第六章 赤井満は逃げている
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小説とあわせて、ぜひビジュアルでも『心技戦隊ドライブレンジャー』をお楽しみください。
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六匹のキャレット兵が、新宿の人々から秋葉原のコスプレイベントへ向かう少女たちだと思われ、スマートフォンを向けられながら《ノクターン》へ近づいていた頃、赤井満は大学のその日最後の講義室で、教授の話を聞いているふりをしていた。
教壇では教授がスクリーンへ資料を映し、いつもと変わらない調子で説明を続けている。周囲では学生たちがペンを走らせ、パソコンのキーボードを叩き、後ろの席では誰かが眠気に負けて小さく舟をこいでいた。あの夜、《ノクターン》で響いていた悲鳴も、肉球ブーツが床を蹴る音も、銀色の爪が何かへ食い込む音もここにはなく、赤井が昨日まで当たり前だと思っていた世界が、そのまま何事もなかったように続いている。
だからこそ、そこへ戻ってくれば自分も元に戻れるのではないかと思っていた。
大学へ行き、講義を受け、昼になれば何か食べて、終わったら家へ帰る。竿賀との契約は断ったのだから、黒井やみるくのように研究所へ通う必要もなく、ドライブリングを二度と使わなければ、あの夜だけが人生の中にぽつんと残った異常な出来事になってくれるかもしれない。少なくとも赤井は、そう考えなければ大学へ来ることさえできなかった。
ところが、机の上に開いているノートには、講義が始まってからほとんど文字が増えていない。
右手の指が無意識に曲がり、何かの柄を握るような形になっていることに気づくたび、赤井は慌てて手を開いて膝の上へ置き直した。それでも数分もすれば同じ形へ戻り、そのたびにレッド・ドライブソードを握った感触まで指先へ蘇ってくる。
そこから先は、いつも同じだった。
肉球グローブから爪を伸ばし、自分へ飛びかかってきたガガ。殺されると思った恐怖。考えるより先に振った剣。そして、自分の一撃を受けたガガが床へ倒れ、二度と起き上がらなかった瞬間。
あれが自分を守るためだったことは、赤井にも分かっている。ガガは武器を持ち、こちらを殺そうとしていたし、何もしなければ死んでいたのは自分の方だったかもしれない。それでも「仕方なかった」と一言で済ませてしまえば、自分の中の大事な何かまで一緒に切り捨てるような気がして、どうしてもその言葉を受け入れられなかった。
「……赤井」
横から小声で呼ばれ、赤井は必要以上に肩を跳ねさせた。
「は、はいっ!」
講義室に響くほど大きな返事をしてしまい、教授まで一瞬説明を止めた。
数十人の視線がこちらへ向く。
赤井は顔から血の気が引くのを感じながら、何に対して謝ればいいのかも分からないまま「す、すみません」と頭を下げた。教授は少し困ったような顔をしたあと、「元気なのは結構ですが、私はまだ赤井君を指名していません」とだけ言い、何事もなかったように講義へ戻る。
周囲から小さな笑いが漏れた。
声を掛けてきた同級生は、笑うのを堪えながら赤井へ身を寄せた。
「悪い、そこまで驚くと思わなかった。大丈夫か?」
「だ、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから」
「最近のお前、考え事すると返事だけ異常に良くなるな」
同級生に言われ、赤井はますます小さくなった。昨日までなら自分でも笑えたかもしれないが、今は「猫耳の兵士を一匹殺してから少し神経質になっています」と説明できないのが何とも情けなかった。
講義が終わる頃には内容をほとんど覚えておらず、赤井は友人たちに夕食へ誘われる前に教室を出た。校舎脇の人通りが少ない場所まで歩き、自動販売機で水を買ってベンチへ座ると、ようやく誰にも普通の顔を見せなくて済むことに安堵した。
バッグの中には、普通ではない世界とのつながりがまだ残されている。
赤井は周囲を確認してからファスナーを開け、教科書の下にある内ポケットへ手を差し入れた。指先に触れたのは、竿賀から渡されたドライブリングだった。
ただの指輪に近い形をした、小さな変身装置である。
液晶も表示画面もなく、普段は何かの情報を映し出すことさえない。それでも、あの夜に赤井の「これ以上誰も傷ついてほしくない」という感情へ反応し、全身を赤い装甲で包んだものだった。
