第四章 崩れる百匹
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着地の衝撃が収まるより早く、巨大蜘蛛は空洞の中央で八本の脚を踏ん張った。天井から石片が降り続け、揺れる鉱石灯の光が赤い複眼を断続的に照らす。
さっきまで第五偵察班長の悲鳴を聞かされていた新任兵たちは、親と思われる怪物を目の前にして動きを止めた。赤い複眼が左右へ動き、逃げ道を探す兵まで一匹ずつ見定めるように向きを変える。
「全隊、にゃーの声を聞くにゃ! 第一班と第二班は前を固めるにゃ! 第三班は動けにゃい兵を後ろへ! 第四班は入口へ固まるんじゃにゃい!」
キャレットリーダーだけは爪を構え、怪物から目を離さなかった。
返事は揃わない。
シオン(紫)は尻餅をついたまま、一本尻尾を両腕で抱えていた。
「シオン、立つにゃ!」
隣の兵が腕を引く。
「無理にゃ……脚が動かにゃい……。こんにゃの、どうやって戦うの……」
巨大蜘蛛の複眼がシオン(紫)へ向いた。
「右へ転がるにゃ!」
キャレットリーダーの警告に、シオン(紫)は両手を床へついた。立とうとした膝がもう一度崩れる。
巨大な前脚が落ちた。
轟音とともにシオン(紫)の姿が脚の陰へ消え、持ち上がったあとも動かなかった。
それを見た一匹が入口へ向かって走り出した。
「帰るにゃ! にゃー、もう帰るにゃ!」
別の兵まで後を追う。止めようとした第四班とぶつかり、後方の列が崩れた。
「勝手に走るんじゃにゃい! 入口を空けるにゃ!」
キャレットリーダーが叫んだ直後、巨大蜘蛛の腹部が逃走兵の集団へ向く。
コロが先に気づいた。
「伏せなさい!」
太い網状の蜘蛛糸が放たれた。
十匹近い兵がまとめて壁へ叩きつけられ、腕、脚、一本尻尾まで互いに貼り合わされる。もがくほど糸は別の兵まで引き寄せた。
壁へ貼りつけられた兵の一匹が「取れにゃい! 腕が動かにゃいにゃ!」ともがき、その隣では一本尻尾まで巻かれた兵が泣き叫んだ。
「尻尾に糸がついたにゃ! 引っ張らにゃいで!」
救助へ向かった兵たちへ、今度は巨大蜘蛛の前脚が横から薙ぎ払われる。
「左から来るにゃ!」
半数は伏せた。遅れた二匹がまともに受け、一匹は岩柱へ背中から叩きつけられた。もう一匹は右脚を痛め、立とうとするたびに崩れる。
キャレットリーダーがそちらへ向かおうとした時、第一班の足元へ子蜘蛛が入り込んだ。
「追いかけるんじゃにゃい! 近い奴だけ倒すにゃ!」
だが兵たちは、もう訓練通りには動けなかった。
一匹の子蜘蛛へ二匹が同時に向かい、空いた場所から別の個体が飛び込む。三匹が腕や脚を噛まれた。
「毒、入ったかもしれにゃい……」
その言葉だけで周囲が引いた。
噛まれた兵は置いていかれる恐怖に手を伸ばした。
「置いていかにゃいで! 一人にしにゃいでにゃ!」
しかし、助けに入れば自分も噛まれるかもしれない。迷った数秒で一匹の膝が崩れ、別の一匹も壁へ手をついて呼吸を乱し始める。
後方へ運ぶはずだった第三班まで、自分の足元を守るだけで精一杯になった。
さらに、壁へ貼りつけられていた兵を助けようと二匹が爪を入れたところへ、別の蜘蛛糸が横から飛んだ。一匹は胴を巻かれ、もう一匹は片腕だけを取られる。胴を捕まれた兵が一気に引きずられると、助けようと腕を掴んだ仲間まで数メートル引かれた。
「手をほどくんじゃにゃい! 踏ん張るにゃ!」
キャレットリーダーの声に、二匹は肉球ブーツの爪を岩床へ食い込ませた。
しかし、その足元を子蜘蛛が走り抜ける。
片腕を自由にしていた兵が反射的にそちらへ爪を振った。その一瞬に握っていた手が外れ、捕まった兵だけが天井へ引き上げられていく。
「いやあああっ! 助けてにゃ!」
