第一章 はじめての色、はじめての実戦
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地下深層へ続く洞窟の手前には、王国軍の小さな前進基地が置かれていた。
石造りの倉庫、装備点検用の作業台、簡素な医療室。その先に、闇の中へ口を開けた討伐対象の洞窟がある。
朝、洞窟入口から少し離れた集合区画には、青、紫、橙、黄緑、緑、桃、水色、藍、藤、黒、焦茶と、色とりどりの九十九匹のキャレット兵が集まっていた。
彼女たちは訓練生ではない。
ちょうど一週間前に訓練所を正式卒業し、王国軍へ配属されたばかりの新任正規兵だった。
訓練所では全員が白い軍用軽装、白い肉球グローブ、白い肉球ブーツを使っていた。だが正規兵になると、一般兵は赤、白、金、銀を除いた色から、自分の好きな軍装色を一つ選べる。
今日は、その自分で選んだ色を着て出る初めての実戦任務だった。
「見て見て、この水色、すごく好きにゃ。グローブも同じ色にゃ」
ソラン(水色)が両手を持ち上げ、新しい肉球グローブを眺めていた。一週間しか使っていないため、フェリディウム合金製の爪にもまだ目立つ傷はない。
隣のリラ(藤)も、自分の手を並べる。
「藤色もいいにゃ。にゃー、これにしてよかったにゃ」
ソラン(水色)は、満足そうな相手の顔を見ると猫耳をぴくりと動かした。
「でも昨日、プリン取られて目がうるうるしてたにゃ。かっこつけてもだめにゃ」
リラ(藤)の一本尻尾が、むっとしたように揺れた。
「それ言うのずるいにゃ! あれ、最後の一個だったにゃ!」
二匹の声を聞き、周囲からくすくすと笑いが漏れた。
少し離れた場所では、橙色と黄緑色の二匹が互いの装備を見せ合っている。
「にゃーの橙、すぐ見つけてもらえるにゃ。洞窟でも目立つにゃ」
みかん(橙)が胸を張ると、ライム(黄緑)は猫耳を片方だけ傾けた。
「迷子って先に言うにゃ?」
ライム(黄緑)に言われ、みかん(橙)はむきになって首を振った。
「迷子じゃにゃいにゃ。もし別の場所へ行っても、すぐ見つけてもらえるってことにゃ」
ライム(黄緑)は少し考え、一本尻尾を左右へ振った。
「それ、迷子にゃ」
また笑い声が広がった。
別の一角では、モモ(桃)が新品同然の肉球ブーツを見下ろしていた。
「帰ったら、これ傷だらけかにゃ」
隣のアイ(藍)が自分のブーツを見せる。
「戦うんだし、傷はつくにゃ。でも最初の傷、ちょっと見せたいにゃ」
モモ(桃)が顔を上げた。
「誰に見せるにゃ?」
アイ(藍)は少し照れたように猫耳を伏せる。
「ママにゃ。卒業したって手紙は出したけど、まだこの色、見せてにゃいにゃ」
モモ(桃)は素直に頷いた。
「じゃあ、ちゃんと帰るにゃ」
モモ(桃)が笑うと、アイ(藍)も笑い返した。
その近くでは、シオン(紫)が自分の爪を何度も出し入れして感触を確かめ、グリ(緑)はそれを見ながら「使いすぎると出撃前に疲れるにゃ」と小声で注意していた。スミ(黒)は二匹のやり取りを横目で見つつ、自分の一本尻尾が装備へ引っかかっていないか静かに確かめている。
初任務への怖さはあっても、九十九匹には正規兵として出撃できる喜びの方がまだ強かった。
「整列するにゃ!」
鋭い号令が飛び、九十九匹の猫耳が一斉に立った。
兵たちはすぐ四つの班ごとに列を作り、洞窟側へ向きをそろえる。
号令を出した一匹だけは、好きな色を着ていなかった。
赤い軍用軽装。赤い肉球グローブ。赤い肉球ブーツ。
キャレットリーダーである。
一本尻尾の平民であることは部下たちと同じだが、多数の兵を現場で動かす経験豊富な指揮役だった。赤はその役職を示す色であり、上位の貴族や将校からは「赤キャレット」、時には「赤猫」と呼ばれる。
キャレットリーダーは九十九匹を見回した。列は整っている。だが猫耳や尻尾を見るだけで、緊張している兵とはしゃいでいる兵の違いはすぐ分かった。
