第一章 帰らなかった五匹
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フェリディア王国には朝日が昇らない。巨大な地下空間のはるか上方に設置された照明群が、定められた時刻になると夜を模した薄暗さからゆっくりと明度を上げ、その光が石造りの住居区画や商店、研究施設、工房、軍の兵舎へ行き渡る頃には、王国の各所で新しい一日が始まっている。
地上の人間が初めてこの光景を目にすれば、地下にこれほど広大な都市が築かれているという事実だけでも理解するまで時間がかかっただろう。しかし、この国で生まれ育った者たちにとっては、人工の朝も、頭上に岩盤しかない街も、何の変哲もない日常だった。
軍兵舎の一室でも起床時刻を知らせる音が鳴り、キャレット兵たちが次々と寝台を降りていた。いつもなら猫耳の兵士たちが朝食の献立やその日の訓練について話しながらブーツを履き、装備棚を開閉する音が室内へ絶え間なく響く。
だが、その朝だけは違っていた。
壁際に並んだ寝台のうち、五つだけが空いている。
ギギ、ガガ、ゴゴ、ザザ、ジジ。
昨日の朝、地上任務へ向かった五匹の寝台だった。
一匹のキャレット兵がゴゴの枕元を整理していると、壁との隙間から小さな紙包みが転がり落ちた。彼女はそれを拾い上げ、中を開くまでもなく何なのか思い出したらしく、ぴんと立っていた猫耳をゆっくり伏せた。
「これ、ゴゴのお菓子にゃ。昨日、『任務から帰ってきたら食べるにゃん』って、取っておいたやつにゃ……」
隣でジジの寝台を片付けていたキャレット兵も手を止めた。紙包みへ目を向けたあと、自分の足元に置かれている予備のブーツを見る。左右が寸分違わず揃えられており、几帳面だった持ち主の性格がそのまま残っているようだった。
「ジジも、昨日は出発する前に忘れ物がにゃいかにゃん回も確認してたにゃん。寝台の下を見て、装備棚を開けて、それからまた寝台の下を見てたにゃ」
「五回くらい見てたにゃん。そのたびにギギが、『もう確認したにゃろ! さっさと来るにゃ!』って怒ってたにゃ」
反対側でザザの荷物を整理していた一匹がそう付け加えると、近くにいた別のキャレット兵も、何かを思い出したように尻尾を揺らした。
「ガガは任務から帰ったら、またみんにゃで走る速さを競うって言ってたにゃ。ゴゴも絶対参加して、『にゃーが一番速いにゃん!』って騒ぐつもりだったにゃろ」
「それで負けたら、『今日は調子が悪かっただけにゃ!』って言い訳するにゃん」
「絶対言うにゃ」
何匹かが小さく笑った。
昨日までなら、そのまま誰かがゴゴの声真似をして、別の誰かがガガの真似をし、しまいには本人たちまで巻き込んで朝から騒ぎになっていただろう。
けれど、今日はその続きをする者はいなかった。
笑いが静まると、空いた五つの寝台が否応なく目に入る。
昨日まで本当にここにいた五匹なのだ。同じ食堂で食事をし、同じ訓練場を走り、些細なことで言い合っては、夜になればこの兵舎へ帰ってきた。
それが一度の地上任務で、五匹まとめていなくなった。
ゴゴの菓子を持っていたキャレット兵は、紙包みを両手で包み込むように握ると、少し迷ってから小さな声で尋ねた。
「……ギギたち、ちゃんとヴァルハラへ行けたかにゃ?」
ジジのブーツを抱えていた兵士は、ほとんど間を置かずに頷いた。
「行けたに決まってるにゃん。みんにゃ王国のために地上へ行って、女王様のために命を捧げたんだから、女王様のご加護がちゃんとヴァルハラまで導いてくださるにゃ」
別のキャレット兵も、その言葉に安心したように耳を少し起こした。
「訓練所でもにゃんども教わったにゃん。王国と女王様のために命を捧げたイエネコ族は、死んでも一匹ぼっちにはにゃらにゃいにゃ。ヴァルハラへ行けば、先に死んだママが迎えに来てくれるにゃん」