仲間は追おうとしたが、キャレットリーダーが身体ごと止めた。
「追うんじゃにゃい! お前まで捕まるにゃ!」
天井の暗がりへ消えた悲鳴は、数秒後には聞こえなくなった。
止められた兵は泣きながら爪を構え直したが、その時にはもう、自分がどの班の列へ戻ればいいのかさえ分からなくなっていた。
◇
「ソラン……」
弱い声に、ソラン(水色)が振り返った。
リラ(藤)が右膝をついている。足首には小さな牙の痕が二つあった。
「リラ、後ろへ行くにゃ。立てるにゃ?」
ソラン(水色)が肩を貸す。
「動かにゃい……。身体のにゃか、熱いにゃ……」
ソラン(水色)はリラ(藤)を抱えたまま声を張った。
「リーダー! リラが動けにゃいにゃ!」
キャレットリーダーは蜘蛛糸へ捕まった兵を助けていた。振り返る余裕はなく、声だけを返す。
「ソラン、そのまま後ろへ運ぶにゃ! 誰か一匹つけるにゃ!」
一匹が助けに向かおうとしたが、その間を巨大蜘蛛の脚が横切り、戻らざるを得なかった。
リラ(藤)の呼吸が急に速くなる。
「ソラン……寒いにゃ……」
急に震え始めたリラ(藤)へ、ソラン(水色)が戸惑いながら顔を寄せる。
「さっき熱いって言ってたにゃ」
リラ(藤)は自分でも分からないというように首を振った。
「分からにゃい……。怖いにゃ……」
ソラン(水色)はその手を強く握った。
「にゃーがいるにゃ。立てにゃくても引っ張るにゃ」
直後、リラ(藤)の身体が硬直した。
指が勝手に曲がり、肉球グローブの爪が飛び出す。
「息……できにゃい……」
何度も空気を吸おうとするが、喉から細い音しか出ない。全身が大きく痙攣し、一本尻尾が岩床を強く叩いた。
もう一度。
今度は弱かった。
「リラ、聞こえるにゃ? リラ!」
返事はない。
ソラン(水色)の背後へ子蜘蛛が迫る。
「ソラン、後ろにゃ!」
キャレットリーダーの声で、ソラン(水色)はようやく手を離した。
「……ごめんにゃ」
泣きながら後退する。振り返ろうとした肩を、別の兵が掴んで引いた。
◇
巨大蜘蛛は止まらなかった。
親を見れば足元の子蜘蛛へ噛まれ、子蜘蛛へ注意を向ければ前脚や蜘蛛糸が飛んでくる。助けを求める悲鳴が上がるたび、近くの兵が振り返り、その一瞬に別の被害が出た。
ピョンはマジカルテイルステッキを構えていたが、子蜘蛛は逃げ惑うキャレットの脚の間へ入り込んでいる。広く消せば兵まで巻き込みかねないため、狙いが完全に空いた個体しか撃てない。
コロも鉄扇で飛来する蜘蛛糸を何度か逸らしながら、小型検出器の反応を追っていた。巨大蜘蛛が暴れるたびに反応点の角度が変わり、腹部のどこを残すべきか確定できない。
その間にも、損耗は加速した。
みかん(橙)とライム(黄緑)は、互いの背中から離れず子蜘蛛を追い払っていた。
「みかん、右にゃ!」
みかん(橙)が飛び込んできた一匹を蹴り飛ばす。
「ライム、後ろ来るにゃ!」
ライム(黄緑)が振り返って爪を振った。
二匹とも泣いていた。それでも一緒なら、まだ身体は動いた。
次の瞬間、ライム(黄緑)の一本尻尾へ白い蜘蛛糸が絡んだ。
「みかん! 尻尾!」
ライム(黄緑)が四つん這いになる。
「動くんじゃにゃい! 今切るにゃ!」
みかん(橙)が爪を振り下ろす。一撃では切れず、二度目でようやく傷が入った。
「早くしてにゃ! すごく痛いにゃ!」
みかん(橙)は爪をさらに深く食い込ませた。
「分かってるにゃ! もう少しにゃ!」
三度目を入れようとした瞬間、巨大蜘蛛が腹部を振った。
蜘蛛糸が一気に張る。
短い衝撃音のあと、数メートル先へ一本尻尾が飛んだ。
ライム(黄緑)は一瞬だけ、自分の腰の後ろを見た。
「……え?」
遅れて激痛が全身へ届く。
「ぎゃああああああああああっ!!」
