第三章 一尾は一尾
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フェリディア王国軍の装備整備区画では、地上への再派遣に向けた準備が朝から続いていた。長い作業台には六匹分の肉球グローブと肉球ブーツが並び、後方勤務へ回っているキャレット兵たちが、フェリディウム合金製の爪を一本ずつ展開させては、固定具の噛み合わせや伸縮機構を確かめていた。
こうした日常的な調整や修理は、科学キャレットの仕事ではない。王国で科学キャレットと呼ばれる者たちは、頭脳と学術適性を認められて専門教育へ進み、王立科学開発局で研究や設計、新技術開発に携わる少数の専門職である。通常兵器の点検や修理は、前線から交代して後方任務に就いたキャレット兵自身が覚え、次に地上へ出る仲間のために行う。
そもそも、一尾のイエネコ族の進路は訓練所で大きく分かれた。成績だけでなく礼法、判断力、観察力まで極めて優秀なごく少数は、貴族に仕える侍女キャレットの候補となる。頭脳明晰で学術や生命科学への適性を示した者は、さらに教育を受けて科学キャレットや医療キャレットへ進む。そのどちらにも選ばれなかった大多数はキャレット兵となり、その多くが前線を支える兵力として送り出され、一部が交代で補給や警備、装備整備といった後方任務を担っていた。
同じ一本尻尾であっても待遇は同じではない。侍女は一尾社会でも特別な超エリートで、科学や医療の専門職も一般兵より良い宿舎や食事、配給、休暇を与えられる。高度な教育を受けた専門職を失う損失が大きいからだった。それでも二本目の尻尾を与えられるわけではなく、多尾の貴族を前にすれば、どの職種も同じ一尾の平民にすぎない。
「右手用の四番、二本目の爪が少し引っかかるにゃ。連結部をもう一回開けるにゃん」
作業台に身を寄せていた後方勤務のキャレット兵が声を掛けると、隣の一匹が工具を受け取り、手袋の外装を慎重に外した。
「了解にゃ。今日出る六匹に渡すんにゃら、地上へ行ってから動かにゃくにゃる方が怖いにゃ。急いでも、ここだけは誤魔化せにゃいにゃん」
隣のキャレット兵も頷き、伸縮させた爪を横から覗き込んだ。
「そうにゃ。にゃーたちには魔力がにゃいんだから、爪もブーツもちゃんと動かにゃいと逃げる時まで困るにゃ」
二匹は短く確認し合うと、すぐ作業へ戻った。前線へ送られた経験のある者ほど、装備一つの不具合がどういう結果を生むか知っている。爪が開かない、ブーツが固定されない、通信装置が途切れる――訓練場なら注意で済む失敗でも、敵地ではそのまま一匹の死につながる。
区画の奥には小さな診療室が併設されていた。そこで一匹の医療キャレットが、今回の地上任務へ選抜された兵士の右膝を診察している。白を基調とした制服と専門徽章は、彼女が一般兵ではなく、医療課程を修了した少数職であることを示していた。医療キャレットも制度上はピューレル直属の部隊に属しているが、負傷者がいる場所で働くのが職務であるため、軍病院だけでなく兵舎、王宮、研究施設、診療所、前線救護所など王国各地へ配置されている。
医療キャレットは兵士の膝を曲げ伸ばしし、痛みの出る角度を確認してから端末へ診断結果を入力した。
「骨は大丈夫そうにゃけど、今の状態で全力疾走は無理にゃ。地上任務は外れて、二日は安静にするにゃん。無理して悪化させたら、もっと長く動けにゃくにゃるにゃ」
負傷兵は申し訳なさそうに猫耳を伏せ、固定具の巻かれた右膝を見た。
「今日までに六匹揃える命令にゃろ? にゃーが外れたら、代わりを探さにゃきゃいけにゃいにゃ」
「それは軍務区画が決めることにゃ。あにゃたが走れにゃいまま地上へ行ったら、退く時に小隊みんにゃが危にゃくにゃるにゃん。治してから次の任務で働けばいいにゃ」
兵士が小さく頷いた、その時だった。
整備区画の入口から、重い足音が近づいてきた。工具を握っていたキャレット兵たちの耳が一斉にそちらを向き、入口に三本の尻尾が見えた瞬間、作業の音が止まった。
