第一章 五本尻尾の前で
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第二次地上派遣が失敗に終わった翌日、チャオはフェリディア王国軍の上級指揮区画を歩いていた。
褐色の肌に、長い白髪を束ねたポニーテール。鍛え上げた身体を大胆なカットの青いレオタードで包み、背には本人の身長を大きく上回る超巨大ハンマーを負っている。腰から伸びる三本の尻尾は、苛立ちを隠そうともせず重たく揺れていた。
廊下の角から姿を現しただけで、書記キャレットも伝令兵も壁際へ寄って頭を下げる。一本尻尾のイエネコ族――平民にとって、三本の尾を持つオセロット族の貴族は生まれながらの上位者だ。ましてチャオは、返事が遅い、食器を落とした、通路で邪魔になったという程度の理由で平民を殺し、壊れた皿ほどにも気に留めないことで知られていた。
「…………チッ」
舌打ちに驚いた書記の猫耳が跳ね、抱えていた紙が一枚、床へ滑った。
「も、申し訳ございませんにゃ……!」
書記は慌てて頭を下げ、その拍子に残りの書類まで崩しかけた。紙を拾うべきか、姿勢を崩さず待つべきか判断できず、一本尻尾をぴんと伸ばして固まっている。チャオが足を止め、床の一枚から書記へ視線を移すと、数秒の沈黙だけで目に涙が浮かんだ。
だがチャオは何もせず、紙を一瞥して歩き出した。書記はすぐには動けず、十分に離れてからようやく震える膝を曲げる。その顔にあったのは仕事を失敗した者の焦りではなく、処刑を偶然免れた者の安堵だった。周囲のキャレットも息を殺したまま、彼女が遠ざかるまで顔を上げなかった。
チャオが慈悲深くなったのではない。今日は暴れる場所が悪すぎるだけだ。この区画を預かるのは、五本の尻尾を持つティーダ将軍である。
三本尻尾のチャオは平民から見れば雲の上の貴族だが、その彼女にも頭を下げなければならない相手がいる。尻尾の本数が血統と身分を示すこの国では、年齢も軍功も腕力も三本と五本の差を覆せない。しかも多尾の貴族種は人間やキャレットよりはるかに長命で、外見と生きた年月は一致しない。ティーダも人間には若い成人女性に見えるが、穏やかな顔立ちから実年齢を量ることには意味がなかった。
「……気に入らねえ」
ティーダ本人ではなく、これから礼儀正しい部下を演じねばならないことが気に入らなかった。
◇
執務室前では、ティーダ直属の侍女キャレット五匹が待っていた。よく整えられた侍女服をまとい、耳の角度まで揃えたような姿勢で頭を下げている。貴族の身辺へ直接仕える侍女は、訓練所で礼法、守秘、実務、観察、判断を厳しく見られた選抜組であり、科学技術局や医療局の専門職と並ぶ一尾社会のエリートだった。
しかし、どれほど優秀でも身分は平民のままである。貴族が一般平民を名で呼ぶことはなく、例外は侍女長や科学技術局・医療局の大幹部、特殊部隊の隊長級に限られる。ティーダのすぐ傍で働く目の前の五匹も、貴族から見れば個人ではなく、ただの「侍女」だった。
先頭の一匹が視線を床へ落としたまま告げる。
「チャオ様。ティーダ将軍のご命令により、入室前に武装をお預かりいたしますにゃ」
「あ?」
五匹の猫耳が同時に震えた。チャオはしばらく侍女たちを見下ろした末、背中へ手を回して超巨大ハンマーを外した。床へ立てた瞬間、どん、と鈍い音が廊下の奥まで響き、侍女たちの肩が揃って跳ねる。
槌頭だけでキャレット一匹の胴ほどもあり、太い柄まで含めた全長はチャオの身長を優に超えていた。普通の平民なら持ち上げる以前に、倒れてくるだけで骨を砕かれかねない重量である。
「ほらよ」
「お預かりいたしま――にゃっ!?」
柄を受けた先頭の腰が沈み、隣の一匹が支えても槌頭は床を離れない。
