第二章 怒られなかった三尾
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チャオは、オセロット家の紋章が刻まれた石扉へ着くまで、誰も殴らなかった。背中の超巨大ハンマーも三本の尻尾もいつもどおりだったが、胸の奥には、ティーダに怒鳴られも処罰されもせず、未熟者のように諭された屈辱が燃え残っていた。
五本尻尾の支配圏はもう背後にある。その事実だけが、押し殺してきた熱へ出口を与えた。
扉が内側から音もなく開く。
琥珀色の灯具が並ぶ玄関広間で、屋敷付きの侍女キャレットたちが一斉に頭を下げた。全員が一本尻尾のイエネコ族で、訓練所の課程と成人認定を終えた現役の侍女である。平民の中では、礼法、判断、実務のすべてを認められた超エリートだった。
灰色と白の侍女服には、オセロット家の紋章が縫い取られている。一般兵より待遇は良いが、貴族の意図を先読みし、呼吸のように奉仕を続けることを求められる職だった。
もっとも、どの家へ配属されるかまでは選べなかった。
「お帰りにゃさいませ、チャオ様にゃ」
声も、頭を下げる角度も揃っている。誰一匹としてチャオの顔を見ず、視線は磨き上げられた床へ落とされていた。
完璧な出迎えだった。
だから、チャオの怒りを止める役には立たなかった。
先頭の侍女は、主人の三本の尻尾が普段より低い位置で揺れていることに気づいた。続いて、握り締めた右拳が白くなるほど力んでいることにも気づいた。観察力に優れているからこそ侍女に選ばれたのだが、危険を正確に見抜いても逃げる権利までは与えられていない。
せめて刺激しないよう、予定されていた帰宅時の挨拶を短く切り上げる。誰も今日の軍務を尋ねず、命令を待って沈黙した。
その整いすぎた静けさが、ティーダの執務室を思い出させた。
「茶」
それだけ言って広間を抜けると、侍女たちは即座に動いた。一匹が奥の居間へ先回りして椅子を引き、一匹が給仕卓を整え、別の一匹が厨房へ合図を送る。足音を立てない歩法まで訓練されているため、聞こえるのは布の擦れる音と、チャオの重い足音だけだった。
居間には長椅子と、その前の低い給仕卓があり、床の中央には濃紺の絨毯が敷かれている。壁際には繊細な彫刻を施した茶器棚、中央寄りには花瓶を載せた彫刻机、長椅子の脇には予備の小卓もあった。チャオが長椅子へ腰を下ろすと、白い前掛けの侍女が銀盆を捧げ持って進み出た。
カップを受け皿へ置く。
ちん、と澄んだ音がした。
ごく小さな音だった。普段なら灯具の燃える音に紛れ、誰の耳にも残らなかっただろう。
「うるせえ」
チャオの右手が動いた。平手が侍女の頬へめり込み、細い身体が床から浮いた。身体ごと半回転して数歩離れた石壁へ肩から激突し、骨の砕ける鈍い音とともに後頭部を打った。飛び散った血が、明るい石へ扇形の染みを作った。
侍女は床へ崩れ、全身を二度だけ大きく痙攣させた。一本尻尾が助けを求めるように石を叩いたが、三度目はなく、開いた瞳も動かなくなった。
手を離れた銀盆は床へ落ち、縁を鳴らしながら何度か揺れ、表を上にして止まった。不思議なことにカップだけは受け皿の上へ残り、薄茶色の液面を揺らしていた。
残った侍女たちは、倒れた仲間へ駆け寄りたい衝動を押し殺した。医療係を呼ぶにも、主人の前を横切るにも許可が要る。壁の血と動かない胸を見れば、手当てが間に合わないことも分かった。
それでも数匹の視線は、主人の衣服や床へ茶が飛んでいないかを先に確かめた。隣に控えていた侍女も反射的に盆を拾う。誰も死んだ仲間の目を閉じに行かず、まず茶器を守る訓練だけが身体を動かしていた。
「も、申し訳ございませんにゃ……!」