それは、イエネコ族なら幼い頃から何度となく聞かされてきた教えだった。
王国と女王のために忠義を尽くし、その命を捧げた者は、死後、女王の加護によってヴァルハラへ導かれる。そこには飢えも苦しい仕事も戦争もなく、先に亡くなったママや姉妹たちと再会し、二度と別れることなく幸せに暮らすことができる。
戦場へ出るキャレット兵にとって、それは単なる昔話ではない。自分が死ぬかもしれない恐怖を和らげ、仲間を失った悲しみを受け止めるための、大切な支えでもあった。
「ギギはヴァルハラへ行っても、小隊長をやってそうにゃん」
一匹が少し笑いながら言うと、先ほどまで沈んでいた兵士たちの表情がわずかに和らいだ。
「それでジジに、『忘れ物にゃいか確認したのかにゃ!』って言ってそうにゃ」
「ゴゴはお菓子をいっぱい食べてるかにゃ?」
「ヴァルハラにゃら、美味しい物はいくら食べてもにゃくにゃらにゃいって、ママが言ってたにゃん」
「だったらゴゴは絶対幸せにゃ」
今度の笑い声は、先ほどよりも少し長く続いた。
悲しみがなくなったわけではない。もうこの兵舎で五匹と会えないという事実も変わらない。
それでも、ギギたちが暗闇の中へ消えてしまったのではなく、女王の光に守られながらヴァルハラへ辿り着き、そこで先に逝ったママや姉妹たちに迎えられていると思えば、胸の奥に残っていた冷たいものがほんの少しだけ和らいだ。
部屋の入口では、名簿を持った年長のキャレット兵がその会話を黙って聞いていた。すぐに作業を急かすことはせず、皆の表情が落ち着くのを待ってから、普段と変わらない声で指示を出す。
「そろそろ荷物をまとめ終えるにゃん。私物は全部指定箱へ入れて、寝台と装備棚を空けておくにゃ。今日の午後には補充の五匹が入る予定にゃん」
ゴゴの菓子を持った兵士が顔を上げた。
「もう決まったのかにゃ?」
「五匹欠けたんだから、そのぶん補充されるに決まってるにゃん。地上任務もまだ続けるらしいから、次の小隊もすぐ訓練へ入るにゃ」
「分かったにゃん」
キャレット兵は紙包みをもう一度だけ見つめ、それから指定箱へそっと入れた。
その横へジジの予備ブーツ、ガガが使っていた爪磨き、ザザの訓練記録、そしてギギが小隊長になった際にもらった古い徽章が順番に収められていく。
廊下の向こうからは、別のキャレット小隊が訓練場へ向かう賑やかな声が聞こえていた。一匹が何か失敗したらしく、何匹かが笑いながら走り去っていく。
昨日までは、ギギたちも同じようにその廊下を走っていた。
今日からは、別の五匹がその場所へ入る。
軍として見れば、失われたキャレット兵五匹を、新しい五匹で補充するだけのことだった。
けれど、ここに残された菓子やブーツや徽章、それに五匹分の思い出まで、新しい兵士を入れれば同じものへ取り替えられるわけではない。
残されたキャレット兵たちは、それぞれの持ち物を丁寧に箱へ収めながら、五匹が今頃ヴァルハラでママや姉妹たちに囲まれ、幸せに暮らしていることを願っていた。
◇
同じ頃、軍兵舎からいくつもの区画を隔てた部屋では、三尾のチャオが前日の地上任務に関する報告書を眺めていた。
チャオは十八歳のオセロット族で、オセロット三姉妹の次女にあたる。フェリディア王国において、三本の尻尾を持つ者は下級貴族として扱われ、王宮の奥で政治を動かす上級貴族とは異なり、一尾の兵士たちを率いて実際の戦場へ立つ前線指揮官を任されることが多い。
チャオもその一人だった。
褐色の肌を持つ身体は若い女性とは思えないほど筋肉質で、肩や腕には日頃から超重量の武器を振り回している者特有の厚い筋肉がついている。長い白髪は高い位置で一本のポニーテールに束ねられ、大胆なカットの青いレオタードをまとった背中には、並のキャレット兵なら数匹がかりでも持ち上げるのに苦労しそうな超巨大ハンマーが背負われていた。
