第四章 笑うピョン
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四匹目の侍女の身体が、白い布を掛けられたまま居間から運び出されようとしていた。
血の跡はまだ床や壁に残り、砕けた家具も半分以上がそのままだ。チャオの超巨大ハンマーが穿った床の亀裂には簡易の囲いが置かれ、別の侍女たちが壊れた茶器と木片を黙々と仕分けている。
その中央で、チャオだけが不機嫌そうに長椅子へ沈み込んでいた。視線の先にあるのは死んだ侍女ではなく、半分に割れた、ひいお婆ちゃんゆかりの彫刻机だった。
三本の尻尾まで力なく垂れている。
コロは少し離れた場所で記録板を操作し、修復できそうな家具と廃棄するしかない物を分けていた。赤い正規戦闘服の腰から伸びる三本の尾は静かで、先ほど鉄扇を振るっていた時の緊張はもうない。
そこへ、不意に明るい笑い声が落ちた。
「わあ。すっごーい!」
チャオの片眉が跳ね上がる。
居間の入口から、幼い少女のような姿をしたオセロット族が身を乗り出していた。黄色を基調にオセロット柄をあしらったスクール水着を正規の戦闘服としてまとい、腰の後ろでは斑紋のある三本の尻尾が、本人の好奇心そのままに大きく揺れている。装いは活動しやすさを優先した簡素なワンピース型で、元気な黄色が末妹らしい明るさを際立たせていた。
片手に握っているのは、玩具と見間違えそうなほど可愛らしい杖だった。金色の星や肉球を思わせる飾り、小さなリボン状の意匠、その先端には澄んだ黄色の宝石。だが、それは飾りではない。三本尻尾の魔力を収束させる、ピョン専用の実戦装備――マジカルテイルステッキである。
少女は荒れ果てた居間を右から左へ見回し、目をきらきらさせた。
「チャオ姉、またすごいことになってる!」
「……ピョン」
チャオの声が低くなる。
末妹のピョンはまるで気にせず、ひょいと室内へ足を踏み入れた。
「ここもチャオ姉?」
「見るな」
「こっちの壁も?」
「うるせえ」
「その柱も?」
「そうだよ!」
「じゃあ、これも?」
ピョンが半分に割れた彫刻机を指した途端、チャオの尻尾がぴくりと動いた。
その反応で答えを悟ったピョンは、さすがに笑うのをやめた。
「……これ、ひいお婆ちゃんの机じゃないの?」
「…………」
「チャオ姉、これも壊したの?」
「壊すつもりで壊したんじゃねえよ」
「でも壊れてるよ」
「見りゃ分かる!」
ピョンは目を丸くしてからコロを見る。
「直る?」
「直せる職人を探しているところよ」
「絶対直してね」
「そのつもり」
曽祖母の武勲を伝える品であることは、ピョンにとっても大事らしい。ところが、そのすぐ横を布に包まれた侍女の身体が運ばれていっても、同じように表情が曇ることはなかった。
運んでいる侍女たちはピョンに気づき、足を止めて深く頭を下げる。
「ピョン様、お騒がせしておりますにゃ」
「うん。ご苦労さま!」
明るい返事だった。
ピョンは白い布の膨らみを興味深そうに見て、首を傾げる。
「それ、死んだにゃんこ?」
「はいにゃ……」
「何匹死んだの?」
答えたのはコロだった。
「四匹よ」
「四匹?」
ピョンの三本の尻尾がぴんと立つ。
「全部チャオ姉がやったの?」
「知らねえ。数えてねえ」
「ほんとに数えてないんだ。あははっ、チャオ姉らしい!」
ピョンは声を上げて笑った。
苦しんだ侍女を見て喜んでいるわけではない。そもそもフェリディア王国では、一本尻尾の平民と複数の尾を持つ貴族の命を同じ重さに置く、という発想そのものが王国の通常価値観には存在しない。
屋敷にいるキャレットたちは、ピョンにとって食事を運び、掃除をし、用事を頼めば動く「にゃんこ」たちであり、死ねば欠員となって別のにゃんこが補充される存在だった。自分たち三尾の貴族と一尾の平民を対等な生命として比べるという考えは、最初から彼女の価値観の外にある。