「もう一匹、支えてにゃ!」
三匹目で数センチ浮いたが、今度は柄が傾いた。
「そっち、お願いするにゃ……!」
四匹目が反対側へ回っても安定せず、最後の一匹まで両腕を差し入れた。五匹全員が互いの足元を確かめ、腰を落として息を合わせる。
「せ、せーの……にゃっ!」
ようやく巨大槌が浮いた。五匹の腕と膝は震え、一本ずつの尻尾が棒のように伸びている。
「お前ら、それ五匹いねえと持てねえのか?」
「も、申し訳ございませんにゃ……!」
「別に謝れとは言ってねえよ」
「も、申し訳ござ――」
侍女は途中で口を閉じた。謝れば怒られ、黙っても何をされるか分からない。五匹は巨大な御神体を運ぶ祭礼の一団さながらに、武器預かり台へ進んだ。その途中、後ろの侍女の靴底が滑り、槌頭が傾く。
「落としたら殺すぞ」
ごく普通の注意事項のようにチャオが告げた。
「「「「「はいにゃっ!!」」」」」
見事な合唱だった。チャオは鼻で笑ったが、侍女たちは一匹も笑わない。先頭の侍女が泣きそうな顔のまま歩幅と持ち手を指示し、五匹は一歩ずつ預かり台へ近づいた。槌頭を台の窪みに合わせ、柄を固定具へ収め、完全に手を離せた時には全員の額に汗が浮かんでいた。
「ティーダ将軍がお待ちですにゃ」
「ああ」
チャオは一歩進みかけ、露骨に顔を歪めて言い直す。
「……承知した」
普段なら「オレ」で始まり「うるせえ」で終わる女が、上位者の区画では必死に言葉を選ぶ。その不自然さに気づいても、笑ってよい者は一匹もいなかった。
◇
ティーダの執務室には金銀の装飾より地図や報告書が目立ち、王都、農業区画、採掘場、輸送路、地下水脈、危険モンスターの出没域、そして地上侵攻経路が整理されていた。王国軍が人間との戦争だけでなく、長年にわたり地底世界を危険な生物から守ってきたことが分かる部屋である。
机の向こうには、人間なら若い成人女性に見えるチーター族の将軍が座り、背後で五本の尻尾を穏やかに垂らしていた。その姿には廊下の兵を凍らせるような威圧も、チャオを力で押さえつけようとする気配もない。それでも、この部屋で誰が上位者なのかを疑う余地はなかった。
チャオは定められた位置まで進んで足を止め、頭を下げた。普段は好き勝手に揺れる三本の尾も、今だけは姿勢に合わせて低くしている。
「オセロット家のチャオ、出頭いたしました」
「はい。ご苦労さまです」
「……恐れ入ります」
「顔を上げてください」
許可を得て顔を上げると、机には記録装置と兵籍資料があった。二度の地上派遣で失われたキャレット兵、計十一匹分の記録である。軍籍には全員の名があるが、ティーダは読み上げない。生命を重んじても、一般平民を個人名で呼ばない貴族の慣習から外れてはいなかった。
「第一地上派遣で五名、第二地上派遣で六名。計十一名の死亡です。相違は?」
「ございません」
「第一派遣から一名、第二派遣から三名は一度生還し、帰還後にあなたが殺した」
「相違ございません。任務失敗への処分です」
ティーダは第一派遣の記録へ視線を落とした。
「最初の帰還兵は、竿賀を確保できなかった」
「はい」
「報告を終える前にあなたが処分したため、地上で何が起きたのかを十分に確認できなかった。その反省から、第二派遣隊には記録装置を持たせた」
「そのとおりでございます」
今度は第二派遣の報告書を開く。
「帰還した三名も竿賀の確保には失敗しました。ですが、記録装置は持ち帰った」
「はい」
「持ち帰られた記録があったからこそ、我々は地上側の三戦士について、まとまった分析を行えた」
「つまり、任務の一部は達成した」
「……はい」