岩床へ倒れ、腰の後ろへ両手を伸ばす。身体を丸めても反り返っても逃げ場がない。
「痛い! 痛い痛い痛いいいいっ! にゃーの尻尾、返してにゃああああっ!」
みかん(橙)が隣へ膝をついた。
「ライム! にゃーここにいるにゃ!」
みかん(橙)が肩へ触れた瞬間、ライム(黄緑)は全身を跳ねさせた。
「触らにゃいでえええっ!」
振り払った直後、ライム(黄緑)は自分からみかん(橙)の腕へしがみついた。
「でも行かにゃいで! 一人にしにゃいで! 痛いにゃああああっ!」
みかん(橙)は泣きながら、その場を離れないと必死に伝えた。
「行かにゃいにゃ! にゃーいるにゃ!」
少し離れた岩床では、切り離された尻尾が神経反射で激しく跳ねている。
ライム(黄緑)はそれを見てさらに泣き狂った。
「返して! にゃーの尻尾返してにゃあああっ!」
近くの兵が頭上を指した。
「みかん、上にゃ!」
白い蜘蛛糸がみかん(橙)の胴へ巻きつく。
身体が一気に持ち上がった。
「行かにゃいで! みかん!」
ライム(黄緑)は腕を掴んだが、失尾した身体に仲間を引き止める力は残っていない。
「ライム、しっかりつかんでろにゃ!」
最後の指が滑った。
みかん(橙)が天井の暗がりへ引き上げられる。
「リーダー! ライムをお願いにゃ!」
暗闇へ引き上げられるみかん(橙)へ、ライム(黄緑)が手を伸ばした。
「みかあああん!」
しばらく上から短い悲鳴ともがく音が聞こえた。
やがて途切れる。
少し遅れて、血に濡れた肉球グローブ、片方だけの肉球ブーツ、折れた爪、裂けた橙色の軍装片が蜘蛛糸の隙間から落ちてきた。
周囲の新任兵たちが悲鳴を上げた。
ライム(黄緑)には、もうそれを気にする余裕もない。
「痛い! 痛いいいいっ! ママぁぁぁっ! 助けてにゃあああっ!」
唯一の尻尾を失ったことで、神経と自律機能が次々と崩れていく。激痛は途切れず、呼吸まで乱れ始めた。
「もう……嫌にゃ……痛い……」
身体が大きく痙攣し、岩を掻いていた指から力が抜ける。
ライム(黄緑)が動かなくなった頃、切り離された一本尻尾も小さく震えたあと静かになった。
◇
その数分で、大隊の形はほとんど消えた。
巨大蜘蛛が一度身体を回しただけで、別の四匹が巻き込まれた。二匹は脚の間を抜けて逃げたが、一匹は腰を弾かれて岩床を転がり、もう一匹はその場へ倒れた仲間を助けようとして足を止めた。そこへ子蜘蛛が群がり、助ける側も悲鳴を上げて後退する。
空洞の入口側では、逃げようとした兵たちが互いを押して通路を狭めていた。キャレットリーダーが散開を命じる前に太い蜘蛛糸が飛び、数匹がまとめて岩壁へ固定される。ピョンが光線を撃てる角度を探す間にも、親蜘蛛がそちらへ向きを変えた。
「ピョン、兵に重なる所は撃たないで!」
ピョンはステッキを振りかけた手を止め、別の角度を探した。
「分かってる!」
コロの声に、ピョンは狙いを変えた。子蜘蛛だけを一匹消すことはできても、何匹ものキャレットが絡み合った場所へ広く光を走らせることはできない。
その遅れが、また数匹分の損耗へ変わっていった。
前脚に弾かれた兵が岩壁へ叩きつけられ、蜘蛛糸に捕らわれた兵が天井へ引きずり込まれる。悲鳴が暗闇の中で途切れたあと、血に濡れた軍装片や片方だけのブーツ、折れた爪、砕けた記録装置が落ちてきた。
毒を受けた兵は仲間へ助けを求める途中で立てなくなる。入口へ逃げた兵同士がぶつかって転び、そこへ蜘蛛糸が飛ぶ。助けに向かった兵まで一緒に捕まった。
戦おうとした兵も、逃げた兵も、仲間を助けようとした兵も死んだ。
「一匹ににゃるんじゃにゃい! みんにゃ、にゃーの声を聞くにゃ!」
キャレットリーダーは声が掠れても動き続ける。三匹を集めても、数秒後には二匹になる。残った一匹が恐怖で走り出せば、また隊列が崩れた。