それはピョン個人の特殊な残酷さではなく、尾数が身分と価値を絶対的に分ける王国で、多尾貴族として育った者の常識だった。ティーダ将軍だけが、その常識から大きく外れて一尾の命を重く見る例外なのである。
「笑っている場合ではないわ」
コロが記録板から顔を上げた。
「居間付きが四匹減ったせいで、今夜の給仕まで組み直さなければならないのよ」
「じゃあ晩ごはん遅くなる?」
「遅らせません」
「よかった!」
「問題はそこではないのだけれど」
コロが小さく息を吐く。
ちょうどその時、床に散った細かな陶器片を集めていた侍女が、ピョンの近くで膝をついた。猫耳を伏せ、目を合わせないようにしながら、黙々と破片を布袋へ移している。
ピョンはその侍女を見たあと、まだむすっとしているチャオへ視線を移した。
「ねえ、チャオ姉。面白い手品見せてあげよっか?」
「いらねえ」
「そんなこと言わないで。すぐ終わるから!」
返事を待たず、ピョンは使い慣れたマジカルテイルステッキをくるりと回した。先端の黄色い宝石が花のように輝く。
「見ててね。あのにゃんこのエプロンだけ、ぽんって消すの!」
侍女の肩がびくりと跳ねた。しかし三尾の貴族に対象として選ばれた以上、逃げることも拒むこともできない。
「えいっ!」
細い光線が走った。
「にゃ――」
本来なら、白いエプロンだけが跡形もなく消えるはずだった。
ところが光が触れた瞬間、消滅範囲が衣服から身体全体へ広がった。侍女の輪郭が黄色い粒子へほどけ、服も一本の尻尾もろとも一瞬で消える。床には血も灰も残らず、さっきまで侍女が持っていた布袋だけが、持ち主を失ってぱたりと倒れた。
ピョンは目を丸くした。
「あれ?」
数秒、空になった場所を見つめてから、ステッキの宝石を覗き込む。
「エプロンだけのつもりだったのに、にゃんこまで消えちゃった」
驚いたのは、狙った範囲を外して手品に失敗したことに対してだった。一匹のキャレットを殺してしまったこと自体に、罪悪感はない。一本尻尾の平民の死を、自分や姉たち三尾の命と同じ尺度で受け止めるという発想そのものが、ピョンにはなかった。
周囲の侍女たちは一斉に動きを止めた。耳が伏せ、一本の尻尾が固く身体へ張りつく。しかし誰も声を上げない。三尾の貴族の失敗で仲間が消えても、抗議する権利など彼女たちにはなかった。
チャオは空になった場所を見てから、少しだけ口元を緩める。
「……手品としては失敗だな」
「むー。チャオ姉を笑わせようと思ったのに!」
「ピョン」
コロの声が冷えた。
ピョンが振り返る。
「なに?」
「勝手に屋敷の侍女を手品の道具にしないの」
「でも、エプロンだけ消すつもりだったんだよ?」
「結果として一匹消えました。さっき四匹減ったばかりでしょう。これで五匹よ」
「じゃあ、またにゃんこ補充してもらえばいいじゃん」
「人的補充そのものに費用は掛かりません。でも、無計画に減らされると運用に困るの。配置の組み直しも、引き継ぎも、家令の仕事も増えるでしょう」
「でも跡形もないから、片づけは一匹ぶん減ったよ?」
「そういう問題ではありません」
コロは額へ指を当てた。
消された侍女について、誰も名前を呼ばなかった。誰も弔おうとは言わない。一匹のキャレットが消えたことそのものより、今夜の配置からさらに一匹欠けたことの方が、この屋敷では具体的な問題として扱われている。
それを横で聞いている別の侍女たちは、ただ深く頭を下げていた。次に杖の先が自分へ向かない保証などない。それでも逃げるという選択肢はない。
「ピョン様……片づけを続けてもよろしいでしょうかにゃ……」
一匹が震える声で尋ねる。
「うん、いいよ!」
ピョンはすぐに笑顔へ戻った。
「みんな頑張ってね、にゃんこたち!」
「は、はいにゃ……!」
返事は揃った。
コロはピョンのステッキを指差す。
「あなたは全体消滅と部分消滅を切り替えられる。それを使い慣れているからこそ、遊びで雑に狙わないこと。今のは制御ミスよ」