チャオの奥歯が軋んだ。必要な情報は受け取った。その後で殺しただけの話であり、失敗した兵が減ったなら訓練所から新しいキャレットを補充すればいい。そう言いたくても、五本の尾を持つ将軍の発言を三本尻尾の自分が勝手に遮ることはできない。
「チャオ。私は、兵を戦場へ送りながら一匹も死なせるなと言っているのではありません」
ティーダは声を荒らげなかった。
「地底モンスターとの戦闘でも、地上作戦でも死者は出ます。撤退路を守るために誰かを残さなければならない場合もある。指揮官なら、必要な犠牲を選ばなければならない時もあります」
「はい」
「そして、平民人口が国家によって管理されていることも承知しています。訓練所の在籍数、各職種への配属、兵力補充、現役を退く予定の者、出生管理の状況まで、将軍として確認しています。十一名が死亡したからといって王国軍が揺らぐとは考えていません。数だけなら補充できます」
そこまではチャオにも理解できた。平民のイエネコ族は成長すると訓練所へ入り、国家のための教育と訓練を受ける。礼法や実務に秀でた者は侍女、学術や技術の適性があれば科学技術局、医療適性があれば医療局へ進み、それら少数の選抜から外れた大多数が兵士となる。
繁殖適齢期には現役を退き、生涯に一度、国家管理の人工授精によって子を宿す。出産数は人口、労働力、軍事需要をもとに調整され、育った次世代がまた訓練所へ送られる。王国にとって平民人口は巨大な循環であり、数匹や十数匹の損耗では揺らがず、数百匹規模が短期間に失われて初めて人口・補充計画が問題になる。チャオはその仕組みに一度も疑問を持ったことがなかった。
「しかし、補充できることと、必要もなく壊してよいことは同じではありません。第二派遣の三名には実戦経験があり、地上を見て生還し、情報を持ち帰った。治療して再配置すれば、新兵より有用だった可能性があります」
「……はい」
「もっと言えば、それだけではありません」
ティーダは兵籍資料へ視線を落とした。
「一本尻尾の平民にも、それぞれ家族があります。訓練所で共に過ごした仲間がいる。代わりの兵を一匹配置したからといって、失われた個人まで同じものになるわけではありません」
チャオの眉が僅かに寄った。そこが分からない。平民が一匹死ねば一匹、十匹なら十匹、百匹なら百匹を補充する。王国はそうして続いてきたし、チャオにとって個体の違いは、兵として使えるかどうか以上の意味を持たなかった。
「あなたには力があります。三本の尾から引き出せる魔力、あの巨大な槌を扱える肉体、そして平民兵を率いる身分と権限があります」
「……はい」
ティーダの五本の尻尾が静かに揺れた。
「だからこそ覚えてください。壊すことだけでなく、必要なものを残すことも、力の使い方です」
チャオの胸の奥に嫌な感覚が残った。ティーダは声を荒らさず、机も叩かず、罰として殴りもしない。最初から最後まで穏やかに、物事をまだ理解していない者へ一つずつ順番に教えている。その扱いが、チャオには怒鳴られるよりも、殴られるよりも腹立たしかった。
「続いて正式な命令です。あなたの独断による地上への出撃を、当面禁止します」
――オレが行けば勝てる。
喉まで出た言葉を飲み込む。戦闘能力がどうあれ、三本尻尾が五本尻尾の命令へ正面から逆らうことは許されない。
「…………承知いたしました」
「今後の地上出撃は、必ず上級指揮区画の承認を受けてください。今回持ち帰られた戦闘記録はこちらで分析へ回します。そして今後、あなたが部隊を指揮する際には、任務達成に必要のない平民兵の損耗を抑えること」
「はい」
「できますね?」
チャオは頭を下げた。
「ご命令に従います」
「結構です。下がって構いません」
「……失礼いたします」
怒鳴り声も処罰もなく話は終わり、だからこそ腹の底には行き場のない熱が残った。