「色のことは帰ってからにするにゃ。卒業して一週間。今日が初実戦にゃ。自分で選んだ色がうれしいのは分かるにゃ。でも洞窟へ入ったら任務だけ見るにゃ。服を汚したくにゃい、グローブへ傷をつけたくにゃい、そんにゃことで動きが遅れたら、本当に死ぬにゃ」
キャレットリーダーが自分の一本尻尾を身体の近くへ寄せる。
「尻尾を守るにゃ。一匹で勝手に走るんじゃにゃい。にゃーの命令が聞こえたら、その通り動くにゃ」
「はいにゃ!」
九十九匹の返事が重なった。
その直後、集合区画の後ろ側、前進基地の建物が並ぶ方から重い金属音が聞こえた。
キャレットリーダーが振り向く。
新兵たちは列を崩さず、その場で待った。
やがて基地側から、長女コロ、次女チャオ、末妹ピョン――現存するオセロット族三姉妹が姿を現した。
コロは赤い戦闘服姿で鉄扇を手にしている。チャオは青い戦闘服姿で、背中には超巨大ハンマー。ピョンは黄色とオセロット柄の戦闘服に身を包み、マジカルテイルステッキを抱えている。
キャレットリーダーは即座に片膝をついた。九十九匹も一斉に頭を下げる。
「オセロット族御三方へ申し上げますにゃ。討伐大隊、キャレットリーダー以下百匹、出撃準備を終えておりますにゃ」
床へ視線を落としたまま、キャレットリーダーが報告する。
コロが列の横で足を止めた。
「ご苦労さま。そのままで聞きなさい」
「はいにゃ」
チャオは色とりどりの九十九匹を眺め、眉を寄せた。
「コロ姉。本当に全部連れてくのか? 蜘蛛一匹に百匹だぞ」
「大隊も今回の任務に含まれています。置いていく理由はありません」
「こいつら、一週間前まで訓練所にいたんだろ? やっぱり子守りじゃねえか」
頭を下げた新兵たちの猫耳が、あちこちで小さく動く。
ピョンは兵列を眺め、楽しそうに笑った。
「でも、みんな色が違ってきれいだね」
その一言に、ソラン(水色)の一本尻尾が思わず小さく揺れた。隣のリラ(藤)も気づいたが、貴族の前なので笑わずに我慢する。
チャオは先頭の指揮役へ声を投げた。
「おい、赤猫」
「はい。ご命令をお待ちしておりますにゃ」
「こいつら、本当に一週間前まで訓練所にいたのか?」
「はい。配下九十九匹は、全員一週間前に卒業した正規兵ですにゃ。基礎訓練は修了しておりますにゃ。ただし、実戦は今日が初めてですにゃ」
チャオは大きく息を吐いた。
「やっぱ子守りだ」
コロが妹へ冷静な視線を向ける。
「同じことを何度も言わないの」
チャオはそれ以上繰り返さず、今度はキャレットリーダーを見た。
「お前は実戦に出たことあるんだろ?」
「はい。にゃーは実戦経験がありますにゃ。今回、大隊の現場指揮を命じられておりますにゃ」
「なら、そいつらが散らばらねえように見とけ。オレは一匹ずつ拾い集める気はねえからな」
「承知いたしましたにゃ」
コロもキャレットリーダーへ任務を確認する。
「大隊の指揮はあなたに任せます。小型個体は兵で処理しなさい。私たちは巨大個体とDNAコアを優先します。第五偵察班の最終記録地点までは?」
「ここから徒歩で一時間弱ですにゃ。途中から蜘蛛糸が増えると報告されていますにゃ」
「分かりました。予定通り進みます」
大型モンスター討伐に多尾貴族が直接同行することは、王国軍でも滅多にない。
まして今回は三人。
その意味を、新兵たちはまだ深く考えていなかった。
だが経験のあるキャレットリーダーは分かっていた。三尾貴族が三人も来るのは、新兵を見るためだけではない。
対象が、それだけ危険なのだ。
キャレットリーダーはその考えを部下へ伝えず、立ち上がって洞窟へ向き直った。
「全隊、出発するにゃ!」
◇
大隊は洞窟へ入った。
第一班が前方、第二班と第三班が中央、第四班が最後尾。キャレットリーダーは第一班の先頭近くを進み、三姉妹は大隊中央より少し後ろを歩く。そこなら前方にも後方にも動きやすい。
洞窟は広い場所と狭い場所を繰り返していた。狭い岩の間へ入るたび、キャレットリーダーが速度を落とし、後ろが詰まらないよう合図を送る。