白いポニーテールを揺らしながら入ってきたのは、三尾の下級貴族であり前線指揮官でもあるチャオだった。褐色の筋肉質な身体には大胆なカットの青いレオタードをまとい、背中には並のキャレット兵ではまともに持ち上げることさえ難しい超巨大ハンマーを背負っている。
キャレット兵たちは誰かに命じられるまでもなく膝をつき、目を伏せた。一般兵よりはるかに高い教育を受け、王国各地で必要とされる専門職である医療キャレットも例外ではなく、診察台から一歩離れて同じように頭を下げる。一尾の内部でどれほど待遇や職務上の価値に差があろうと、三尾の貴族との間にある身分差の前では意味を持たなかった。
「六匹分、できてんのか?」
チャオは挨拶を待たず、整備班の責任者へ問いかけた。
「五匹分は検査を終えておりますにゃ。残り一匹分も最終調整中で、出撃時刻には必ず間に合わせますにゃ」
「まだ終わってねえのかよ。昨日の五匹が役立たずだったせいで、こっちはまた兵を出さなきゃならねえんだぞ。それで後方の奴らまでモタモタしてんのか?」
チャオがハンマーの柄で作業台を叩くと、工具が一斉に跳ねて石床へ散らばった。責任者は耳を伏せたまま、検査を省けば地上で故障する可能性があると説明しようとしたが、チャオは「言い訳すんな」と吐き捨て、調整途中の肉球グローブへ手を伸ばした。
「チャオ様、それはまだ触らにゃいでくださいにゃ! 爪の固定が終わっておりませんにゃ!」
作業していたキャレット兵が思わず声を上げた。直後、自分が三尾の貴族を制止したことに気づき、顔から血の気が引く。
チャオはゆっくりと彼女へ振り返った。
「……今、オレに命令したか?」
「ち、違いますにゃ! 不意に爪が作動するかもしれませんので、チャオ様がお怪我をされては大変だと思っただけですにゃ!」
チャオは背中からハンマーを抜くと、跪く兵士の顔からわずかに外れた石床へ叩きつけた。轟音とともに亀裂が走り、砕けた石片が兵士の腕へ当たる。彼女が反射的に身体を縮めると、チャオはハンマーを持ち上げながら冷たく見下ろした。
「次にオレへ指図したら、そこじゃなくて頭に落とす。一本尻尾の分際で、誰に口利いてんのか忘れんな」
「承知いたしましたにゃ! 大変失礼いたしましたにゃ!」
チャオは鼻を鳴らし、今度は診療室へ目を向けた。固定具を巻かれた兵士がいることに気づくと、露骨に顔をしかめる。
「そいつは何だ?」
医療キャレットは視線を上げないまま説明した。
「本日の地上任務へ選抜されていたキャレット兵ですにゃ。昨日の訓練で右膝を負傷しており、現状では全力疾走ができませんにゃ。二日ほど安静にすれば回復する見込みですので、今回は別の一匹を補充していただく必要がありますにゃ」
チャオは負傷兵の前まで歩き、見下ろした。
「お前、今は走れねえのか?」
「は、はいにゃ。でも治療していただければ、また働けますにゃ。次の任務では必ず女王様と王国のお役に立ちますにゃ」
「今は使えねえんだろ?」
兵士は一瞬言葉に詰まったが、嘘をつくこともできず、小さく「はいにゃ」と答えた。
医療キャレットは嫌な予感を覚え、すぐに補足する。
「チャオ様、治療すれば復帰できますにゃ。今回は別の兵を出せばよく、この一匹を失う必要はございませんにゃ。訓練済みの兵ですので――」
「だったら、なおさら飯と薬が無駄だろ」
チャオは巨大ハンマーの柄を両手で握った。
負傷兵が顔を上げ、何をされようとしているのか理解した瞬間、猫耳が恐怖で震えた。
「チャオ様……待ってくださいにゃ。にゃー、まだ働けますにゃ。二日だけいただければ、ちゃんと――」
「使えねえ奴は死ね」
巨大ハンマーが頭上まで持ち上げられた。
「お願いですにゃ! にゃーはまだ――!」
懇願が終わる前に、チャオは全身の力でハンマーを真下へ振り下ろした。
