第二章 白い糸の先
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三分間の装備確認を終えると、大隊は再び洞窟の奥へ向かった。
先頭はキャレットリーダーと第一班。その後ろへ第二班、第三班、第四班が続き、オセロット族三姉妹は前後どちらにも動けるよう第三班の少し後ろを進む。
最初の小型蜘蛛六匹との戦闘で出た負傷者は一匹だけだった。左腕を岩へ軽く擦った程度で、応急処置を受けるとすぐ隊列へ戻っている。
死者はゼロ。九十九匹全員がまだ揃っていた。
その事実と初戦果が、新任兵たちの緊張を少しだけ緩めていた。
ソラン(水色)は歩きながら、肉球グローブについた細い擦り傷を何度も眺めている。隣のリラ(藤)が気づき、猫耳を向けた。
「さっきからずっと見てるにゃ」
リラ(藤)に言われ、ソラン(水色)は少し照れながら手を下げた。
「初めて戦った時の傷にゃ。消えにゃいでほしいにゃ」
リラ(藤)は自分のグローブも見せる。
「もっと戦ったら、いっぱい増えるにゃ」
少し前では、みかん(橙)とライム(黄緑)が小声で言い合っていた。
「にゃーのグローブ、まだきれいすぎるにゃ」
ライム(黄緑)が呆れたように猫耳を傾ける。
「わざと傷つけたらリーダーに怒られるにゃ」
みかん(橙)は渋々頷いた。
「分かってるにゃ」
みかん(橙)が名残惜しそうに手を見ると、ライム(黄緑)の一本尻尾が得意げに立った。最初の戦闘で尻餅をついたことより、最後に蜘蛛へ蹴りを入れたことの方が、もう本人の中では大きくなっているらしい。
キャレットリーダーは前を向いたまま、後ろの声へ注意を飛ばした。
「第三班、声を落とすにゃ。ここから第五偵察班が蜘蛛糸を多く見つけた場所へ入るにゃ。足元だけじゃにゃく、壁と天井も見るにゃ」
「はいにゃ!」
返事はまだ元気だった。
恐怖で固まっているよりはいい。だが、自信と油断は別物だった。
◇
小型蜘蛛を倒した場所から十分ほど進むと、洞窟の様子が変わった。
岩壁から岩壁へ、細い白い糸が伸びている。天井から垂れているものもあり、先へ進むほど本数が増えていった。
第一班の前方にいたアイ(藍)が足を止める。
「リーダー、前に糸がありますにゃ」
通路の中央を白い糸が斜めに横切っていた。キャレットリーダーが爪先を慎重に触れさせると、糸は強く張った。小型個体の近くで見つけたものより明らかに太く、軽く押した程度では切れない。
「触るんじゃにゃい。全員、その場で待つにゃ」
その横からピョンが顔を出した。
「消していい?」
キャレットリーダーはすぐ視線を下げ、一歩退く。
「お願いいたしますにゃ」
ピョンがマジカルテイルステッキを向けると、黄色い光が短く走った。通路を塞ぐ部分だけが音もなく消え、岩壁へ貼りついた両端はそのまま残る。
後ろから見ていたソラン(水色)の猫耳が立った。
「すごいにゃ……」
リラ(藤)も目を丸くする。
「触ってにゃいのに消えたにゃ」
ピョンは聞こえたらしく、三本尻尾をうれしそうに揺らした。
チャオは超巨大ハンマーを肩へ載せたまま、妹へ目を向ける。
「必要なとこだけにしろよ。奥まで消して何か出てきたら面倒だ」
チャオに釘を刺され、ピョンは頬を膨らませた。
「分かってるもん」
コロが先を見たまま促した。
「通路は開きました。進みましょう」
キャレットリーダーが第一班へ合図を出す。
「進むにゃ。糸には手を出すんじゃにゃい」
そこから先では、数メートル進むたびに白い糸が見つかった。足元へ低く張られたものまであり、ピョンが進路を塞ぐ部分だけを消していく。
蜘蛛の姿は見えない。
それなのに、糸だけが増えていく。