ソラン(水色)は涙を拭く暇もなく後退していた。アイ(藍)はグリ(緑)の腕を掴み、モモ(桃)が転ぶと二匹で引き起こす。少し先ではスミ(黒)が、一本尻尾を身体へ寄せたまま手を振った。
「こっちにゃ! 御三方の近くへ行くにゃ!」
五匹が一か所へ集まる。
キャレットリーダーがそれを見つけた。
「ソラン、アイ、グリ、モモ、スミ! その五匹で固まるにゃ! 御三方の後ろへ下がるにゃ!」
五匹が必死に動く。
そのすぐ横へ巨大蜘蛛の前脚が落ちた。
キャレットリーダーは壁へ跳び、肉球ブーツの爪を岩へ食い込ませる。壁を蹴って前脚の関節へ飛び移り、両手の爪を叩き込んだ。
外殻に深い傷が入る。
切断には届かない。
巨大蜘蛛が脚を振り、キャレットリーダーの身体を空中へ投げた。着地直前に身体を捻り、両足で岩床へ降りる。
彼女自身はまだ戦える。
しかし、指揮すべき部隊はもうほとんど残っていなかった。
◇
コロは飛んできた蜘蛛糸を鉄扇の風で逸らしながら、小型検出器を見続けていた。
反応は腹部にある。
だが巨大蜘蛛が身体を捻るたび、前後左右の見え方が変わる。位置を誤れば、討伐と同時に今回の目的であるDNAコアまで傷つける。
チャオは超巨大ハンマーの柄を握りしめた。
「コロ姉、まだかよ。クソ猫どもがどんどん死んでんぞ」
コロは検出器から目を離さず、飛んできた糸だけを鉄扇の風で逸らした。
「見えているわ。位置を外せば、この遠征そのものが失敗になる。もう少しだけ待ちなさい」
その目の前で二匹が蜘蛛糸へ捕まり、天井へ引き上げられた。
「リーダー! 助けてにゃ!」
キャレットリーダーが走る。
間に合わない。
悲鳴が暗闇へ消えた。
巨大蜘蛛が向きを変え、腹部をコロ側へ完全にさらした。
検出器の反応点が一か所へ重なる。
もう一度動いても、位置は変わらない。
コロの目が細くなった。
「確定したわ。DNAコアは腹部中央の深い位置。そこだけ残せばいい」
その頃には、空洞で立っている兵を探す方が早かった。
ソラン(水色)、アイ(藍)、グリ(緑)、モモ(桃)、スミ(黒)。そのほかにも岩陰で動いている兵がわずかにいるが、百匹で出撃した大隊の面影はない。
「動ける奴は御三方の近くへ来るにゃ! みんにゃで下がるにゃ!」
キャレットリーダーは、それでも生存者を集めようとしていた。
チャオは戦場を見渡した。
腰を抜かした兵。
泣きながら仲間を引きずる兵。
武器を構えることもできず、逃げ道ばかり探す兵。
卒業して一週間しか経っていないとはいえ、あまりの不甲斐なさに苛立ちが限界へ達した。
超巨大ハンマーを背中から下ろす。
コロが横を見る。
「チャオ?」
チャオは巨大蜘蛛を睨んだまま答えた。
「もう十分だ。コアの場所は分かったんだろ。だったらオレが行く」
コロは腹部を鉄扇で示した。
「深部だけは壊さないで」
チャオは苛立たしげに鼻を鳴らした。
「分かってる」
チャオはハンマーを肩へ担ぎ、生き残った新任兵たちへ怒鳴った。
「ったく、使えねえクソ猫どもだ。いつまでギャーギャー逃げ回ってんだよ。邪魔だから下がってろ、バカ猫ども。これ以上オレの前をうろちょろすんな!」
兵たちの猫耳が一斉に伏せられた。
キャレットリーダーは即座に頭を下げ、部下へ向き直る。
「みんにゃ、チャオ様の前を空けるにゃ! 急いで下がるにゃ!」
ソラン(水色)たちが、互いを支えながら後退する。
チャオはその横を追い越した。
青い軍装。三本の尻尾。肩に担いだ超巨大ハンマー。
巨大蜘蛛の赤い複眼が、初めて明確にチャオへ向く。
「来いよ、デカ蜘蛛。クソ猫ども相手に調子乗ってんじゃねえぞ」
巨大蜘蛛が低く身を沈めた。
チャオはハンマーを両手で握り直し、一人で壊れた大隊の前へ立った。