事件のあと、赤井は竿賀へ返そうとした。
もう使いたくないと伝えたにもかかわらず、博士は受け取らなかった。
『赤井君が二度と使わないと決めるなら、それも一つの答えだ。ただ、あの直後に出した答えと、落ち着いて考えたあとの答えが同じとは限らない。少しの間、持っていてくれ』
その言葉を思い返すたび、赤井は腹立たしさと不安の両方を感じる。人を殺した直後の大学生へ謎の変身装置を持たせたまま帰すのは、冷静に考えるとかなりおかしいのではないかとも思うのだが、あの竿賀なら「心理状態の経時変化を観察できるから有益だ」とでも言いそうで、想像しただけで余計に腹が立った。
「……絶対、僕のことデータとして見てるよな」
思わず口にしてから、赤井はため息をついた。
博士を信用できないなら、なおさら研究所へ戻るべきではない。
自分は戦いたくないし、もう誰かを殺したくもない。その気持ちはあの夜から何も変わっていなかった。
赤井がリングから指を離し、バッグを閉じようとした時、近くを通った女子学生二人の楽しそうな声が耳へ入った。
「これ見た? めちゃくちゃかわいくない?」
「猫の子たち? 新宿にいたやつでしょ」
今日、秋葉原ではコスプレイベントが開かれている。猫耳のコスプレ程度なら珍しくもないと思った赤井は、一度は聞き流そうとした。
ところが、次に聞こえた言葉で手が止まった。
「六人いるやつ。猫耳だけじゃなくて尻尾まで動いてるし、揃いの変わったビキニっぽい軽装に、大きい肉球の手袋と靴まで付けてるの」
「見た見た。しかも全員ちっちゃくてかわいいよね。秋葉原行く途中なのかな?」
赤井は慌ててスマートフォンを取り出し、「新宿 猫耳 コスプレ」と検索した。焦っているせいで一度「新宿 猫耳 コプレ」と打ってしまい、検索候補からまで訂正されている自分が妙に情けなくなったが、それどころではない。
いくつかの無関係な投稿を飛ばしたところで、画面に六匹の少女が現れた。
見間違えようがなかった。
二つの猫耳、腰から伸びる一本の尻尾、あの夜に見たものと同じ軽装、両手の肉球グローブ、両足の肉球ブーツ。爪は収納されているため、事情を知らない人間から見れば、確かに作り込みの激しいコスプレにしか見えない。
投稿した人間も、何の疑いも持っていなかった。
――秋葉原のイベント行く子たちかな? 猫コスの完成度すごい。みんなかわいかった。
別の写真では、二匹が撮影者へ向かって手を振っている。少し恥ずかしそうに耳を伏せた子もいれば、褒められたのが嬉しいのか、一本尻尾をぴんと立てている子もいる。
赤井はその写真を見つめたまま、胸の奥が重くなるのを感じた。
「……コスプレじゃないんだ」
周囲の人々は笑顔だった。
六匹も笑っていた。
あの夜、自分が殺したガガだって、戦場にいなければこんな顔をしたのかもしれない。仲間とふざけ、何かに驚けば耳を動かし、嬉しければ尻尾を振ったのかもしれないと考えると、ガガを「敵だったから」とだけ整理することがますますできなくなった。
しかし、写真の周囲にいる人間たちへ目を移すと、別の恐怖が湧いてくる。
誰も六匹を警戒していない。
すぐそばまで近づき、写真を撮り、手を振り、中には幼い子どもまで珍しい衣装を見るように指差している。
六匹が笑っていようと、彼女たちがフェリディア王国の兵士であることに変わりはない。あの夜のキャレット兵たちは、竿賀について何も知らない人間や、任務の邪魔になった人間にも爪を向けていた。
赤井が画面を握ったまま動けずにいると、突然スマートフォンが着信を告げた。
表示された名前は竿賀だった。
出れば、またあの世界へ引き戻される。
そう思った瞬間、指が止まった。
結局、赤井が迷っている間に着信は切れ、少ししてメッセージが届いた。
『赤井君。フェリディア兵六匹を《ノクターン》周辺で確認した。黒井君とみるく君にも情報を共有している。君は契約していないので、これは出撃命令ではなく状況連絡だ』
赤井は最後の部分を何度も読んだ。
命令ではない。
だからこそ困る。
来いと言われれば断れるのに、自分で決めろと言われれば、行かないことまで自分で選ばなければならない。
数分後、もう一件通知が入った。
『黒井君とみるく君が現場へ到着。一般人一名の死亡を確認。周辺にはまだ通行人がいる。なお、みるく君から「六匹なら六匹分の撃破報酬になるのよね」と質問されたが、現在それどころではないので保留した』
赤井は一瞬、何から反応すればいいのか分からなかった。
人が一人死んでいる。