最初の二十分ほど、新兵たちはほとんど話さなかった。
肉球ブーツが岩を踏む音と、水滴の音だけが続く。
だが三十分を過ぎても何も起こらないと、少しずつ緊張が緩み始めた。
ソラン(水色)が隣のリラ(藤)へ小声で話しかける。
「ずっと岩だけにゃ。敵、本当にいるのかにゃ」
リラ(藤)は前を見たまま答えた。
「いるに決まってるにゃ。いにゃかったら、偵察班も戻ってるにゃ」
ソラン(水色)の耳が少し伏せる。
「それ言うと怖いにゃ」
「ご、ごめんにゃ」
二匹とも一本尻尾を身体へ寄せた。
少し後ろでは、みかん(橙)が岩壁の下に光る苔を見つけた。
「見て、あそこ光ってるにゃ」
ライム(黄緑)も横目で見る。
「きれいにゃ」
「一個だけ持って帰っていいかにゃ」
「だめにゃ。リーダーに怒られるにゃ」
「帰りに聞くにゃ」
みかん(橙)はあっさり諦め、隊列から外れずに通り過ぎた。
その数分後。
先頭のキャレットリーダーが右手を上げた。
「止まるにゃ」
合図が前から後ろへ伝わり、大隊全体が止まる。
キャレットリーダーはしゃがみ込み、岩床に残る細い傷を確認した。硬い脚先が何度も擦ったような跡が、右の岩の割れ目へ続いている。
「第一班、爪を出すにゃ。第二班、右と左を見るにゃ。後ろはその場で待つにゃ」
前方の兵たちが肉球グローブの爪を展開する。
金属音が重なった。
キャレットリーダーが立ち上がった瞬間、右の岩陰が動いた。
「来たにゃ!」
前列の一匹が叫ぶ。
黒い蜘蛛型モンスターが飛び出した。
一匹、二匹。
続いて前方の低い穴から四匹。
全部で六匹。
どれもキャレット一匹より小さい。それでも訓練用の模型とは違い、脚が岩を叩き、口器を動かしながら真っすぐ向かってくる。
新兵たちは一瞬だけ身体を強張らせた。
キャレットリーダーの号令が飛ぶ。
「止まるんじゃにゃい! 一匹へ三匹で当たるにゃ! 前へ出すぎるんじゃにゃい!」
訓練所で何度も聞いた命令に、身体が先に反応した。
最初の一匹がソラン(水色)へ跳びかかる。
「こっち来たにゃ!」
ソラン(水色)は横へ転がり、前脚を避けた。
リラ(藤)がすぐ蜘蛛の側面へ回る。
「脚いくにゃ!」
ソラン(水色)はすぐ頷き、倒れかけた蜘蛛へ向き直った。
「うん!」
藤色の爪が前脚へ入り、蜘蛛の体勢が崩れた。
ソラン(水色)が立ち上がり、両手の爪を頭部へ叩き込む。
一匹目が倒れた。
右側では、橙色と黄緑色を含む三匹が別の蜘蛛を囲む。
「右、来るにゃ!」
みかん(橙)の声に、ライム(黄緑)が身体をひねる。
「見えてるにゃ!」
ライム(黄緑)は避ける時に足を滑らせ、尻餅をついた。
「ひゃっ!」
蜘蛛が覆いかぶさろうとする。
みかん(橙)が横から蹴りを入れ、蜘蛛を岩へぶつけた。
「だ、大丈夫にゃ!」
ライム(黄緑)が顔を赤くして立ち上がる。
「二匹とも前を見るにゃ!」
キャレットリーダーの声で、二匹はすぐ戦いへ戻った。
三匹で脚を切り、動きを止め、最後に黄緑色の蹴りが頭部へ入る。
二匹目も倒れた。
他の場所でも、新兵たちは一匹の蜘蛛へ複数で当たっていた。
正面から一匹が注意を引き、左右から二匹が爪を入れる。
逃げようとすれば別の兵が道を塞ぐ。
三匹目。
四匹目。
五匹目。
最後の一匹が岩壁を駆け上がった。
興奮したソラン(水色)が一歩追いかける。
「追うんじゃにゃい!」
キャレットリーダーの声で足が止まった。
逃げる先には別の三匹が回り込んでいる。
一匹が壁へ跳び、肉球ブーツの爪を岩へ食い込ませ、そこから蜘蛛へ体当たりした。
地面へ落ちたところへ残る二匹が爪を入れる。
最後の蜘蛛も動かなくなった。
洞窟へ静けさが戻った。
六匹の蜘蛛型モンスターが岩床へ転がっている。
キャレット側は死者ゼロ。重傷者もいない。ライム(黄緑)が尻餅をつき、別の一匹が腕を岩へ軽く擦っただけだった。
ソラン(水色)は両手の爪を出したまま、最初に倒した蜘蛛を見下ろしていた。
呼吸が速い。
