第8話 音の理由【side:ルラ】
ぽたん、とルラの頬に雫が落ちる。あと少しで氷へと姿を変えそうな冷たさ。それはルラにとっての目覚まし時計だった。
ルラはベッドの上でゆっくりと上体を起こす。大きなあくびをしてから、解いていた肩ほどまでの長さの銀髪を適当に括った。
(……ティアちゃん、まだ寝てるかな。朝早いし)
そう考えながら、ぼんやりとした意識を引きずるようにベッドから立ち上がる。
それにしても、まさかルビュロサム子爵家のご令嬢が夜逃げして、しかも自分の店で働きたいと言い出してくるとは――世の中何が起こるかわからないものだと、ルラは思った。そして、貴族の噂もときには当てにならないということを知った。
(「何事にも興味がなさそうな」「冷静沈着な」ご令嬢……って、聞いてたけど。ガセネタすぎ。まあ多分、社交パーティーに出席してるときのティアちゃんが、他の貴族たちの目にはそう映ったんだろうな)
実際は花への興味に溢れた、天真爛漫な女の子だった。
他の貴族は知らないティアの顔を、自分は知っている――そう感じたルラは、自分の心が夜の湖のような暗い喜びに包まれたような気分になる。その気持ちに少し遅れて気付き、ルラは怪訝そうに目を細めた。
(……嬉しい? 何でだろう)
(……まあ、俺、犬派か猫派かって聞かれたら断然犬派だもんな。子犬ならさらに好きだし……)
ティアへ抱く感情は愛玩動物に向ける愛情と近しいものだとひとり納得しながら、ルラはティアに貸した寝室のドアをノックした。この邸宅には数え切れないほどの余っている部屋がある。
「ティアちゃーん? 起きてるー?」
ドア越しに大きな声で語りかけるも、ティアからの返事はない。まだ眠っているのだろうか――そう思いながら、ルラは再び口を開いた。
「……開けるよー? いいー?」
やっぱり返事はなかった。ルラは少し逡巡してから、ドアの取っ手に手をかけてゆっくりと開く。
(……あれ?)
違和感を覚え、早足でベッドへと近付いていく。その違和感は正しかったようで、ベッドにティアの姿はなかった。一応布団を捲ってみるも、丸まった寝相のティアが出てくるなんてことは特に起きず。
(……まさか、建物内の探検とかしてる?)
あり得そうだ、と思った。興味津々な桜色の瞳であちらこちらを見て回るティアの姿が、脳内にすぐ浮かんでくる。
(まあ、別に見られて困るものはないけど……多分)
ルラは銀色の髪を淡く揺らしながら、ティアの捜索を始める。
子どもの頃に遊んだかくれんぼの記憶が、頭の中にふっと蘇った。
「……いねえし」
恐らく最後の部屋(部屋の数が多すぎてルラもよくわかっていない)のドアをぱたんと閉じて、ルラは小さく溜め息をついた。
(見てない場所、もうないよな……?)
(……いや、待て。よく考えたら、ティアちゃんがいそうなのってどう考えてもあそこじゃん)
ルラは段差の高い階段をさくさく駆け下りていき、一階の廊下を早足で歩いて玄関のドアを開く。
庭園の花壇に咲く数多の花々が、朝の陽光の白さを纏ってきらきらと輝いてる。その中に、亜麻色の長髪と一輪の花が咲き誇るかのような金色のバレッタが目に留まって、ルラは(……やっぱり)と口角を上げた。
ルラはティアへと近付いていく。ティアはルラに気が付いた様子はない。少し驚かせてやろうかと思って、屈んでいるティアの側に屈んで彼女の耳元で適当な言葉でもささやこうとしたときだった。
ルラは思わず、息を呑む。慈愛に満ちた眼差しで、柔らかく優しい微笑を湛えながら、側で咲く花を見つめているティアの横顔が余りにも、……綺麗で。
(この子……こんな表情も、浮かべるのか)
ルラはティアの横顔から目を離せなくなってしまう。絶景とか、そういう美しいものに目を奪われてしまう人間と似たような感覚で。
花々の香気に包まれた静寂が、十秒ほど経過して。風が吹き、ティアの亜麻色の長髪がルラの方へとなびき、触れる。それでようやく、ティアはルラが隣で屈んでいることに気が付いた。
「えっ、ちょ、わっ!? ルラさん、いつの間に!?」