もっとも、一尾の平民たちが彼女を恐れている最大の理由は、その身分でも怪力でもない。
チャオは極めて粗暴で、短気だった。
何か気に入らないことが起これば、考えるより先に怒鳴る。それでも腹が収まらなければ殴り、相手が一本尻尾の平民であれば、その結果として死んだところで大して気にも留めない。
そして今、チャオの機嫌は最悪だった。
「……ふざけんなよ」
チャオは報告書を握り潰すと、丸めた紙を部屋の入口へ向けて乱暴に投げつけた。
紙玉は、膝をついて控えていた侍女キャレットの頬へ当たり、そのまま床へ落ちる。
侍女は避けなかった。チャオが自分へ投げた物を避けることの方が、頬に紙をぶつけられるより遥かに危険だと知っているからだ。
「五匹出して、五匹消えて、人間一人も取れねえって、何しに行ったんだ、あのゴミどもは」
三本の尻尾が苛立ちを表すように荒々しく左右へ振られる。
正確には、地上へ送り込んだギギ、ガガ、ゴゴ、ザザ、ジジの五匹のうち、四匹は地上から戻らず、唯一帰還した小隊長ギギも、竿賀を確保できなかったと報告した直後にチャオ自身が大型ハンマーで殺している。
そのため、地上でいったい何が起きたのか、五匹が誰と戦ったのか、なぜ竿賀を確保できなかったのかについて、まともな情報はほとんど残っていなかった。
チャオは椅子から立ち上がると、背中から巨大なハンマーを引き抜き、苛立ちをぶつけるように石張りの床へ叩きつけた。
轟音が部屋中を揺らした。
石床へ亀裂が走り、膝をついていた侍女キャレットたちの猫耳が一斉に伏せられる。
「次の奴らはどうなってんだ!」
チャオが怒鳴ると、前列にいた侍女キャレットが床へ目を伏せたまま慌てて答えた。
「た、ただいま軍務区画で選抜しておりますにゃ! 装備の準備も並行して進めておりますので、もう少しお待ちいただければ――」
「遅えんだよ!」
チャオは大型ハンマーの柄で近くの椅子を薙ぎ払った。木製の椅子は壁へ激突し、脚の一本を折りながら床を転がっていく。
「昨日言ったよなあ!? 次はもっとマシなのを寄越せって! オレの命令が聞こえなかったのか!」
「聞こえておりますにゃ! 申し訳ございませんにゃ!」
「だったらさっさとやれ! 使えねえ一本尻尾の下等種族を何匹並べたところで、役に立たなきゃ何の意味もねえだろうが!」
侍女キャレットはすぐに額を床へつけ、その隣に控えていた二匹も、チャオの怒りが自分たちへ飛び火しないよう身体を縮めた。
そんな様子を見ても、チャオは何とも思わない。
一本しか尻尾を持たないイエネコ族は平民であり、自分たち貴族より劣る存在――それはチャオ個人だけの奇妙な考えではなく、フェリディア王国の身分社会で広く共有されている価値観だった。
そして王国の者たちから見れば、尻尾そのものを持たない人間は、その一尾の平民よりさらに下に見られている。
「相手は尻尾すら生えてねえ人間だぞ? そんな下等種一人さらってこいってだけの仕事に五匹使って全滅とか、どんだけ無能ならそんな結果になるんだよ。王国の貴族であるオレに、『人間一人も捕まえられませんでした』なんて報告させるつもりか?」
前列の侍女キャレットが、震える声で答えた。
「次の部隊には、より実戦経験のあるキャレット兵を選ぶよう軍務区画へ伝達しておりますにゃ」
「そんなの当たり前だろうが!」
チャオは拳で机を叩き、その上に残されていた報告書を跳ね上げた。
「それだけじゃねえ。前の五匹が地上へ置いてきた王国装備も全部拾わせろ。一本尻尾でも王国民には違いねえんだから、王国の物を人間みてえな下等種に触らせるんじゃねえ」
