第十章 三尾の前で
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その夜、地上よりさらに深い場所で、ギギは一人、長い廊下を歩いていた。
行きは五人だった。帰ってきたのは自分だけだった。
ガガはよく勝手に競争を始めた。ゴゴは任務が終わったら甘いものを食べると言っていた。ザザは強がりのくせに暗い通路を嫌い、ジジは忘れ物がないか何度も確認していた。ほんの数時間前まで隣にいた四人の声が、今は足音のない廊下へ何度も蘇ってくる。
「……帰りたくにゃい」
誰にも聞こえないほど小さな声が漏れた。
故郷へ帰りたくないのではない。この先にいる三尾の貴族、チャオへ会いたくなかった。
任務へ出る前、ジジが「失敗したらチャオ様、怒るかにゃ」と不安そうに耳を伏せた時、ギギは小隊長らしく「失敗しにゃければいいにゃ」と胸を張った。その自分が、いま四人を失い、サオガも確保できずに戻ってきた。
重い扉の前へ着くころには、ギギの耳はすっかり伏せられ、一本の尻尾も脚へきつく巻きついていた。それでも逃げることはできない。肉球の手袋から爪を完全に収納し、膝をつき、両手を身体の横へ揃える。顔は上げず、視線を床へ落とした。
「チャオ様。恐れにゃがら申し上げます。にゃー、地上任務より帰還いたしましたにゃ」
しばらく返事がなかった。その沈黙だけで、ギギの肩が小さく震えた。
「入れ」
短い声が飛んだ。
ギギが扉を開けると、部屋の奥に一人の女がいた。チャオは十八歳。成人したばかりの年齢とは釣り合わないほど肩、背中、腕に筋肉がついた筋骨隆々の体格で、鮮烈で非常にセクシーな青いレオタードを身につけている。三本の尻尾が苛立たしげに床を打ち、その背中には本人の身体より大きく見えるほどの超大型ハンマーが背負われていた。
「顔上げんな。そのまま答えろ。サオガは?」
「……確保、できませんでしたにゃ。申し訳ございません。ですが地上で――」
「は?」
たった一音で、ギギの言葉が止まった。
チャオが椅子から立ち上がる。背中へ片手を回し、常人なら二人がかりでも扱えそうにない超大型ハンマーを、木の棒でも抜き取るような軽さで肩へ回した。ギギには顔を上げることが許されていないため、視界に入るのは床を踏む靴と、自分の頭上へ影を落とす巨大なハンマーの先端だけだった。
「オレが聞いたのは、サオガを捕まえたかどうかだ。負けて帰ってきたのか?」
ギギの喉がひくりと動いた。
「……はいにゃ。にゃーの力が足りず――」
「じゃあ、もういらねえ」
ギギが言葉の意味を理解するより早く、チャオは腰と肩を一気に回し、超大型ハンマーを横殴りに振り抜いた。風を切る低い音の直後、巨大な打撃面がギギの左肩から胸へまともに入った。
衝撃で床が震えた。
打撃が入った瞬間、ギギの肺から空気がまとめて押し出され、声になる前の息だけが喉から漏れた。小さな身体は床から浮き、数メートル横へ飛ばされて壁へ左肩から激突する。視界が白く弾け、床へ落ちた時には自分がどちらを向いているのかも分からなかった。
左腕は力が入らず、胸も思うように動かない。ギギは反射的に息を吸おうとしたが、喉が短く鳴るだけで十分な空気が入ってこなかった。右手の指が床を探るように二度動く。起き上がらなければ、謝らなければ、せめてガガたちのことを報告しなければ――そんな訓練された考えだけが遅れて浮かんだが、身体は一つも従わなかった。
「……チャ……オ、さま……」
声にはならず、唇がわずかに動いただけだった。一本の尻尾が一度だけ弱く震え、その後は床へ落ちたまま動かなくなる。短く途切れた呼吸がもう一度戻ることはなく、伸ばしかけた右手からゆっくり力が抜けた。
チャオは倒れたギギへ近づきもしなかった。ガガがどうなったのか、ゴゴやザザやジジがなぜ戻らないのか、地上で何が起きたのかも尋ねない。
「言い訳聞くためにオレは兵隊飼ってんじゃねえんだよ。勝て。捕まえろ。命令されたことをやれ。できねえなら、帰ってくる意味ねえだろ」
返事はない。
チャオはそれを確かめる必要すらないというようにハンマーを肩へ担ぎ、舌打ちした。
「次はもっとマシなの寄越せ。尾無し相手の仕事で失敗したなんて話、聞いてるだけでムカつく」
廊下の外で待機していた一尾の兵士と侍女たちは、誰一人として物音を立てなかった。チャオがこれまで、返事が遅れた兵士、手元を滑らせて食器を落とした侍女、ただ機嫌の悪い時に近くへいたキャレットまで殺してきたことを、彼女たちは知っている。扉越しに床を揺らした一撃の意味を理解しているからこそ、耳を伏せ、目を床へ向けたまま息を潜めていた。
チャオは部下から恐れられていた。失敗した時だけではない。気分を害した、返事が遅い、邪魔に見えた――それだけで一尾の命を奪えるし、実際に何度もそうしてきた。ギギを殺した一撃も、チャオにとっては特別な処刑ではなく、癇癪の延長にすぎなかった。
その夜、五人で地上へ向かった小隊は、一人も戻らなかったことになった。
◇
地上では、まだ誰も知らない。
地下には国がある。軍があり、家族があり、科学と魔力があり、尻尾の本数によって生まれた瞬間から身分を決められる社会がある。
その国にとって、人間は尻尾すら持たない「尾無しの劣等種」にすぎない。
そしてその国には、失敗して帰ってきた幼い兵士の言い分を聞くより先に、その命を奪うことをためらわない貴族もいる。
黒井菊はリングを取った。桃野みるくもリングを取った。赤井満だけは、いったん背を向けた。しかし、手に残った剣の感触と、耳に残った「帰りたい」という声まで置いて帰ることはできなかった。
彼自身がまだ気づいていないだけで、物語はもう始まっていた。
第1話 了




