第三章 苗床
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蜘蛛糸の奥から漏れた「……たす……け……」という声が、空洞の入口まで届いた。
空洞の入口で待機している新任兵たちが、一斉に息を呑んだ。
生死確認のため空洞へ出たアイ(藍)とグリ(緑)は、繭の斜め手前、数メートル離れた位置で足を止めたままだった。
それ以上近づくことは、キャレットリーダーから禁じられている。
アイ(藍)が震える声で呼びかけた。
「第五偵察班長、聞こえますかにゃ? にゃーたち、助けに来ましたにゃ」
白い蜘蛛糸に半ば埋もれている顔が、ほんの少し動く。
「……たすけ……て……」
アイ(藍)の猫耳が立った。
「リーダー! 生きていますにゃ!」
だがキャレットリーダーは、空洞の入口から動かなかった。
「二匹とも、そこにいるにゃ。それ以上近づくんじゃにゃい」
経験を積んだリーダーには、引っかかるものがあった。
第五偵察班は五匹で、映像では四匹が巨大蜘蛛に襲われ、最後に残った班長も蜘蛛糸で捕らえられて奥へ引きずられたところで通信が途絶えていた。それなのに、この一匹だけは食われず、蜘蛛糸で動けなくされたまま生きて吊られている。
コロも同じことを考えたようだった。
「リーダー。二匹はその位置から動かさないで」
キャレットリーダーは視線を下げたまま即答した。
「承知いたしましたにゃ」
キャレットリーダーが答えた、その時だった。
「……っ!」
繭の中で、偵察班長の身体が跳ねた。
小さな動きだった。
アイ(藍)とグリ(緑)が身構える。
「班長?」
アイ(藍)が呼びかける。
偵察班長は答えなかった。
代わりに、蜘蛛糸に包まれた脚が震え始める。
「……痛……」
小さな呻きに続いて、「痛い……にゃ……」と掠れた声が漏れた。その直後、偵察班長の脚の間から赤い液体が一滴落ち、岩床へ弾ける。二滴目、三滴目と続くのを見て、アイ(藍)が目を見開いた。
「血……?」
すぐに、滴ではなくなった。
蜘蛛糸の下から血が流れ始める。
「う……あ……!」
偵察班長が突然、激しく身体を捩った。
「痛い! 痛いにゃ! にゃに!? にゃにが――!」
脚の間を覆っていた蜘蛛糸が、内側から一度、二度、三度と押し上げられた。
「いや……」
偵察班長の目が大きく開く。
「いやにゃ……!」
蜘蛛糸の隙間から、小さな黒い脚が一本出てきた。
アイ(藍)が後ずさる。
「……にゃに、あれ……」
黒い脚が動き、その横から二本目、三本目が続いた。やがて小さな蜘蛛の頭が、血に濡れながら押し出されてくる。
「いやあああああああああっ!!」
偵察班長が狂ったように絶叫した。
「出てくる! にゃーから出てくるにゃああああっ!」
一匹目の子蜘蛛が脚の間から岩床へ落ち、血の中で八本脚をばたつかせながらすぐに起き上がった。二匹目、三匹目、四匹目も続き、同じ場所から次々と押し出されてくる。
「いやあああっ! やめて! やめてにゃあああっ!」
蜘蛛糸で固定された偵察班長には、身体を丸めることすらできない。
ただ一本尻尾だけが、激しい恐怖と痛みに合わせて狂ったように振れ続ける。
「痛い! 痛い痛い痛いいいいっ! 助けて! お願い! 取ってにゃあああっ!」
血の量が増えていく。
股の下から流れ落ちた血が、吊るされた身体の真下へ広がり始めた。
子蜘蛛も止まらない。
アイ(藍)とグリ(緑)は動けなかった。数メートル先に仲間がいるのに、どうすれば助けられるのか分からない。
「リーダー……」
グリ(緑)が震えながら繭を見上げた。
「あれ、どうしたら……」
