第五章 地底の巨大蜘蛛
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王立科学開発局の認証紋が、軍用通信器の表示板いっぱいに広がった。
コロが認証欄へ指を置くと、短い確認音のあとで画面が切り替わる。最初に現れたのは、王国の生活圏から大きく離れた地下深層の地図だった。居住区も輸送路もない、複雑な自然洞窟の一角だけが赤く囲われている。
「任務通知ね」
コロが表示を読み上げる。
「王立科学開発局から王国軍への素材回収要請。対象は、指定洞窟の最深部に巣を作っている大型蜘蛛型モンスター一体」
「蜘蛛?」
ピョンがすぐに通信器へ寄った。
「大きいの?」
「偵察記録があるわ」
「見たい!」
コロが添付映像を開く。
画面に映ったのは観測機ではなかった。
フェリディウム繊維製の軍用軽装を着け、肉球グローブと肉球ブーツを装備した五匹のキャレット兵が、鉱石灯だけを頼りに洞窟を進んでいる。映像は彼女たちの記録装置から回収された複数の視点を、時系列に沿ってつなぎ合わせたものだった。
『第五偵察班、指定深度へ到達したにゃ。これより奥を確認するにゃ』
先頭の一匹が小声で告げる。
そのすぐ後ろで、別の兵が壁を見上げた。
『糸が増えてるにゃ……』
鉱石灯が揺れる。
白い糸が、洞窟の天井から何本も垂れていた。細いものでもキャレット兵の腕ほどあり、太い束は岩柱のように壁から壁へ張られている。
『糸、踏むにゃよ。足を取られたら動けにゃくにゃるぞ』
『分かってるにゃ』
返事をした兵の猫耳は、ぺたりと伏せていた。
映像の中の五匹は、まだ敵を見つけていない。それでも全員の一本尻尾が身体へ寄せられ、肉球ブーツの爪が岩へ食い込んでいる。
やがて、先頭の灯りが黒い塊を照らした。
一瞬、岩壁に見えた。
その岩が動く。
節のある巨大な脚が持ち上がり、先端が地面へ降りただけで映像が激しく揺れた。
『……にゃに、これ』
誰かの声が震える。
もう一本。
さらに一本。
闇の中から脚が現れ、奥で赤い眼がいくつも開いた。
『後退するにゃ! 記録は取れたにゃ!』
班長らしい声が飛ぶ。
五匹が一斉に向きを変えた。
その瞬間、白いものが画面を横切った。
『にゃっ!?』
一匹の両脚へ蜘蛛糸が巻きつき、身体が後ろへ引き倒された。肉球ブーツの爪が岩を削る。別の兵が駆け戻り、グローブの爪で糸を切ろうとする。
『待ってろにゃ! 今――』
巨大な脚が上から降った。
助けに入った兵のすぐ横で岩床が砕け、二匹が跳ねるように離される。倒れていた兵の身体が糸ごと持ち上がった。
『やだ、やだにゃ! 助けてにゃ!』
画面の奥から、蜘蛛の頭部が降りてくる。
大きな顎のような口器が開いた。
『いやああああっ!』
白い糸に包まれた兵は、そのまま口器の奥へ引き込まれた。肉球ブーツを履いた両脚が激しく蹴り続け、やがてそれも見えなくなる。硬いものを噛み砕くような鈍い音が、記録装置へ残った。
『一匹やられたにゃ! 走るにゃ!』
残る四匹が散る。
壁を駆けようとした一匹が、肉球ブーツの爪を岩へ食い込ませて跳んだ。だが空中で背中へ糸が絡みつく。
『尻尾! 尻尾に絡んだにゃ! 切って、切ってにゃ!』
仲間が手を伸ばすより早く、身体が天井近くまで引き上げられた。
『ママ――』
声は途中で途切れた。
暗闇から伸びた巨大な口器がその身体を捕らえ、糸ごと奥へ運び去る。
