分からん。


 役人に逆らうな。逆らうくらいなら先に頭を下げろ。頭を下げるのは只だ。


 女の話は、するな。


 若い衆が、下を向いて肩を震わせた。



 ホーのアニキも、横から並べた。


 誰とでも喋るのはいいが、喋りすぎるな。訊かれてもいないことを言うな。人の昔の話を、本人の前でするな。


 若い衆が四人とも、ホーの方を見た。


 カシラも見た。


 ホーは気づかずに、まだ喋っていた。



 カイは、それを全部聞いた。


 聞きながら、頭の中で並べ替えていた。


 やってはいけないことが並んでいる。並べ方は、盃の口上と同じである。義理を欠かない。人の女に手を出さない。組の金に手をつけない。堅気に迷惑をかけない。上を飛び越さない。


 同じことを、言い方を変えて言っている。


 つまり、これは仕事だった。


 埠頭で外国の船乗りに笑って喋るのと、村で腰掛けの上の人に頭を下げるのと、同じ種類のことである。組を出るのではなく、遠くへ出張るのだった。


 カイは、そう理解した。



 ホーが最後に、何か長いことを喋った。


 船の話と、昔の話と、それから何の話か分からない話だった。若い衆が笑って、途中で止めた。


 カイは、笑って聞いていた。



 船は、外国の船だった。


 鉄でできていて、煙突から煤の匂いがした。埠頭で何度も見た形である。上がってみると、上から見た岸は低かった。


 人が多かった。


 同じ年ごろの男が、何十人も乗っていた。みな辮を編んでいて、みな新しい着物を着ていた。荷を抱えて、甲板の隅に固まって、互いに何も喋らなかった。


 荷は、みな似ていた。四角い箱と、布の包み。箱の中身は本だった。


 見送りに、親が来ていた者がいた。字の書ける家の親である。


 どこから来たのかは、顔つきと言葉で分かった。北の者もいたし、南の者もいた。


 この船に限らなかった。この年、東の島国へ渡る船はどれもこういう男を乗せていた。一年で万に近い数が渡ったという。


 理由は、試験がなくなったことだった。


 千三百年のあいだ、この国で偉くなる道は一本しかなかった。試験である。四書五経を覚えて、県で受かり、省で受かり、都で受かる。受かれば官になり、家が建ち、村が名を上げる。受からなければ、何年でも受け直す。五十を過ぎて受け続けている者は、どの県にもいた。


 それが、一昨年の秋に停まった。


 北で戦があった。東の島国が、最北の王国に勝った。小さい方が大きい方に勝ったので、上の者たちは理由を探した。探して、学校だ、ということにした。あちらは新しい学校を作り、新しいことを教えている。こちらは古い本を覚えさせている。負けたのはそのせいだ、と。


 それで学校を作ることにした。


 だが、作っても誰も来なかった。試験が残っている限り、若い者は皆そちらを目指す。受かれば官になれるのだから、学校へ行く理由がない。


 そこで、門の方を閉めた。


 来年の分から試験はやらない、という紙が一枚降りた。それだけである。千三百年続いていたものが、紙一枚で終わった。三度落ちた祖父と、一度も受からないまま死んだ父と、その続きをやるはずだった息子が、同じ日に行き先をなくした。


 閉めた代わりに、別の門が開いていた。


 学校を出た者に試験を受けさせて、昔の試験と同じ資格をやることにしたのである。しかも、外国の学校でよい、と書いてあった。


 だから船が混む。


 東の島国が選ばれたのは、近いからだった。西の国々へは二月かかるが、こちらは数日で着く。金も十分の一で済む。字が半分通じるので、辞書を引きながらでも講義が聞ける。早いところなら一年で修了の紙が出る。


 家に田を売らせて乗った者もいた。村で銭を集めてもらって乗った者もいた。箱の中の本は、向こうの学校へ入るための本である。


 甲板にいる男たちは、そういう男たちだった。


 昼を過ぎると、後ろの方で輪ができた。


 広州の者たちだった。五人か六人で、一人が喋ると三人が同時に喋り返す。手が動く。卓がないので膝を叩く。一人が立ち上がって、手のひらを横に切るように動かした。


 カイには、言葉は分かった。広州の言葉は組にも使う者がいたから、聞き取れる。


 聞き取れるのに、何の話をしているのかが分からなかった。


 一つ一つの言葉は知っていた。国。兵。金。紙。だが、その並べ方が組の並べ方ではなかった。誰が誰に何を借りているのか、誰の顔を立てる話なのか、一つも出てこない。出てこないのに、皆本気で怒っている。