ソラン(水色)はもうグローブの傷を見ていなかった。
「リラ。さっきより糸、多いにゃ」
リラ(藤)は天井へ目を向けたまま頷いた。
「うん」
ソラン(水色)は声をさらに落とした。
「小さい蜘蛛もいっぱい出てくるかにゃ」
リラ(藤)は自分にも言い聞かせるように答えた。
「六匹は倒せたにゃ。今度もみんにゃでやればいいにゃ」
ソラン(水色)は小さく頷いた。
糸は一か所だけではなかった。細いものは顔の高さを横切り、別のものは足首の近くへ張られている。大隊はそのたびに速度を落とした。先頭が止まると後ろへ合図が伝わり、第四班まで完全に停止してから、ピョンが通れる幅だけを消していく。
グリ(緑)は第三班から見える天井の糸を気にして何度も顔を上げていた。スミ(黒)も一本尻尾を身体の近くへ寄せ、足元の白い線を踏まないよう慎重に歩く。出撃前には新品の軍装を汚すことを気にしていた兵たちも、今は岩壁へ肩を擦ってでも糸から距離を取る方を選んでいた。
途中、みかん(橙)の顔のすぐ前へ一本の糸が垂れているのをライム(黄緑)が見つけた。
「みかん、止まるにゃ。顔の前にあるにゃ」
みかん(橙)は慌てて身体を止めた。鼻先まで数センチしかない。
「見えてにゃかったにゃ……」
ライム(黄緑)は糸を指さしたまま念を押す。
「だから上も見るにゃ」
みかん(橙)は真面目に頷いた。
「ありがとにゃ」
二匹はそこでふざけず、ピョンが糸を消すまで待った。
後ろにいたチャオも、さすがに先ほどまでの欠伸をやめていた。
「小せえ蜘蛛の巣にしちゃ、だいぶ太くなってきたな」
コロは壁から天井へ続く糸の束を見た。
「本体が近い可能性はあります。隊列を広げない方がいいでしょう」
キャレットリーダーはその言葉を受け、前後の間隔を少し詰めさせた。九十九匹もの兵がいるため、狭い場所では前方の異変が最後尾へ届くまで時間がかかる。だからこそ、声と合図を途切れさせないことが重要だった。
◇
さらに五分ほど進んだところで、第一班がまた止まった。
岩床に、片方だけの肉球グローブが落ちていた。
暗い青色。表面には深い傷が入り、フェリディウム合金製の爪が三本とも伸びたままになっている。その少し先には、外殻の割れた小型記録装置と、何かが抵抗しながら引きずられたような擦れ跡が残っていた。
アイ(藍)が声を落として尋ねる。
「第五偵察班の装備ですにゃ?」
キャレットリーダーは記録装置へ触れず、外側から識別番号だけを確認した。
「そうにゃ。番号が合ってるにゃ」
新任兵たちの猫耳が次々に伏せられた。
出撃前、彼女たちは第五偵察班の記録映像を見ている。蜘蛛糸に捕まり、引きずられ、巨大な口器の近くへ消えた仲間たち。その映像と、実際に残された装備とでは重さが違った。
みかん(橙)が自分の新品同然のグローブを握りしめる。
アイ(藍)は落ちた装備を見たまま尋ねた。
「持って帰りますかにゃ?」
「帰りに回収するにゃ。今は先へ進むにゃ。ここから記録映像と同じ道にゃ」
大隊が再び歩き始めた時、初戦果を話す声は消えていた。
◇
擦れ跡を追って進む途中、白い糸の向こうで小さな音がした。
キャレットリーダーの右手が上がる。
「前方にいるにゃ」
第一班が爪を展開した。
黒い小型蜘蛛が右壁、左壁、天井から姿を見せる。全部で十二匹。
「第一班は前、第二班は左右を見るにゃ! 第三と第四はそこで待つにゃ!」
今度の新任兵たちは、最初の戦闘ほど固まらなかった。
前列の兵が一匹目を正面で受け、左右から二匹が脚へ爪を入れる。別の三匹は壁から下りてきた個体を囲み、退路を塞いで頭部を狙った。
シオン(紫)も第一班の中で爪を構え、飛び込んできた一匹を仲間と挟んだ。