「はーい。次はちゃんとエプロンだけにする」
「次もやらないの」
「えー」
叱られても、ピョンはしょげなかった。ステッキを背中側へ回し、また室内を楽しそうに見回している。
チャオは長椅子の背にもたれ直した。
「お前、何しに来たんだよ」
「音がいっぱいしたから見に来たの。途中でにゃんこたちがいっぱい走ってたし!」
「来なくていい」
「なんで?」
「面倒だからだよ」
「私の屋敷でもあるのに?」
チャオが言葉に詰まる。
ピョンはその隙にさらに奥へ進もうとしたが、コロが鉄扇の先で床を示した。
「そこから先はまだ破片があるわ。踏んだら怪我をするから、こっちを通りなさい」
「分かった!」
言われた通りの道を選びながらも、ピョンはきょろきょろと室内を見回す。割れた茶器、へこんだ壁、石柱の傷、乾きかけた血痕。怖がるより先に、何が起きたのか知りたくて仕方がないらしい。
「ねえコロ姉。あっちの床、ちょっと濡れてるの何?」
チャオの顔が険しくなる。
コロは平然と答えた。
「生き残った三匹が、恐怖で失禁したのよ」
「三匹とも?」
「三匹とも」
ピョンはチャオを見るなり、また吹き出した。
「チャオ姉、怖がられすぎ!」
「笑うなよ!」
「だって三匹そろってなんでしょ? あははっ!」
「ピョン」
コロに名前を呼ばれ、ピョンは口元を押さえる。
「はーい」
「それ以上からかわないこと。チャオがまた暴れたら、今度こそ修理費が金貨三千枚では済まないわ」
「三千枚!?」
ピョンの目が丸くなる。
「えっ、にゃんこ四匹でそんなにするの?」
「違う。金貨三千枚はほとんど建物と家具の修復費よ。侍女の補充自体に費用は掛からないわ」
「そっちなんだ」
「そっちなのよ」
横でチャオがますます苦い顔をした。
「その話もうやめろ」
ピョンはしばらく姉の顔を眺めてから、今度は別のことに気づいたらしい。
「でもチャオ姉、今日いつもより怒ってない?」
「いつも通りだ」
「絶対いつもより怒ってるよ」
「うるせえ」
「だって、ひいお婆ちゃんの机壊したからだけじゃないでしょ?」
チャオの尻尾が苛立たしげに動く。
ピョンは悪気なく続けた。
「今日、偉い貴族様に呼ばれてたんだよね?」
その瞬間、コロの表情が変わった。
「ピョン。その話は今ここではしないわ」
「どうして?」
居間にはまだ複数の侍女がいる。死体を運ぶ者、破片を集める者、床の血を拭く者。全員が目を伏せて仕事をしていたが、耳まで塞いでいるわけではない。
ピョンはコロの視線を追い、ようやく理由を察した。
「あ。にゃんこたちに聞かれたら困る話?」
「余計な誤解を生む可能性がある話よ」
「ふうん」
少し考えたあと、ピョンは頬を膨らませた。
「また私だけ知らないまま?」
コロの手が止まる。
「そういう意味ではないわ」
「コロ姉、いつもそう言う」
声に強い反抗はない。それでも、先ほどまでの無邪気な調子とは違っていた。
「危ないから知らなくていい、難しいからあとで、私のためだからって。私だってオセロット族なのに」
チャオが横目で末妹を見る。
コロもすぐには返事をしなかった。
現存するオセロット族は三人しかいない。ピョンは守るべき末妹であると同時に、その三人のうちの一人でもある。危険から遠ざけることと、一族のことを何も知らせないことは同じではない。
「分かったよ」
コロは記録板を閉じた。
「ここを片づけている侍女たちが退室したら、あなたにも話します。ただし、聞いたことを勝手に外で話さないこと」
「うん!」
一瞬で機嫌が戻る。
チャオが呆れたように鼻を鳴らした。
「単純だな、お前」
「チャオ姉よりは考えてるよ!」
「何だと?」
「二人ともやめなさい」
ほどなくして、居間の最低限の片づけが終わった。残る修復は専門の職人に任せることになり、侍女たちはコロの指示でいったん退室する。
最後の一匹が扉を閉めると、広い居間には三姉妹だけが残った。
ピョンは待ちきれなかったように身を乗り出す。