巨大な打撃面が、跪いたキャレット兵の頭部を真正面から押し潰すように直撃した。硬いものが砕ける鈍い音と、鉄塊が石床へ叩きつけられる轟音が重なり、兵士の身体は頭から一気に沈み込んだ。両腕が反射的に跳ね上がったあと力なく落ち、上半身も支えを失って横へ崩れる。
チャオがハンマーを持ち上げると、床には濃い血が広がっていた。頭部は巨大な一撃によって元の輪郭をほとんど保てず、顔立ちも猫耳も判別しづらいほど激しく損壊している。首から上へ致命的な力が集中したため意識が戻る余地はなく、身体だけが遅れて反応するように片腕を小さく震わせ、一本の尻尾も二、三度石床を叩いた。
それも数秒で止まった。
先ほどまで医療キャレットと話していた兵士は、もう呼吸をしていなかった。
診療した医療キャレットは青ざめたまま遺体を見つめた。右膝の怪我なら治せた。薬も固定具もあり、二日あれば復帰できる見込みだった。しかし頭部を超重量のハンマーで破壊された今、どれほど高度な医療技術を持っていても救命することはできない。
「……死亡ですにゃ」
「見りゃ分かるだろ」
チャオはそう言って、ハンマーについた血を床へ振り落とした。
「これで一匹空いた。代わりを入れろ。次は最初からちゃんと走れる奴を選べよ。一本尻尾なんていくらでもいるんだから、壊れた奴を治るまで飼っとく意味ねえだろ」
整備責任者は遺体へ目を向けることもできず、深く頭を下げた。
「……承知いたしましたにゃ。すぐ補充を要請いたしますにゃ」
チャオはそれ以上、死んだ兵士には関心を示さなかった。記録装置の箱を顎で示し、地上へ出す六匹全員に持たせるよう命じると、昨日の五匹についても、四匹は地上で消え、一匹は帰ってきたものの事情を聞く前に自分が殺したと、何でもない失敗談のように口にした。
「今度は死ぬにしても、何にやられたのか映像くらい残させろ。地上に残ってる爪、ブーツ、通信装置も全部回収。竿賀は生きたまま持ってこい。邪魔する人間は殺して構わねえ。また六匹まとめて消えたら、選んだ奴も整備した奴もまとめて責任取らせるからな」
「承知いたしましたにゃ!」
区画中のキャレット兵と医療キャレットが一斉に答えると、チャオはようやく満足したようにハンマーを背負い直し、白いポニーテールを揺らしながら出ていった。
三本の尻尾が扉の向こうへ消えてから、しばらく誰も動かなかった。
やがて医療キャレットが遺体のそばへ膝をつき、わずかに震える手で一本の尻尾を身体の脇へ整えた。近くにいた後方勤務の兵士が、血の広がった床を見ないようにしながら小さく尋ねる。
「……この子、ヴァルハラへ行けるかにゃ?」
医療キャレットは少し黙ってから頷いた。
「王国の任務へ選ばれて、女王様のために働こうとしていた子にゃ。きっと女王様が導いてくださるにゃん。先に亡くにゃったママや姉妹たちも、迎えに来てくれるにゃ」
「……そうだといいにゃ」
それ以上の言葉は続かなかった。
やがて後方勤務のキャレット兵たちは散らばった工具を拾い、再び肉球グローブとブーツの整備へ戻った。先ほどチャオに殺されかけた一匹も震える指で工具を握り直し、途中だった爪の固定機構を開く。
「四番の調整、続けるにゃ。次に使う子まで、装備の故障で死にゃせたくにゃいにゃん」
隣の一匹が黙って頷き、作業台へ戻った。
訓練所で最上位に入れば侍女になる道があり、頭脳を認められれば科学や医療へ進む道もある。そこへ届かなかった大多数は兵士になり、そのほとんどが前線へ送られ、必要に応じて一部が補給や警備、装備整備などの後方勤務へ回される。働き方も待遇も違い、一尾の社会の中にさえ明確な格差は存在していた。
それでも、誰の腰にもあるのは一本の尻尾だけだった。
どれほど優秀でも、どれほど専門知識を身につけても、二本目が生えてくることはない。まして、三尾の貴族が「使えない」と判断した時、その職務や将来が命を保証してくれるとは限らない。
一尾は一尾。
それが、フェリディア王国という国だった。