◇
執務室の外では、五匹の侍女が武器預かり台の前で待っていた。チャオを見るなり猫耳が伏せる。彼女は何も言わないが、固く握った拳と重く揺れる三本の尻尾は、怒鳴っている時より危険に見えた。
「チャ、チャオ様……お預かりしておりました武装を、お返しいたしますにゃ……」
五匹が巨大ハンマーへ手を掛ける。
「せ、せーの……にゃ……!」
どうにか台から浮かせると、一匹の膝が震え、別の一匹は早くも目尻に涙を浮かべた。行きには「落としたら殺す」と言われており、戻ったチャオは明らかに機嫌が悪い。執務室で何があったかなど知らないし、知りたくもない。ただ、ここで柄を滑らせれば自分たち五匹のうち何匹が明日の勤務から消えるか分からない。その程度の想像なら全員にできた。
「お、お返しいたしますにゃ……」
五匹が差し出した柄を、チャオはすぐには取らなかった。無言で侍女たちを見つめる数秒のうちに、先頭の目には涙が溜まり、端の一匹は唇まで震わせる。
やがてチャオが片手を伸ばして柄を掴むと、五匹が全身で支えていた重量が一瞬で消えた。彼女は何事もなかったように超巨大ハンマーを片腕で持ち上げ、そのまま背中へ担ぎ直す。
侍女たちの猫耳が一斉に立った。自分たち五匹がかりでようやく運んだものを、目の前の貴族は片腕一本で扱っている。チャオが改めて五匹へ視線を向けると、一本ずつの尻尾が同時に硬直した。
「…………」
何も言わない。その無言が怒鳴り声より怖く、一匹の頬を涙が伝った。チャオは気にも留めず、背を向けて歩き去る。
姿が廊下の角へ消れてから、ようやく一匹が息を吐いた。
「……生きてるにゃ……」
「にゃーも……生きてるにゃ……」
それを聞いた残る三匹も止めていた息を吐き、安堵した途端、五匹の膝が揃って崩れかけた。
「す、座ったら駄目にゃ……まだ勤務中にゃ……!」
「わ、分かってるにゃ……でも脚が動かにゃいにゃ……!」
「支えるにゃ……!」
互いの腕を掴んで必死に立ち続ける姿は、巨大なハンマーを一本返しただけで任務からの生還を喜ぶ、ひどく間の抜けた光景だった。当人たちは誰一匹として笑っていなかったが。
一方、そんなことなど知る由もないチャオは、ティーダの言葉を振り払えず上級指揮区画の廊下を進んでいた。
帰還できる兵まで失う必要はない。補充できることと、無意味に壊すことは違う。必要なものを残すことも力の使い方だ。
穏やかな声が頭の中で繰り返されるたび、奥歯に力が入った。
怒鳴られたなら、まだよかった。殴られたなら痛みに耐えれば済み、処罰されたなら罰が終わったところで話も終わる。だが今回は怒鳴られも、殴られも、罰を与えられもしなかった。ただ穏やかに力の使い方を教えられただけで、しかも相手は決して言い返せない五本尻尾の将軍だった。
三本の尻尾が抑えきれない苛立ちを映して細かく震える。それでも上級指揮区画を抜けるまでは、壁も平民も殴らず、怒鳴り声すら上げなかった。教えが届いたからではなく、そこがティーダの支配する領域だからだ。
軍施設を離れ、オセロット家の屋敷へ続く通路に入ったところで、ようやく低く吐き捨てた。
「……クソが」
押し殺していた怒りが、その一言に濃く滲んだ。怒鳴られなかったせいで向け先が定まらず、処罰されなかったせいで、これで終わったと気持ちを切り替えることもできない。そしてチャオには、自分の中へ溜まった怒りを、自分だけで処理する習慣がなかった。
今頃、屋敷では何も知らない侍女キャレットたちが茶器を並べ、床を磨き、今日も昨日と同じように仕事が終わると信じて主人を待っている。
チャオは巨大ハンマーを背負い直した。三本の尻尾が大きく一度だけ薙ぎ、彼女は屋敷へ向かって歩き始めた。