「こっち一匹倒したにゃ!」
「敵を見るにゃ! まだ残ってるにゃ!」
キャレットリーダーの声で、シオン(紫)はすぐ前へ向き直る。
一匹が天井から第三班の手前へ落ちた。
ソラン(水色)が反射的に一歩出る。
「第三班は動くんじゃにゃい!」
すぐ足を止めた。
第一班から戻った三匹がその個体を囲み、脚を切って動きを止め、最後に頭部へ爪を入れる。
戦闘中、一匹の小型蜘蛛が壁を駆け上がり、第一班の頭上を越えようとした。シオン(紫)が追いかけようとしたが、キャレットリーダーはすぐに止めた。
「シオン、追うんじゃにゃい! 第二班へ任せるにゃ!」
シオン(紫)は踏み出した足を戻す。壁の反対側では待っていた二匹が爪を構え、下りてきた蜘蛛の脚を切った。逃げ道を塞いだ三匹目が頭部へ爪を入れ、そこで動きが止まる。
命令を守れば倒せる。新任兵たちは、その手応えを二度目の戦闘でも確かめた。
一分もかからず、十二匹はすべて動かなくなった。
負傷者は二匹。一匹は左手の甲を浅く引っかかれ、もう一匹は回避した時に足首を捻ったが、どちらも歩ける。死者はいない。
キャレットリーダーは全員の無事を確認してから、周囲を警戒させた。
「まだ隠れてる奴がいるかもしれにゃい。勝ったと思って止まるんじゃにゃい」
何も出てこないことが分かると、兵たちの緊張がわずかに緩んだ。
「十二匹でもいけたにゃ」
シオン(紫)が嬉しそうに言う。
戦えなかったソラン(水色)は少しだけ頬を膨らませた。
「次は第三班も出るかにゃ」
リラ(藤)は首を横へ振る。
「出にゃい方がいいにゃ。敵が少にゃいってことにゃ」
ソラン(水色)は少し考えてから頷いた。
「……それもそうにゃ」
小型個体だけなら、新任兵でも訓練通りに処理できている。
その事実に、キャレットリーダー自身もわずかに安心してしまった。
◇
最初の小型蜘蛛戦からおよそ二十分。前進基地を出てからは、一時間近くが経っていた。
通路が大きく広がったところで、キャレットリーダーは再び大隊を止めた。
「第五偵察班最終戦闘地点に到着したにゃ」
右側の岩柱、中央の低い岩、左壁の裂け目。記録映像と一致している。
鉱石灯を上げると、片方だけの肉球ブーツ、破れた軍用軽装、折れた爪、乾いた血が見えた。岩柱の一部は砕け、白い蜘蛛糸が何重にも巻きついている。
ここで四匹が巨大蜘蛛に襲われた。
アイ(藍)は乾いた血の跡から目を離せなかった。自分たちと同じ一本尻尾の兵が、ここで逃げ、助け合い、それでも帰れなかった。その事実が、映像を見た時よりはっきり伝わってくる。
みかん(橙)もライム(黄緑)のすぐ横へ寄った。二匹とも何も言わない。少し前まで「十二匹でもいけた」と喜んでいたシオン(紫)も、爪を収納した手を胸の前へ引き寄せていた。
最後まで残った偵察班長は奥へ逃げたが、背後から蜘蛛糸を受けて転倒し、引きずられたところで記録が途切れている。王国軍は五匹全員を喪失したものとして扱っていた。
アイ(藍)が小さくリーダーを呼ぶ。
「第五偵察班長は、どこで死んだんですかにゃ?」
「死んだところまでは映ってにゃい。通信はもっと奥で切れたにゃ。助かった記録もにゃいから、全滅扱いににゃったにゃ」
アイ(藍)は黙って前を見た。
「ここから先は映像がほとんどにゃい。間を詰めるにゃ。前の兵を見失うんじゃにゃい」
大隊は距離を縮め、下り坂になった通路を進む。
空気は湿り、やがて腐ったような臭いまで混じり始めた。蜘蛛糸もさらに太くなり、何本も重なった部分は腕ほどの太さになる。
ソラン(水色)が鼻を押さえた。
「変にゃ臭いするにゃ……」
リラ(藤)も顔をしかめる。
「早く終わってほしいにゃ……」