別の視点へ切り替わった。
三匹。
荒い呼吸だけが聞こえる。
『出口まで戻るにゃ! みにゃ、離れるにゃ!』
しかし、洞窟の出口側にはすでに新しい糸が張られていた。
一匹が止まりきれず胸から粘着糸へ突っ込み、身体を捻っても離れない。もう一匹が爪で糸を裂こうとする。
『動くにゃ! 今外すにゃ!』
『早く、早くにゃ!』
背後の闇から二本の脚が伸びた。
助けていた兵が横から弾き飛ばされ、記録映像が回転する。糸に捕まった兵は動けないまま、巨大蜘蛛の頭部へ引き寄せられた。
『嫌にゃ……帰りたいにゃ……』
その顔が暗闇へ消えた。
次の瞬間、口器が閉じる。
残った二匹のうち、一匹は立ち上がれなかった。脚を強く打ったのか、這いながら後退している。
『班長、置いてってにゃ! 記録だけ持って帰ってにゃ!』
『黙るにゃ! 五匹で来たにゃら五匹で――』
班長が腕を掴んだ瞬間、蜘蛛糸が二匹まとめて覆った。
映像が白く染まる。
悲鳴。
爪が岩を掻く音。
身体が引きずられる音。
そして、片方の記録装置が床へ落ちた。
傾いた映像の向こうで、糸に包まれた一匹が先に巨大蜘蛛の口元まで運ばれていく。班長は片腕だけを糸から出し、仲間を掴もうと必死に伸ばしていた。
『待ってにゃ! そっちは駄目にゃ!』
届かなかった。
仲間は蜘蛛の口器の奥へ消えた。
班長の身体もすぐに持ち上がる。
『任務記録……送信するにゃ……対象、大型蜘蛛……五匹、全員――』
そこで声が崩れた。
『やだにゃ……死にたくにゃい……』
巨大な黒い影が画面を覆う。
最後に見えたのは、床へ向かって伸ばされた肉球グローブの手と、岩を引っ掻く爪だった。
次の瞬間、映像が切れた。
居間が静かになった。
ピョンは何度か瞬きをしてから、止まった画面を見る。
「にゃんこ、五匹ともやられちゃったね」
「そうね」
コロは記録欄を確認した。
「偵察班五匹、全滅。記録装置の遠隔送信だけは成功しているわ」
死者を悼む言葉ではなかった。任務成果の確認だった。
チャオはむしろ、巨大蜘蛛が映った最後の静止画を見て口元を上げていた。
「いいじゃねえか。これくらいでけえ方が殴り甲斐がある」
地底世界でモンスター討伐そのものは珍しくない。巨大昆虫、洞窟獣、魔力変異生物への対処は、地上侵攻が始まるより以前から王国軍が続けてきた仕事だった。
ただし、今回の蜘蛛は王国へ攻め込んできたわけではない。
巣があるのは生活圏から離れた地下深層で、放置しても直ちに居住区へ被害が出る状況ではなかった。王立科学開発局が深層調査で特殊な生体反応を発見し、研究対象として価値があると判断したため、偵察兵を送り込んだのである。
「つまり、こっちから蜘蛛の巣へ行くんだ?」
ピョンが聞く。
「そうよ。科学開発局が欲しいものを取りにね」
「蜘蛛が来るんじゃなくて?」
「こちらから行きます」
「ふうん」
ピョンはもう一度、五匹が消えた暗い画面を見た。
「にゃんこ五匹全滅してまで欲しいものって、何だろう」
コロが次の項目を開く。
討伐対象の簡易図の横に、任務条件が表示された。
一、指定の巨大蜘蛛型モンスターを討伐すること。
二、個体内部に存在するDNAコアを損傷させず、無傷で回収すること。
「DNAコア?」
「一部の大型モンスターや特殊個体から採取できる研究素材よ。遺伝情報、生体特性、魔力特性を高密度で保持する中枢物質、とあるわ」
「宝石みたいなもの?」