自分の手と蜘蛛を見比べ、ようやくリラ(藤)を見る。
「……終わった?」
リラ(藤)は蜘蛛の脚がもう動かないことを確かめた。
「終わったにゃ。もう動いてにゃい」
ソラン(水色)の猫耳が立つ。
「にゃー、やった?」
「やったにゃ。にゃーたちで倒したにゃ」
その言葉を合図に、前方の新兵たちから歓声が上がった。
「やったにゃ!」
「初戦果にゃ!」
みかん(橙)も興奮して一本尻尾を激しく振る。
「見た? にゃー、ちゃんと蹴ったにゃ!」
隣のライム(黄緑)は、ぶつかってくる尻尾を押し返しながら笑った。
「痛いにゃ! 尻尾ぶつけるにゃ!」
「だって勝ったにゃ!」
尻餅をついたことなど、もう気にしていない。
ソラン(水色)もリラ(藤)と肉球グローブを軽く打ち合わせた。
「にゃーたち、本当に兵士にゃ!」
リラ(藤)が笑う。
「一週間前から兵士にゃ!」
「でも今日、初めて勝ったにゃ!」
先ほどまで洞窟の暗さを怖がっていた新兵たちの尻尾が、次々と高く上がった。
キャレットリーダーが額へ手を当てる。
「浮かれるのは帰ってからにするにゃ! 負傷一、死者ゼロ。動きは悪くにゃかったにゃ。でも六匹倒しただけにゃ。次も同じと思うんじゃにゃい。装備を見て、三分で出るにゃ!」
「はいにゃ!」
返事は出撃前よりずっと大きかった。
少し離れた場所で、チャオは巨大ハンマーを肩へ預けて欠伸をした。
「こんなの相手に百匹も必要か?」
ピョンは倒れた小蜘蛛へ近づこうとしたが、コロが鉄扇を横へ出して止める。
「触らない。毒があるかまだ分からないでしょう」
「見るだけ」
ピョンがそう言って身を乗り出すと、コロは鉄扇を横へ出した。
「そこから見なさい」
ピョンは三本尻尾を揺らしながら素直に引き下がった。
「はーい」
新兵たちはその間に装備を確かめていた。
さっきまで新品の傷を気にしていた兵も、今ではグローブについた細い擦り傷を見つけてうれしそうにしている。
ソラン(水色)がリラ(藤)へ小声で話した。
「初任務、けっこういけるにゃ」
リラ(藤)も強気になっていた。
「巨大蜘蛛も、みんにゃで囲んだらいけるかもにゃ」
近くの兵まで会話へ入る。
「百匹いるもんにゃ。それに三尾の方も三人いるにゃ」
誰も反対しなかった。
最初の戦闘は簡単だった。
訓練通りに動けば勝てた。
だから、自分たちはちゃんと戦えるのだと思い始めていた。
キャレットリーダーは部下たちから少し離れ、倒れた蜘蛛の先まで歩いた。
最後の一匹が逃げようとした方向。岩壁の低い割れ目の横に、細い白い糸が付いている。
キャレットリーダーは触れず、目だけで確認した。
「全隊、ここから私語を減らすにゃ。糸があるにゃ」
新兵たちの声が止まる。
ソラン(水色)が少し離れた場所から覗き込んだ。
「これ、あの蜘蛛の糸ですかにゃ?」
「たぶん今の小さい奴の糸にゃ。触るんじゃにゃい。もっと奥へ行くにゃ」
「はいにゃ」
隊列が作り直される。
キャレットリーダーは先頭へ戻る前に、部下たちへもう一度声をかけた。
「さっき勝てたからって、次も楽だと思うんじゃにゃい。にゃーの声を聞くにゃ。勝手に走るんじゃにゃい。それだけは守るにゃ」
「はいにゃ!」
九十九匹が元気よく答えた。
第一班が歩き始め、その後ろへ第二班、第三班、第四班が続く。三姉妹も隊列に合わせて奥へ進んだ。
色とりどりの軍装が、鉱石灯の光とともに暗闇へ消えていく。
そのさらに奥。
まだ誰の鉱石灯も届かない天井から、白い糸が何本も垂れていた。
先ほど見つけたものより、ずっと太い。
壁にも。
天井にも。
さらに奥にも。
けれど九十九匹の新兵は、まだそれを見ていなかった。
自分で選んだ初めての色。
卒業から一週間。
初めての実戦。
初めての勝利。
その全部がうれしくて、出撃前に感じていた怖さは薄れていた。
六匹の小蜘蛛を倒したことが、この洞窟の主に勝てる証拠には少しもならないことを。
この時の彼女たちは、まだ知らなかった。