黒井とみるくが六匹と接触している。
そして、その状況でみるくはもう報酬を数えている。
「……みるくさん、そこは本当にぶれないんだ」
呆れた声が漏れた直後、そんなことに少し笑いそうになった自分へ罪悪感が襲い、赤井は額を押さえた。
人が死んでいる時に笑っている場合ではない。
けれど、あの夜からずっと重く沈み続けていた胸が、ほんの一瞬だけ別の方向へ動いたのも事実だった。
そしてその直後、メッセージの「一般人一名の死亡」という文字が改めて目へ入った。
赤井が講義室で日常へ戻ろうとしていた間にも、誰かが死んだ。
それは赤井の責任ではない。六匹を送り込んだのも、一般人へ爪を振るったのも赤井ではなく、自分が大学へ来たこととその死には直接の因果関係などない。
それでも、自分にはドライブリングがある。
あの兵士たちに対抗できる力を持ちながら、怖いから使わないと決める自由がある。
そして自由に選べる以上、使わないことにも結果がある。
赤井はベンチから立ち上がったものの、身体は無意識に新宿へ向かう駅とは反対側へ歩き始めた。三歩ほど進んだところで、そのことに気づいて立ち止まり、自分でもあまりに露骨な逃げ方がおかしくなってしまう。
「……身体だけは迷わないんだな。逃げる方には」
乾いた笑いが一度だけ漏れた。
自分は臆病だ。
そんなことは、もう認めるしかない。
勇気が湧くまで待っていたら、おそらく一生ここから動けないだろう。
ただ、あの夜から考え続けて、一つだけ以前とは違うことも分かり始めていた。
自分が戦わなければ、戦いそのものがなくなるわけではない。自分が剣を持たなくてもキャレット兵の爪まで消えるわけではなく、「誰も殺したくない」という願いと「何もしない」という行動は、必ずしも同じではなかった。
だからといって、今度は殺す覚悟を決めればいいとも思えない。
あの夜は、怖さに任せて剣を振った。
次に戦うなら、せめて別の方法を選びたい。
攻撃を受け止める。武器を壊す。一般人を逃がす。可能なら相手も殺さずに止める。
そんな都合のいい戦い方が本当にできるのか、赤井には分からない。それでも、できないと決めつけて逃げ続けるより、一度自分で試してみたかった。
赤井はバッグを開き、内ポケットからドライブリングを取り出した。
指輪型の小さな装置には画面も文字もない。ただ夕方の光を受けて、赤い部分がわずかに輝いているだけだった。
「僕は、人を殺すためには戦わない。でも……戦いたくないからって、誰かが傷つくのを全部黒井さんとみるくさんに任せるのも違う」
自分で口にしても、立派な決意には聞こえなかった。声はまだ震えているし、新宿へ行くことを考えただけで胃の辺りが重くなる。
それでも赤井はリングを指にはめた。
変身は起こらない。
リングが指へ収まり、その内側からごく弱い温かさが伝わっただけだった。
今はそれで十分だった。
赤井はスマートフォンを取り出し、竿賀とのメッセージ画面を開いた。入力欄へ何度か文章を書いては消し、最終的に残したのは短い一文だった。
『博士、僕も行きます』
送信すると、すぐに既読がついた。
数秒後に返ってきた竿賀の文章を見て、赤井は思わず眉をひそめた。
『分かった。待っているよ、赤井君。なお、みるく君にはまだ君が来ることを伝えていない。知らせると「三人になったら取り分が減るの?」という話になりそうだからね』
「博士も今それ言うんですか……」
赤井は誰もいないベンチの前で、小さく頭を抱えた。
一般人が一人死に、六匹の兵士と二人のドライブレンジャーが今にも戦い始めようとしているというのに、あの研究所では報酬の取り分まで問題になっているらしい。
ひどい状況だった。
そして、ひどすぎるせいで少しだけ怖さが薄れた。
赤井はスマートフォンをしまうと、今度こそ駅へ向かって走り始めた。足はまだ重く、途中で引き返したくなる気持ちも消えていなかったが、それでも先ほどとは違い、自分の意思で新宿の方角を選んでいる。
その頃、《ノクターン》近くの路地では、サクラたち六匹の肉球グローブからフェリディウム合金製の爪が伸び、黒井とみるくもドライブリングへ手を掛けていた。
赤井はまだそこにはいない。
黒と桃の二人は、まず六匹を相手に戦わなければならない。
だが、これまで空席だった赤も、もう研究所や戦場から顔を背けているだけではなかった。ガガを殺した記憶も、また誰かを傷つけるかもしれない恐怖も消えないまま、それでも今度は自分で戦い方を選ぶために、赤井満は新宿へ向かっていた。