答えるより先に、キャレットリーダーが二匹へ命じた。
「二匹とも下がるにゃ!」
キャレットリーダーが即座に命じた。
「ゆっくり戻るにゃ! 繭へ近づくんじゃにゃい!」
二匹が後退を始める。
だが、その途中。
偵察班長の腹部が大きく盛り上がった。
「――っ!?」
さっきまで脚の間から生まれていた子蜘蛛とは違う。
今度は腹の中だった。外からでも分かるほどいくつもの小さな塊が下腹部を内側から押し、右から左、中央へと場所を変えながら動き回っている。
「おにゃか……」
偵察班長が自分の身体を見ようとした。
蜘蛛糸に首まで固定されていて、十分には見えない。
「おにゃかのにゃか……いる……」
次の瞬間。
下腹部が内側から強く突き上げられた。
「ぎゃああああああああっ!!」
偵察班長の身体が弓なりに反る。
蜘蛛糸の隙間から血が噴き出した。
「痛いいいいっ! おにゃか! おにゃか裂けるにゃあああっ!」
軍用軽装の布地が内側から持ち上がる。
布地の下に細い裂け目が走り、そこから血が溢れた。裂け目の奥では一匹分ではない何本もの黒い脚が蠢き、腹部の中で育った子蜘蛛たちが外へ出る場所を押し広げようとしている。
「嫌ああああっ! やめて! もう出てこにゃいで! お願いだからああああっ!」
一匹の子蜘蛛が腹部の裂け目へ脚をかけ、身体を押し込む。その動きに合わせて裂け目がさらに広がった。
「ぎゃあああああああああっ!!」
偵察班長の絶叫が空洞を震わせた。
血が一気に流れ落ち、腹部から最初の一匹が這い出した。二匹、三匹と互いを押し退けるように続き、さらに後ろから新しい子蜘蛛が外へ出てくる。
「痛い! 痛いいいいっ! もう嫌! 助けて! 誰か助けてにゃああああっ!」
腹部の内側はまだ動いている。
次の子蜘蛛が出ようとするたびに、裂けた部分が引き広げられ、偵察班長の全身が激しく震えた。
「殺して! お願い! もう殺してにゃああああっ!」
その叫びを聞いた瞬間。
新任兵たちの中で、最初の一匹が崩れた。
モモ(桃)が両膝をつき、口元を押さえながら「いや……見たくにゃい……」と涙をこぼした。すぐ近くでは別の兵が吐き、さらに一匹が「帰りたいにゃ……」と後ずさる。その声を聞いた周囲からも、帰りたい、怖いという泣き声が広がっていった。
ソラン(水色)はリラ(藤)の腕を両手で掴んでいた。
「リラ……あれ……」
声が震えている。
「にゃーたちも捕まったら、ああにゃるの……?」
リラ(藤)は答えられなかった。
さっきまで倒した小型蜘蛛の数を数えていた兵たちだった。
今は誰も戦果の話をしない。自分の腹を押さえる兵、一本尻尾を両腕で抱く兵、耳を塞いで泣く兵が増え、中には洞窟の入口へ戻ろうとする者までいた。
「全員、勝手に動くんじゃにゃい!」
キャレットリーダーが声を張った。
それでも偵察班長の絶叫は止まらない。
「痛い痛い痛い痛い痛いにゃあああっ! おにゃか! おにゃかぁぁぁ! もう嫌にゃああああっ!」
その間にも腹部の裂け目から子蜘蛛が一匹、また一匹と這い出してくる。
血が身体を伝い、床へ落ち続けている。
一本尻尾は休むことなく振れ、時折痙攣するように硬直した。
「誰か! 助けて! 取って! 殺して! もうにゃんでもいいからああああっ!」
新任兵たちの泣き声まで大きくなっていく。
このまま見せ続ければ、まだ戦闘すら始まっていないのに大隊が崩れる。
コロが眉を寄せた。
「もういいわ」
チャオが姉を見る。
「どうすんだ?」
コロは繭を見たまま、ピョンへ命じた。
「ピョン。消しなさい」
ピョンが一度だけ姉を見た。
「にゃんこごと?」
コロは繭から目を逸らさず頷く。