「見た目までは書いていないわ。ただし破損した場合、研究価値が大きく失われる。今回の最優先回収物よ」
「じゃあ蜘蛛を全部消したら駄目?」
ピョンがマジカルテイルステッキを持ち上げる。
「駄目」
「足だけなら?」
「状況を見てから」
「はーい!」
ピョンは杖を下ろした。
チャオだけが表示板を睨んでいる。
「討伐して、コアは壊すなって?」
「そういう任務ね」
「蜘蛛は殺せ。でも中の大事なもんは残せ?」
「ええ」
「面倒くせえな!」
ハンマーへ伸びかけた手が止まった。
頭の中に、朝の静かな声が蘇る。
――あなたには力があります。ならば、壊すことだけでなく、必要なものを残すことも覚えてください。
チャオは舌打ちした。
「……分かったよ。探してから殴りゃいいんだろ」
「少し進歩したわね」
「褒めんな!」
ピョンが楽しそうに笑う。
コロはさらに資料を送った。
「それから、今回の編成が指定されているわ」
「編成?」
「キャレット兵一個大隊。総勢百匹」
チャオの眉が動いた。
「百匹?」
「大隊指揮はキャレットリーダー一匹。その配下に九十九匹」
キャレットリーダーとは、一尾兵の中で部隊運用を任される指揮役である。あくまで軍務上の役職であり、一本尻尾の平民という身分そのものが上がるわけではない。
「百匹もいらねえだろ。オレ一人で潰せる」
「続きがあるわ」
コロの視線が一段下へ落ちた。
「九十九匹は、訓練所を出たばかりの若い新兵。今回は大型モンスター討伐と同時に、新兵の実地訓練を兼ねるそうよ」
数秒、チャオが固まった。
「……は?」
「実戦での隊列維持、洞窟内機動、蜘蛛糸への対処、負傷者回収、上位指揮官の命令下での集団戦闘。評価項目まで付いているわね」
「ふざけんな!」
チャオの三本の尻尾が一気に膨らんだ。
「オレはでけえ蜘蛛をぶっ殺しに行くんだぞ! 訓練所出たばっかの新兵を九十九匹も連れてけって、子守りじゃねえか!」
超巨大ハンマーの柄を掴む。
そのまま床へ叩きつけかけて、コロの視線に気づき、ぎりぎりで止めた。
「……チッ!」
槌頭を持ち上げたまま、何もない場所へ置き直す。
ピョンが笑った。
「チャオ姉、ちゃんと床壊さなかった!」
「今そこ褒めんな!」
「でも百匹のにゃんこと一緒なんだ。楽しそう!」
「どこがだよ! 蜘蛛より先に新兵どもが糸に引っかかるだろ!」
「だから訓練するのでしょう」
コロは平然としている。
「それに、ティーダ将軍閣下から何を命じられたか忘れてはいないでしょうね」
チャオの口が閉じた。
「……兵を無駄に減らすな、だろ」
「ええ。しかも今回は新兵訓練。蜘蛛を倒してDNAコアを持ち帰っても、大隊を全滅させたら訓練任務としては失敗よ」
「面倒くせえええ!」
今度は叫ぶだけで床は壊さなかった。
ピョンが腹を抱えて笑っている。
「チャオ姉、今日は壊しちゃ駄目なものばっかりだね!」
「お前も増やすな!」
コロは表示板へ戻る。
「ピョンも同行します」
「やった!」
「待て。こいつまで連れてくのかよ」
「蜘蛛糸の除去にはピョンの部分消滅が有効です。新兵が大量に同行する以上、退路確保にも使える」
ピョンは得意そうにステッキを掲げた。
「糸だけならきれいに消せるよ!」
コロの目が向く。
「侍女まで一緒に消した人が言うと不安ね」
「今度は間違えないよ!」
「巨大蜘蛛本体への全体消滅は禁止。DNAコアの位置が確認できるまで胴体も撃たない。基本は蜘蛛糸の除去と、新兵の退路確保。私が止めたら必ず止めること」