震えながら頭を下げる。自分が何を謝っているのか、本人にも分かってはいなかった。
チャオが立ち上がる。
「お前もうるせえ」
「ひっ――」
悲鳴が言葉になる前に、チャオの手が前掛けの胸元を掴んだ。侍女の両足が床を離れ、そのまま茶器棚へ投げつけられる。背中から棚を突き破り、木片と陶器が弾けた。身体は棚枠と石壁の間に胸郭を挟まれ、折れた棚板が腹へ食い込む。その上から何十枚もの皿が降り注いだ。
瓦礫の下で侍女の猫耳が震えた。息を吸おうとするたび、潰れた胸から笛のような音が漏れ、口元へ血の泡が膨らむ。
近くの侍女が一歩だけ踏み出した。だが「助けてもよろしいでしょうかにゃ」と尋ねれば、口を挟んだことになるかもしれない。黙って助ければ許可なき行動になり、何もしなければ仲間を放置したと咎められるかもしれない。
迷っている間にも、瓦礫の下の呼吸は弱くなっていった。
「じゅ、絨毯を……汚して……申し訳、ございませんにゃ……」
最後まで職務上の失敗を詫び、伸ばした指は血の染みを拭おうとした。しかし腕は途中で落ち、一本尻尾からも力が抜けた。
崩れた棚の側板が壁の呼び鈴へ当たった。
からん。
惨状には不釣り合いなほど、上品な音だった。
間を置かず扉が開き、別の侍女が入ってくる。廊下で何が起きたかを知らない彼女は、定められた位置で頭を下げた。
「お呼びになりましたかにゃ」
顔を上げないまま返事を待つ。床に転がる破片も、壁際に倒れた仲間も、貴族の許可なく見回すことはできない。
鼻へ届いた血の匂いと、靴先近くまで転がってきた陶器片だけが、日常の呼び出しではないことを教えていた。それでも定型の挨拶を途中で変えず、持ち場から一歩も動かなかった。
「誰が呼んだ」
チャオの問いに、侍女は答えを失った。呼び鈴が鳴ったから来た。だが、チャオが鳴らしていないなら、事実を述べても言い訳にされると理解できた。
沈黙が一拍を越える。
「返事しろ」
「は、はいにゃ! 呼び鈴が聞こえましたので、確認に参りましたにゃ!」
「そこに突っ立ってんじゃねえよ」
「すぐに退きますにゃ!」
侍女はすぐに通路を空けようと横へ退いた。
「勝手に避けんな」
慌てて元の位置へ戻ろうとしたが、足が止まる。避ければ怒られ、戻ればまた勝手に動いたことになる。
「邪魔だ」
チャオが踏み込み、爪先を侍女の腹へ叩き込んだ。身体は折れ曲がったまま部屋を横切り、中央寄りの彫刻机を巻き込んで壁へ衝突する。机の脚が折れ、重い天板と侍女の身体が壁との間で潰れた。
侍女は血の塊を吐き、折れた腕で天板を押し返そうとした。爪が木目を引っ掻く音だけが続いたが、やがて指が開き、額が静かに机へ落ちる。一本尻尾は不自然な角度で家具の下から伸び、二度と動かなかった。
部屋に残った侍女たちは、誰も悲鳴を上げなかった。声を出せばうるさいと言われ、黙れば返事をしろと言われる。呼吸だけは止められないので、せめて喉を狭め、可能な限り小さく息をしていた。
チャオは三匹の死体を一度も数えなかった。名前を確認することも、息があるか確かめることもない。
三本の尻尾が、苛立たしげに床を薙ぐ。
「茶はまだか」
「た、ただいまお持ちいたしますにゃ……!」
厨房係の侍女が返事をし、震える脚で銀盆を運んできた。倒れた仲間の腕を跨ぐことは不敬に思え、かといって大きく避ければチャオの視界を横切る。迷った末に小さく回り込むと、チャオの声が背中へ刺さった。
茶を運ぶ手は震えていたが、盆は水平に保たれている。床へ広がる血を踏まず、破片を蹴らず、主人へ正面を向けすぎず、しかも待たせない。平時なら試験官が満点を与えただろう歩き方だった。
「どこ見てんだ」
侍女は倒れた仲間へ向きかけていた視線を、慌てて床へ戻す。
「ど、どこも見ておりませんにゃ。申し訳ございませんにゃ……」