「ええ。すぐに」
ピョンはそれ以上聞かなかった。
三姉妹は繭から十分以上離れている。
ピョンはその場から一歩も近づかず、マジカルテイルステッキを両手で構えた。
先端へ黄色い光が集まる。
偵察班長はその光に気づいた。
「……ピョン……様……」
次の子蜘蛛が腹部から押し出され、また痛みに顔が歪む。
「ぎゃっ……!」
それでも、ピョンが自分へステッキを向けている意味は分かったらしい。
「お願い……しますにゃ……」
ピョンがステッキを振る。
黄色い光線が一直線に空洞を走り、繭へ命中した。光に包まれた範囲全体から、蜘蛛糸も血も偵察班長の身体も、まだ体内に残っていた子蜘蛛も一緒に消滅し始める。
「……あ……」
偵察班長の顔から、突然力が抜けた。
ついさっきまで狂ったように泣き叫んでいたのに、痛みが途切れた。
「痛く……にゃい……」
それだけだった。
胸から上が消える直前、偵察班長がかすかに口を動かした。
「ありがとう……ございますにゃ……」
黄色い光が消えた時、繭も偵察班長も血に濡れた蜘蛛糸も、そこには何も残っていなかった。
コロはそれを確認すると、すぐキャレットリーダーへ視線を移した。
「リーダー。兵を立て直しなさい」
キャレットリーダーはすぐ頭を下げた。
「はい!」
キャレットリーダーは即座に部下へ向き直る。
「全員立つにゃ! 動ける奴は立つにゃ! 第一班は前へ! 第二班はその後ろ! 第三と第四は入口から動くんじゃにゃい!」
だが、命令にすぐ反応できた兵は半分ほどだった。
モモ(桃)はまだ座り込んでいる。
ソラン(水色)とリラ(藤)は互いに腕を掴んだまま。
数匹は目の前から偵察班長が消えた場所を見つめている。
「聞こえてるにゃ!? 立つにゃ!」
キャレットリーダーがもう一度怒鳴る。
そこでようやく兵たちが動き始めた。
しかし問題は消えていない。
偵察班長と一緒に消えたのは、まだ身体の中にいた子蜘蛛だけだった。
既に生まれて岩床へ落ちたものは残っている。
血の跡が残る場所から、何十匹もの子蜘蛛が散り始めていた。
「来るにゃ!」
アイ(藍)が叫んだ。
キャレットリーダーはすぐ命じる。
「第一班、三匹ずつで当たるにゃ! 一匹で追うんじゃにゃい!」
爪が展開される。
だが金属音が、きれいには揃わなかった。
手が震え、操作を一度失敗する兵がいる。
肉球グローブを構えたまま泣いている兵もいる。
子蜘蛛が一匹、シオン(紫)へ飛びかかった。
「いやああっ!」
シオン(紫)は訓練通り避けるのではなく、両手をめちゃくちゃに振った。
偶然、爪が子蜘蛛へ当たる。
黒い身体が壁へ飛んだ。
「た、倒した……?」
だが確認する前に二匹目が来る。
「右にゃ!」
仲間が叫ぶ。
シオン(紫)が後ろへ跳んだ。
跳びすぎて、後ろの兵へぶつかる。
「痛いにゃ!」
ぶつかられた兵が声を上げると、シオン(紫)は慌てて振り返った。
「ごめんにゃ! ごめんにゃ!」
キャレットリーダーの怒声が二匹を前へ向かせる。
「謝るのは後にするにゃ! 前を見るにゃ!」
キャレットリーダーが怒鳴る。
洞窟へ入ってから二度戦った小型蜘蛛なら、複数で囲み、脚を切り、頭部へ爪を入れれば倒せた。訓練通りに動けば通用する相手だった。
けれど今は、同じ形の蜘蛛を見るだけで偵察班長の絶叫が頭へ蘇る。
足元へ子蜘蛛が走る。
「いやっ!」
兵が跳ぶ。
別の一匹までつられて下がる。
「そっち行くにゃ!」
別の兵が迫る子蜘蛛を見て後ずさった。
「来にゃいで!」
そこへキャレットリーダーが割って入り、隊列へ戻すよう声を張る。
「固まるんじゃにゃい!」
隊列が乱れ始める。