「それで、どんな偉い貴族様だったの?」
チャオは一度だけ息を吐いた。
「……ティーダ将軍閣下だ」
ピョンの表情がすぐに変わる。
「あ、ティーダ将軍閣下だったんだ!」
「独断で地上へ出ることを、当面禁じられた。それと、これから部隊を動かす時は、任務に必要のない平民兵の損耗を抑えろとご命令を受けた」
「ティーダ将軍閣下、お怒りだった?」
「いや。お怒りにはならなかった」
「じゃあ、怒鳴られたりも?」
「ねえ」
「罰は?」
「ねえよ!」
思わず声を荒らげてから、チャオは自分で顔をしかめた。
「……ご命令を受けただけだ」
ピョンは数秒考え、首を傾げる。
「じゃあ、なんでチャオ姉こんなに怒ってるの?」
「うるせえ!」
ピョンがまた楽しそうに笑った。
今度笑われているのは、死んだ侍女でもティーダでもない。聞かれたくないところだけ綺麗に突かれたチャオだった。
「ピョン、そこまでよ」
コロが止めると、ピョンは素直に笑いを収める。
「でもティーダ将軍閣下なら、ちゃんとチャオ姉のお話も聞いてくださったんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあいいじゃん!」
「よくねえ」
「なんで?」
「それを説明すんのが面倒なんだよ!」
チャオが頭を掻く。
ピョンはまだ聞きたそうだったが、すぐ別の興味へ飛びついた。
「地上の尾無しって、そんなに強いの?」
「直接はまだやってねえ」
「でも、持ち帰った記録は見たんでしょ?」
「ああ」
「本当に尻尾ないの?」
「ねえよ」
「猫耳も?」
「ねえ」
ピョンは自分の頭の上と腰の後ろを確かめるように触れた。生まれた時から猫耳と三本の尾がある彼女には、そのどちらも持たない姿がいまひとつ想像しにくいらしい。
「変なの!」
「向こうから見りゃ、こっちが変なんだろ」
チャオがぶっきらぼうに返す。
ピョンは少し考えたあと、ぱっと目を輝かせた。
「やっぱり見てみたい!」
「珍しい生き物見物じゃねえんだぞ。敵だ」
「でも言葉は話すんでしょ?」
「話す」
「じゃあ、会ったら何考えてるか聞けるかもしれないじゃん!」
チャオが信じられないものを見るような顔をした。
「お前、敵とおしゃべりしに行く気か?」
「戦わなくていいなら、その方が楽じゃない?」
ピョンに深い政治思想があるわけではない。ただ、知らない相手なら近づいて確かめたいという好奇心が、敵だから憎むべきだという感覚より先に出ているだけだった。
コロは末妹を見つめる。危なっかしい考え方ではあるが、頭から否定すれば、また何も教えてもらえないという不満を強めるだけだ。
「話せるかどうかと、あなたが勝手に会いに行っていいかどうかは別の話よ」
「分かってる。でも一回くらい見てみたい!」
「駄目よ」
コロの返事は早かった。
ピョンの頬が膨らむ。
「まだ何も言ってないよ」
「『地上へ行ってみたい』と言う顔をしていたわ」
「言おうとはした」
「同じことです」
「また私だけ置いていくの?」
「地上へ出すかどうかは、今ここで決める話ではありません」
「でも私、三尾だよ。戦えるよ!」
「知っています」
「だったら――」
その時だった。
部屋の隅で、短い電子音が鳴る。
三姉妹が同時に振り向いた。
壁際に設置された軍用通信器の表示板が点灯し、王国軍の認証表示が浮かび上がる。
「あ、通信!」
ピョンが真っ先に駆け寄ろうとする。
「触らない」
コロの一言で足が止まった。
「まだ触ってないよ!」
「触る顔をしていたわ」
「コロ姉、今日そればっかり!」
チャオも長椅子から身体を起こす。
「どこからだ?」
コロが通信器の表示を読む。
その目がわずかに細くなった。
「王立科学開発局」
ピョンの三本の尻尾が一斉に持ち上がる。
「科学局? 何だろう!」
「さあね」
コロは認証欄へ手を伸ばした。
チャオも、さっきまで垂れていた尻尾をゆっくり持ち上げる。
壊れた居間に、二度目の呼び出し音が響いた。