「だったら早くしろ」
「はいにゃ……!」
銀盆を置く場所がない。長椅子前の給仕卓は血で濡れ、彫刻机は死体と一緒に壁際で潰れている。侍女は長椅子の脇から予備の小卓を引き寄せ、音を立てないようカップを置いた。
今度は受け皿へ触れさせなかった。
熱い湯で茶葉を開き、主人が席へ着く時刻から逆算して香りと温度を整える。それは侍女候補が何度も試験される基本技能で、この一匹も上位の成績で通っていた。チャオがいつも好む温度も把握している。今日も茶そのものは間違っていなかったが、主人の機嫌だけは給仕手順へ組み込めない。
チャオはカップを取り、一口にも満たない量を唇へ触れさせた。
「熱い」
カップが侍女の顔へ飛んだ。茶が頬と首へかかり、白い湯気が立つ。侍女は悲鳴を噛み殺し、熱傷した皮膚を押さえることさえせず、床へ膝をついた。
「た、ただいまお取り替えいたしますにゃ!」
「早くしろ」
侍女は立ち上がり、足をもつれさせながら厨房へ走った。ただし走る足音で怒らせないよう、途中からは早足に変えた。遅いと言われない速度と、うるさいと言われない静かさの間を、火傷の痛みを抱えたまま必死に探す。
新しい茶を淹れ直し、厨房の侍女と二匹で香りと温度を確かめる。小声の「今ですにゃ」を合図に運び出したそれは、主人が普段飲む時と同じ温度に整えた茶だった。盆を持つ手は震えても、居間へ戻った時の温度までいつもの範囲から外れてはいない。
急げば器が鳴る。静かに運びすぎれば遅いと責められる。
温度ではなく、怒る口実だけが先に決まっていた。
「お、お待たせいたしましたにゃ……」
チャオは差し出されたカップを取り、一滴ほど舌へ乗せただけで眉間の皺を深くした。その手でカップを予備の小卓の受け皿へ戻す。
「ぬるい」
侍女の顔から血の気が引いた。
厨房で同じ茶を確かめた侍女が、扉の向こうで息を止めた。二匹の確認が適温を示していても、三尾のひと言を訂正する証拠にはならない。申し立てれば主人の味覚を疑ったことになり、黙れば給仕の失敗だけが記録へ残る。
「ただいまお淹れ直しますにゃ――」
チャオは背中の超巨大ハンマーを片手で外した。槌頭を振り回すまでもなく、太い柄を横へ払う。
柄は侍女の脇腹を捉え、肋骨をまとめて砕いた。身体が浮き、引き寄せたばかりの予備の小卓へ横から叩きつけられる。卓は中央から折れ、カップと受け皿が高く跳ねた。
侍女は床へ落ちても、すぐには死ねなかった。開いた口は呼吸を求めて何度も動くのに、潰れた胸は僅かにしか膨らまない。血に濡れた指先が、割れずに転がったカップへ伸びた。
「お茶を……もう一度……お持ち、します……にゃ……」
掠れた声は最後だけいつもの語尾へ戻った。指がカップへ届く前に止まり、耳がゆっくり伏せる。小さな痙攣が全身を走ると、呼吸音も消えた。
床へ落ちた受け皿だけが、硬貨のようにくるくる回っている。から、から、から。誰も音を止めに行けない。
チャオがうるさいと言うかもしれず、勝手に動くなと言うかもしれず、なぜ止めないと怒るかもしれなかった。居間に残った侍女たちは伏せた目の端で皿の回転を追いながら、どの動作も選べず、揃って身体を硬くした。
受け皿は次第に勢いを失い、最後に一度だけ大きく揺れて倒れた。部屋は静かになったが、チャオは満足しなかった。
壁には血が残り、絨毯には茶と血が混ざり、壊れた家具の下から何本もの手足と一本尻尾が伸びている。給仕を続けられる者は減り、片づける物だけが増えていたが、胸の熱は少しも冷めていない。
侍女たちは、誰が死んだかを知っていた。同じ訓練所で学び、同じ食堂で食事をし、勤務が終われば同じ使用人区画へ戻る仲間たちだった。一匹が欠ければ誰が夜番を代わり、誰が厨房と玄関を兼務し、どの休暇が取り消されるかまで想像できる。