それでもキャレットリーダーは走り続けた。
「第一班、そこで止めるにゃ! 第二班は右を埋めるにゃ! 一匹で逃げるんじゃにゃい!」
アイ(藍)とグリ(緑)も爪を振るっていた。
繭のすぐ近くまで行った二匹は、顔色こそ悪いものの、リーダーの命令を必死に守っている。
アイ(藍)が一匹を切り払う。
「一匹やったにゃ!」
グリ(緑)がすぐ横へ入った。
「まだ来るにゃ! 左見るにゃ!」
二匹で次の子蜘蛛を倒す。
まだ戦える、部隊を戻せるとキャレットリーダーが考えた時だった。
空洞の上から、重い音がした。
ずる。
蜘蛛糸が張る。
子蜘蛛とは比べものにならない重量が、天井を移動している。
コロが顔を上げた。
「来るわ」
チャオの表情が変わる。
ようやく戦える相手が来たと分かり、超巨大ハンマーへ手をかける。
ピョンもマジカルテイルステッキを持ち直した。
キャレットリーダーが鉱石灯を上へ向けた。
光が白い糸を照らし、その奥に一本、二本と巨大な黒い脚を浮かび上がらせた。さらに上では、赤い眼がいくつも開いている。
新任兵たちから声が消えた。
天井へ張りついている巨大蜘蛛は、先ほどまで倒していた蜘蛛とは大きさがまるで違った。
一本の脚だけでもキャレット一匹の身体より長く、太い外殻、大きな口器、膨れた腹部を持つ巨体が、何本もの蜘蛛糸を伝いながらゆっくり下りてくる。
「……あれ……」
ソラン(水色)が後ずさった。
「……あれが、本当の敵……?」
リラ(藤)も何も言えない。
みかん(橙)が首を横へ振った。
「無理にゃ……」
キャレットリーダーがすぐ怒鳴る。
「勝手に決めるんじゃにゃい! 全員、隊列を守るにゃ!」
返事はなかった。
巨大蜘蛛がさらに近づく。
巨大蜘蛛は、さっきまで苗床が吊られていた場所のすぐ横まで下り、腹部を下へ向けた。
キャレット兵の一匹が、その巨大な影を見た瞬間に尻餅をついた。
「嫌……」
一本尻尾を両腕で抱く。
「捕まりたくにゃい……」
もう一匹も泣き始める。
「にゃー、ああにゃりたくにゃい……!」
苗床の悲鳴を見たばかりだった。
捕まれば、食われるだけではない。
生きたまま身体を使われるかもしれない。
その恐怖が九十九匹へ広がった。
「帰るにゃ!」
後方で一匹が叫んだ。
来た道へ走り出す。
「止まるにゃ!」
キャレットリーダーの声。
だが、逃げた一匹を見て二匹目も動く。
三匹目も後ろを向く。
「置いていくんじゃにゃい!」
さらに後ろから、追いすがる兵の泣き声が重なった。
「待ってにゃ!」
後方の隊列が乱れた。
キャレットリーダーは振り返る。
「第四班! 逃げる奴を止めるにゃ! 第三班はそこから動くんじゃにゃい!」
その瞬間、巨大蜘蛛が天井を離れて落下した。キャレットリーダーは即座に前へ向き直る。
「全員、左右へどくにゃ!」
巨大な身体が空洞中央へ着地すると轟音とともに岩床が揺れ、蜘蛛糸が一斉に震えた。
近くにいた兵たちがまとめて転び、悲鳴が上がった。
転倒した兵たちから「きゃああああっ!」という悲鳴が上がり、その中に「助けてにゃ!」と仲間を呼ぶ声まで混じった。
巨大蜘蛛が赤い眼で兵たちを見回した。
その口器が開く。
キャレットリーダーは爪を構えたまま、必死に叫んだ。
「立つにゃ! 全員立つにゃ! 勝手に逃げるんじゃにゃい!」
だが返ってくるのは、もう整った返事ではなかった。泣き声と悲鳴、逃げる足音、互いを呼ぶ声、腰を抜かした兵の嗚咽が入り混じる。
訓練所を卒業して一週間の九十九匹は、この時初めて知った。小型蜘蛛を倒せたことと、この巨大な怪物と戦えることは、まったく別の話だった。