みかん(橙)とライム(黄緑)も、今度は肩が触れそうなほど近くを歩いていた。
◇
やがて通路の先が大きく開いた。
高い天井。白い糸に覆われた左右の壁。何重にも糸を巻かれた岩柱。床にも薄い糸が伸びている。
「全隊、ここで止まるにゃ。空洞へ入るんじゃにゃい」
第一班が入口ぎりぎりで止まり、後続も順番に停止した。
三姉妹が隊列の横を通って前へ出る。
コロは空洞を見回した。
「巣の中心に近そうね」
チャオは超巨大ハンマーを肩へ担ぎ直す。
「やっと本命か。待ちくたびれたぜ」
ピョンだけは高い天井を見ていた。
「あそこ。何かぶら下がってるよ」
キャレットリーダーが鉱石灯を向ける。
光が蜘蛛糸の束をなぞり、その奥にある大きな白い塊を照らした。何重もの糸に包まれた繭。その下端からは、赤黒く汚れた肉球ブーツが片方だけ突き出している。
さらに光を上げると、軍用軽装と、力なく垂れた一本尻尾の先が見えた。
アイ(藍)が息を呑む。
「キャレット……?」
「静かにするにゃ。まだ近づくんじゃにゃい」
コロが繭を観察し、装備へ光を当てるよう命じる。
蜘蛛糸の隙間に、小隊指揮識別章が見えた。
キャレットリーダーの猫耳が動く。
「第五偵察班長ですにゃ」
兵列がざわめいた。
ソラン(水色)はリラ(藤)の腕をそっと掴んだ。
「食べられてにゃかったの……?」
リラ(藤)は答えられない。
コロはしばらく繭を見たあと、キャレットリーダーへ命じた。
「兵を二匹出して、生死を確認させなさい。ただし、蜘蛛糸には必要以上に触れさせないこと」
「承知いたしましたにゃ」
キャレットリーダーは前列へ向き直った。
「アイ、グリ。前へ出るにゃ。にゃーから見える所で止まるにゃ。繭には手を出さにゃい。まず声をかけるにゃ」
「はいにゃ!」
アイ(藍)とグリ(緑)は爪を収納したまま空洞へ入った。足元の蜘蛛糸を避け、数メートル手前で停止する。
アイ(藍)が顔を上げる。
「第五偵察班長! 聞こえますかにゃ!」
返事はない。
グリ(緑)も加わる。
「第五偵察班長! 討伐大隊ですにゃ! 聞こえたら返事してくださいにゃ!」
静寂が続いた。
やはり死んでいるのか。
そう思いかけた時、繭がわずかに揺れた。
「二匹とも、その場を動くんじゃにゃい!」
キャレットリーダーの声に、二匹は身体を強張らせたまま待つ。
もう一度、繭が動く。
アイ(藍)が恐る恐る呼びかけた。
「班長……聞こえますかにゃ?」
しばらくして、蜘蛛糸の奥からかすかな音が漏れた。
「……ぁ……」
グリ(緑)がアイ(藍)を見る。
「い、いま声したにゃ……」
「勝手に近づくんじゃにゃい! もう一度呼ぶにゃ!」
アイ(藍)は唾を飲み込んだ。
「第五偵察班長! 聞こえてますかにゃ! にゃーたちは王国軍ですにゃ!」
白い糸の中で、頭の位置がわずかに動く。
「……たす……け……」
間違いなくキャレットの声だった。
アイ(藍)の猫耳が跳ね上がる。
「生きてるにゃ!」
反射的に踏み出しかけた足を、キャレットリーダーの怒声が止めた。
「そこで待つにゃ! 繭へ触るんじゃにゃい!」
「申し訳ありませんにゃ!」
生存者がいる。
本来なら朗報のはずだった。
しかし、第五偵察班が襲撃されてから時間が経っている。それなのに班長だけが食われず、厳重に包まれ、生きたまま吊られている。
コロも同じ違和感を覚えたらしく、繭を見上げたまま動かなかった。
ピョンが首を傾げる。
「どうしてこのにゃんこだけ食べなかったんだろ?」
「分からないわ」
コロの視線が、ゆっくり下へ移る。
偵察班長の下腹部。
何重にも巻かれた白い糸の奥で、そこだけがほんのわずかに膨らんでいた。
まだ誰も、その意味を理解していなかった。