 輪の外では、別の連中が本を読んでいた。


 風の当たらない側に背をつけて、膝に箱を置いて、その上で開く。飯のときも閉じない。頁をめくる指だけが動いて、あとは動かない。


 このような者たちを新学と呼んでいた。


 カイは、しばらく見ていた。


 字が読めないので、その男が今何をしているのかが分からない。見ているのは紙で、紙には何も起きていない。それなのに、男の顔つきは時々変わる。


 どちらにも、興味がなかった。



 船が出た。


 岸が動いて、桟橋の上の四人が小さくなった。ホーのアニキが手を振っていた。カシラは、動かなかった。


 その日のうちに、カイは船の中を歩きはじめた。


 同じ年ごろの連中は、甲板の隅から動かなかった。荷を抱えて、座って、海を見ていた。


 カイは、動く方の人間を追いかけた。


 水を運んでいる男についていって、どこへ運ぶのかを見た。皿を下げていく男についていって、厨房を見た。綱を巻いている男の横にしゃがんで、巻き方を見た。


 邪魔だと言われれば下がった。下がって、少し離れたところから見ていた。


 しばらくすると、また近づいた。


 笑っていた。



 言葉は片言である。単語を並べて、指で数を出し、通じなければ身振りにした。通じたところで笑い、通じなくても笑った。


 二日で、賄いの男と、綱の男と、船倉の見張りの男が、カイの顔を覚えた。


 名前も覚えられた。


 沖に出ると、帆を張った。


 煙突のほかに、帆柱が二本立っている。港を出るまでは罐を焚いて出るが、外海に出て風をつかまえたら、帆を上げて罐の火を落とす。


 水夫が綱を引いて、布が広がった。


 広がったとたんに、足の裏の震えが小さくなった。それまで、板を通してずっと細かく震えていたのである。震えが止まって、かわりに、船の傾きが大きくなった。


 煙突からは、薄く煙が出ているだけになった。



 二日目に、水を借りた。


 甲板の板は、乾いていて、色が薄い。そこへ水を落とすと、濡れたところだけ黒くなった。


 最初は、海の水を汲んだ。


 書ける。書けるが、乾いたあとに白い跡が残った。塩である。消えたはずの字が、白く浮いて残っている。


 拭いた。拭いても薄く残った。


 真水をもらいに行った。


 船の真水は限りがある。飲むぶんと、煮炊きのぶんで決まっていて、余分は出さない。


 賄いの男に訊いた。片言である。何に使うのかと訊かれて、書くのだと答えた。書くのに水を使うのかと訊かれて、頷いた。


 男は、碗に半分だけくれた。


 碗に半分なら、書ける数が決まる。


 筆を浸して、引いて、また浸す。一度浸せば三画か四画で切れる。切れる前にどこまで引けるかを考えて、引く順を決める。


 水を無駄にすると、その日はもう書けない。


 未と末を並べて書いた。


 上が短いのと、上が長いのと、二つ並べれば違いが分かる。


 並べずに一つだけ書くと、分からなくなった。いま引いた棒が、その前に引いた棒より長いのか短いのか。比べるものがなければ、長い短いは決まらない。


 碗に半分では、二つ並べて、乾く前に見比べるのが精一杯だった。



 三日目の朝、甲板を洗っていた。


 日が出る前に、水夫が二人がかりでポンプを回す。海から汲み上げた水が管を通って出てきて、それを甲板に撒く。撒いたところを、柄の長いブラシで擦る。


 カイは、それを手伝った。


 頼まれたわけではない。起きているのが自分だけだったので、ブラシを持った。持ったら、押せと言われた。


 押した。


 水は塩辛い。撒いて、擦って、流す。流したところは、日が上がるころには乾いている。


 乾いても、白いものは残らなかった。


 毎朝、洗われているのだった。


 海の水で書いた字が乾いて白く残っても、次の朝には流される。誰も気にしていない。気にしていたのは、カイだけだった。


 真水は、要らなかったのである。


 賄いの男に言うと、笑われた。


 碗を返した。


 それからは、海の水で書いた。


 汲むのは自分で汲める。何度でも汲める。


 書ける数が、急に増えた。



 四日目に、下を見せてもらった。


 梯子を三つ降りた。降りるほど暑くなった。


 罐が並んでいた。


 鉄の箱が横に四台あって、それぞれの前に口が開いている。


 焚いているのは、一台だけだった。


 残りは、火が落としてある。


 帆で走っているあいだは、船を動かす力は要らない。要るのは、明かりと、水を送る分と、厨房の分である。それだけなら一台で足りる。


 火夫も、二人しかいなかった。


 その一人が、開いた口へ石炭を投げ込んでいた。上半身に何も着ていない。汗が煤と混ざって、筋になって流れていた。鉄の匙のような大きいもので石炭をすくって、腰を回して、放り込む。放り込むと火が明るくなって、顔が照らされる。