「分かった!」
「面白そうだから勝手に撃たない」
「……分かった!」
「今、一拍あったわね」
「ちゃんと分かったって!」
チャオが鼻を鳴らす。
「オレは新兵の面倒なんか見ねえぞ」
「見るの」
「何でだよ!」
「あなたが今回の主力だからよ。キャレットリーダーは大隊をまとめる。私は全体状況とコア回収を管理する。ピョンは糸と退路。巨大蜘蛛へ直接圧力をかけるのはあなた」
「だったらオレだけ蜘蛛のとこまで先に行けば――」
「駄目」
「まだ最後まで言ってねえ!」
「言わなくても分かります」
チャオの三本の尻尾が苛立たしげに床を叩いた。
それでも、ハンマーは振らなかった。
コロは正式な任務受領欄を開く。
「出発は明朝。キャレット大隊とは洞窟外の集結地点で合流。今夜のうちに偵察記録を全員分確認します。五匹がどこで捕まり、どの糸が退路を塞ぎ、蜘蛛がどの順番で獲物を狙ったかまで洗い出すわ」
「死に方まで見るの?」
ピョンが聞いた。
「新兵を同じ場所で同じように食べさせないためよ」
「なるほど!」
チャオは表示板の停止映像を見る。
巨大蜘蛛の口元へ引きずられていく偵察兵。その奥に、何本もの脚。
「……百匹か」
「ええ」
「九十九匹が新兵」
「ええ」
「コアは壊すな」
「ええ」
「蜘蛛はぶっ殺せ」
「それは合っています」
チャオは深く息を吸った。
「今度の任務、条件多すぎだろ!」
壊れた居間に、ピョンの笑い声が響いた。
同じ頃。
王国の生活圏から遠く離れた、深い洞窟の奥。
偵察班が最後に残した記録装置の一つが、蜘蛛糸に半ば埋まっていた。
その周囲には、小さな装備片がいくつも白い糸へ絡め取られている。肉球グローブ。片方だけのブーツ。千切れた記録帯。
そして、そのさらに上。
洞窟の天井近くから垂れた太い糸の先に、白い繭のような塊が一つぶら下がっていた。
よく見れば、それは全身を蜘蛛糸で幾重にも巻かれたキャレット兵だった。
小さな身体は腕ごと胴へ縛りつけられ、両脚もほとんど動かせないほど糸に埋まっている。猫耳の先と、フェリディウム繊維製の軍用軽装の一部、そして一本尻尾の先だけが白い糸の隙間から覗いていた。
映像の最後、巨大な黒い影に覆われて消息を絶った偵察班の班長だった。
王国側の記録では、第五偵察班は五匹とも全滅。
それでも巨大蜘蛛は、この一匹だけを食べ尽くさず、巣の奥まで運んでいた。
兵はぴくりとも動かない。呼吸らしい動きも見えない。
なぜ一匹だけ残されたのか、その理由を知る者はいなかった。
風はない。
それでも、繭を吊るす糸がかすかに震えた。
続いて、キャレット兵の胴を覆う白い糸が、ごくわずかに内側から押されたように膨らみ、すぐ元へ戻る。
何かが動いたのか。
それとも、巨大蜘蛛が歩いた振動が伝わっただけなのか。
暗闇の中で、岩山の一部に見えていたものが動く。
長い節。
硬い外殻。
先端が地面へ降りるたび、重い振動が洞窟の奥へ伝わった。
一本。
さらに一本。
巨大な脚が闇の中から姿を現していく。
黒い巨体の奥で、小さな赤い光が一つ灯った。
二つ。
三つ。
その隣にも。
複数の眼が一斉に開く。
白い蜘蛛糸が、洞窟全体で震え始めた。
天井から吊られたキャレット兵の身体も、その振動に合わせてゆっくり揺れる。
明日、百を超える獲物がやって来ることなど知る由もなく、巨大蜘蛛は静かに身体を起こした。
第3話 了