侍女キャレットは不用意な質問で怒りを買わないよう、慎重に確認する。
「爪やブーツ、通信装置にゃども、すべて回収するよう伝えればよろしいですかにゃ?」
「そうだよ! いちいち全部オレに言わせんな!」
「申し訳ございませんにゃ!」
「尻尾も持たねえ人間どもに王国の技術を弄くられて、そのうえ竿賀みたいな奴に中身まで調べられたら面倒だろうが。人間なんざ本来、王国民の足元で震えてりゃいい下等種なのに、余計な知恵だけは回しやがる」
チャオは吐き捨てるように言ったあと、薄い報告書へもう一度視線を戻した。
五匹送り、一匹だけ戻ってきた。
その一匹――ギギは確かに何かを説明しようとしていた。
しかし、チャオは聞かなかった。
竿賀の確保に失敗したと知った瞬間に頭へ血が上り、ギギが事情を最後まで話すより先に大型ハンマーを振り下ろした。
「……チッ。あの馬鹿も、ぶっ殺す前に何に負けたかだけ吐かせりゃよかったぜ」
ギギを殺したことそのものを悔やんでいるわけではない。惜しいと思っているのは、一匹分の情報を取り損ねたことだけだった。
チャオは苛立たしげに白いポニーテールを揺らしながらハンマーを肩へ担ぐと、やがて思い出したように鼻で笑った。
「まあ、王国のために死ねたんだから、あいつらも一本尻尾にしちゃ上出来か。女王陛下のご加護でヴァルハラにでも行って、ママや姉妹に頭を撫でてもらってりゃいいんだよ。生きて役に立てなかったぶん、死んで王国への忠義を示せたなら、下等種なりにはマシな最期だろ」
侍女キャレットたちは、もちろん反論しなかった。
ヴァルハラについての教えそのものは、彼女たちも幼い頃から信じている。王国と女王のために命を捧げれば、女王の加護によって死後の楽園へ導かれ、先に亡くなったママや姉妹たちと再会できる――それは一尾のイエネコ族にとって、戦場へ出る恐怖や仲間を失う悲しみを支えてくれる大切な教えである。
だが、同じヴァルハラという言葉を使っていても、五匹を失った仲間たちが「どうかそこで幸せに暮らしていてほしい」と願う気持ちと、チャオが「死んで役に立ったならマシ」と切り捨てる感覚は、まるで同じものではなかった。
チャオはそんな違いなど考えもしないまま、侍女キャレットたちを睨みつける。
「次は六匹出せ。記録装置も全部持たせろ。一本尻尾の下等種でも、死ぬ前に映像くらいは残せるだろ。人間ごときにまたやられるなら、せめて何に殺されたのかくらいオレに見せろ」
「承知いたしましたにゃ!」
「それから、また手ぶらで帰ってくる奴がいたら、今度はそいつだけじゃ済まさねえ。兵を選んだ奴も、装備を用意した奴も、オレの目についた一本尻尾から順番にまとめてぶっ潰すからな」
「は、はいにゃ!」
返事を聞いたチャオは、さらに眉を吊り上げた。
「聞こえねえぞ!」
「はいにゃ! 必ずご命令どおりにいたしますにゃ!」
今度は侍女キャレットたち全員が、部屋へ響くほど大きな声で返事をした。
チャオはようやく鼻を鳴らし、虫でも追い払うように片手を振った。
「分かったなら失せろ。いつまでオレの前にいる気だ、鬱陶しい」
「失礼いたしますにゃ!」
侍女キャレットたちは慌てて立ち上がると、チャオへ背中を向けないよう注意しながら後退し、部屋から出ていった。
扉が閉じた時には、チャオはもう彼女たちのことなど考えていなかった。
王国で下級貴族に位置する三尾のチャオにとって、一本しか尻尾を持たないイエネコ族は、戦場へ送り出すことのできる下等な平民でしかない。
そして尻尾そのものを持たない人間は、その一尾よりなお劣った下等種だと信じている。
だからこそ、腹が立つのだ。
王国の兵を五匹も使っておきながら、そんな人間一人を確保することさえできなかったという事実が、チャオには何より我慢ならなかった。