だがチャオの目には、その違いが映っていない。壁の染みも、折れた家具も、動かない身体も、明日には誰かが片づけ、いずれ代わりが運び込まれる屋敷の不具合にすぎなかった。
『壊すことだけでなく、必要なものを残すことも、力の使い方です』
穏やかな声が蘇る。
「うるせえんだよ……」
部屋にティーダはいない。返事をしたのは、居間に残った三匹だった。
「「「申し訳ございませんにゃ……!」」」
声が重なった瞬間、全員の耳が一斉に跳ねる。声を揃えるよう命じられたわけではないのに、訓練の癖で同時に答えてしまった。
チャオの三本の尻尾が止まる。
侍女たちは次に何が来るか分からず、さらに深く頭を下げた。一匹は散らばった破片の前、一匹は厨房へ続く扉の脇、もう一匹は崩れた家具のそばで立ち尽くしている。
三匹は互いに目を合わせることすらできず、ただ自分が次に選ばれないことを願っていた。
チャオが一歩進む。
侍女たちは進路を空けようとしたが、先ほど「勝手に避けんな」と言われたことを思い出し、揃って踏みとどまった。その結果、今度は通路を塞いだ。
「邪魔だっつってんだろ」
全員が左右へ退く。右へ行くべきか左へ行くべきか決められず、同じ側へ動いた二匹が肩をぶつけ、慌てて反対へ避けようとしてまた重なった。
普段なら、屋敷付きの侍女が見せるはずのない無様な動きだった。だが床には仲間の血があり、どちらを選んでも殺されるという事実が、礼法より早く身体を支配していた。
そのうち一匹の脚から、とうとう力が抜けた。
「にゃ……」
短い声を漏らし、侍女はその場へ座り込んだ。怠けたのでも、礼を欠こうとしたのでもない。震え続けた脚が、もう体重を支えられなかったのだ。
場所は居間の中央寄りで、横には先ほど砕けた予備の小卓の脚があり、背後には広い石床が残っている。逃げ道は数歩先の側廊へ開いていたが、腰の抜けた身体は少しも動かなかった。
チャオが振り返る。座り込んだ侍女は両手を床について頭を下げようとしたが、腕まで震え、額が血と茶の混じった床へ触れた。
「も、申し訳ございませんにゃ……立ちますにゃ……すぐ、立ちますにゃ……」
何度も脚へ力を入れる。膝は動くが、身体が持ち上がらない。
チャオは超巨大ハンマーの柄を握り直した。
侍女の耳が、その革の軋む音を拾った。五匹が全力を合わせてようやく運べる重量を、チャオは片腕で操る。今、その先にいるのは戦場の怪物ではなく、腰を抜かした一匹の平民だった。
先ほどまで使っていた柄ではなく、今度は槌頭がゆっくりと床を離れる。巨大な影が侍女の背へかかり、周囲の灯具の光を覆った。
生き残った侍女の一匹が仲間を庇うように顔を上げかけ、許可がないことを思い出して視線を落とす。声を出せば自分も殺される。それでも黙っていれば、座り込んだ仲間は確実に死ぬ。
「チャオ様、その侍女は立てませんにゃ――」
「黙ってろ」
低い一声で、言葉は喉の奥へ押し戻された。
チャオは両足を開き、片腕でハンマーを頭上まで持ち上げる。三本の尻尾が大きく広がり、抑え込まれていた魔力が筋肉を巡った。
座り込んだ侍女は目を閉じなかった。涙で濡れた瞳を床へ向けたまま、動かなかった。
逃げようとすれば、立てるではないかと怒られる。助けを求めれば、誰に口を利いていると怒られる。黙って死を待てば、返事をしろと怒られる。どれを選んでも、主人へ新しい怒りの理由を与えるだけだった。
残る二匹は、主人の視界へ入らない位置で拳を握った。助けるためではなく、悲鳴を漏らさないためだった。
「何座ってんだよ」
チャオの腕が振り下ろされる。
超巨大ハンマーの槌頭が風を押し潰し、侍女の頭上へ迫った。