 音は、思っていたより小さかった。


 カイは、しばらく立って見ていた。


 それから、身振りで訊いた。


 風がないときは、何台焚くのか。


 火夫は、指を四本立てた。それから、石炭の山を指して、その高さを手で示し、それを半分に切る手つきをした。


 もう一つ訊いた。


 風のある日と、ない日で、どれだけ違うのか。


 火夫が笑った。何か言った。聞き取れなかったが、意味は分かった。四台焚けば、一日で山が目に見えて減る。一台なら、ほとんど減らない。


 上へ戻ってから、カイは数えた。


 積んである石炭がこれだけある。四台焚けば何日ぶん、一台なら何日ぶん。


 風のある日は、石炭を使わない。ない日は使う。


 だから、いつ着くかは風で決まる。


 急ぎたければ帆を下ろして四台焚けばいい。焚けば早く着く。早く着くが、石炭が減る。減れば次の港で積み足す。積み足せば銭がかかる。


 速く行くほど、儲けが減る。


 だから船は、風があるかぎり、いちばん速くは走らない。


 荷車と同じだった。


 牛を急がせれば早く着くが、飼葉が要る。人を増やせば早く積めるが、頭数の銭がかかる。潮までにやれる分は、順番を変えれば足りる。


 鉄の船も、同じ勘定で動いていた。



 途中で、何度も港に入った。


 綱を取って、板を渡す。人が降りて、人が乗る。荷が出て、荷が入る。石炭も積んだ。半日、長いときは一日、岸についていた。


 よく見なかった。


 船の中のことで忙しかった。



 六日目に、上を見せてくれと言った。


 操舵室である。


 断られた。


 次の日にもう一度言った。また断られた。


 三度目に、当直の男が船長を呼びに行った。


 船長が降りてきた。


 毎朝、甲板を洗っているのを見ていた。罐の前にいたのも、綱を巻くのを見ていたのも知っていた。


 いいと言った。


 自分で連れて入った。


 中に入った。


 舵輪があった。思っていたより大きく、そして誰も回していなかった。男が一人立って、前を見ているだけである。


 台の上に、丸いものが据えてあった。中で針が浮いていて、船が揺れても、その針だけが動かない。


 壁に、大きな紙が広げてあった。


 線が引いてあった。海の上に、線が引いてある。


 カイは、それを見た。


 海には、何も書いていない。


 外へ出て、舷から見た。どちらを向いても同じである。目印になるものが一つもない。


 それなのに、紙の上には線が引いてあって、船はその線の上を走っている。


 どうやって、いま自分がその線のどこにいるのかを知るのか。


 訊いた。


 船長は、外へ出た。


 カイもついて出た。


 腕を上げて、太陽を指した。


 それから、笑った。



 字は、船の中のあちこちにあった。


 この国の字ではない。


 壁の札に書いてある。箱の側に焼き印で押してある。管の根元に小さく打ってある。海図の縁にも並んでいる。火を消す道具のところにも、赤い地に白く書いてあった。


 同じ形が、何度も出てくる。


 カイは、それを数えた。


 二十六しかなかった。


 大きいのと小さいので二通りあるが、形は同じものが多い。二つで一組と数えれば、二十六である。


 漢字は、数えられない。


 ずっと、荷札と帳面と相場の紙を見て、読めるようになったのは百にも届かない。似た字を並べて直されて、直されるたびに一つずつ覚えた。それでも百に届かない。


 二十六なら、覚えられる。


 綱の男に訊いた。


 一つずつ指して、これは何と読むのかと訊いた。


 男は、音を出した。


 次の字を指した。また音を出した。


 三つ目で、カイが手を止めた。


「これだけですか」


 男が、意味を掴めずに首を傾げた。



 カイは、札を指して、字を一つずつ押さえながら、音を続けて出してみた。並べた音が、一つの言葉になった。


 なった、と分かった。


 一つの字が、一つの音である。


 漢字は違う。一つの字が一つの物で、音は後からついてくる。読めない字は、意味も音も分からない。


 こちらは、意味が分からなくても音は出る。


 二十六覚えれば、全部の札が読める。意味は分からないままだが、読める。


 書くのも、易しかった。


 画が少ない。三画か四画で、多くても五画である。順序も単純で、丸いものは丸く、まっすぐなものはまっすぐに引けばよかった。



 海の水は、いくらでも汲めた。


 未と末も、いくらでも並べられるようになった。


 十日で、覚えた。


 同じ年ごろの連中が、遠巻きに見ていた。


 何をしているのかと訊かれた。


 カイは、書いていると答えた。訊いた男が、水では残らないと言った。


「残らんでええ」



 最後に、自分の名を書いた。


 漢字で三文字。その横に、覚えたばかりの字を並べた。音の通りに並べただけである。合っているのかどうかは、分からなかった。


 乾いた。

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