驚いて体勢を崩しかけるティアの腕をルラは咄嗟に優しく引いて、彼女の身体を抱き寄せた。
ルラはティアへと言う。
「……やっぱり、危なっかしいよね。ほんとティアちゃんって、子犬」
「わ、私を子犬扱いしないでくださいと、何度言えばわかるんですか!?」
不服そうにぷいっと視線を逸らすティアに、ルラは思わず笑ってしまう。
(そうだよ……この子は、子犬みたいな存在)
(だからさっき、この子に……見惚れてしまったのも。ただの、偶然で)
ルラはティアの身体を離し、二人はゆっくりと立ち上がった。ティアは目を輝かせながら、「そういえば、ルラさん!」と口を開く。
「ん、何?」
「この花、ミクレシェアの花ですよね……!? すごい! 育てるの、とっても難しいのに!」
ティアは先ほど自分が見つめていた硝子細工のように透き通った花を、両手で示してみせる。褒められたのが嬉しくて、ルラの頬が緩んだ。
「そうそう。ほんと、落としたらぱりーんって割れちゃう硝子細工と同じくらい繊細な花なんだよね。本当は全部うまく育てたかったけどさ……」
そう言って、ルラは綺麗な花を咲かせているミクレシェアの花の奥に生えている、もう一つのミクレシェアの花を指さした。透き通ったつぼみが萎れてしまっている。
「こっちのは、花を咲かせる前に萎れちゃったんだ。すごい残念に思ってる。俺もまだまだだね」
青色の瞳に哀情を溶かしたルラと、萎れたミクレシェアの花を、ティアは交互に見て。
それから、ルラへと微笑みかける。
「……ルラさんが、よければなんですけれど。私の魔法、この花に使ってみてもいいですか?」
「……君の魔法?」
「はい! 私の魔法を、信じてほしいです」
ティアは真っ直ぐにルラを見据える。その真剣な表情に、ルラはすぐに頷いた。
ティアは元気のないミクレシェアの花へと手を伸ばして、桜色の唇で魔法を紡いだ。
「〈恵みの陽光よ・恵みの慈雨よ・生命力に救いの手を〉」
――瞬間、萎れていたつぼみがきらきらと蜜色の光の粒に包まれる。終わりを待つかのように垂れ下がっていたつぼみはみるみるうちに上向きになり、近いうちに開花するであろう瑞々しさを一気に取り戻した。
「……ほら! ルラさん、見てください!」
全てを包み込むような優しい微笑から、太陽の花のように眩しい笑顔へと表情を移ろわせて。
自分の顔を覗き込んでくるティアに、ルラはどこか呆然と瞬きを繰り返した。
「…………。……すごい。君の魔法は、花に生命力を与える魔法なの?」
「花だけではありません! 人でも、動物でも、植物でも……生きる力を必要とする者になら何だって、与えることができます」
「そうなんだね……本当にすごいじゃん。ティアちゃんを雇って大正解だ」
「ほんとですか!? やっほーい!」
「……はは。いいとこのご令嬢っぽくない喜び方だね」
「もう私、いいとこのご令嬢は卒業しましたし! ……あっ、ちょうちょ! しかも空色!? 初めて見ました!」
ティアは興味津々といった様子で空色の蝶々を追いかけ始める。その光景に、ルラはふっと笑いながら「……やっぱ子犬」と呟いた。
(……そうだ。そのはずなのに)
(どうして俺……魔法を使ってるティアちゃんの横顔にも、見惚れちゃったんだろう)
この短い時間で、二回も見惚れるなんて。
まるで、恋でもしているみたいじゃないか――
浮かんだ考えに、ルラは目を見開いて、それからぶんぶんと首を横に振る。
(ないない。ないし。俺、そんなちょろくないし。……ちょろくないよね?)
(一歳年下の子犬みたいなご令嬢に。出会って二日目で恋とか、しないし。……しないよね?)
この世界に生まれて十九年、ルラは恋というものに落ちたことがなくて。だからどんどん自信がなくなってきて、腕を組みながら目を閉じてうんうん唸っていると。
「あっ、ルラさん、危なーい! ひゃあっ!」
「!? う、うわっ!」
目を開ける頃には地面に倒れていた。すぐ側にティアの顔がある。どうやらまた昨日のように押し倒されたようだった。
「ご、ごめんなさいっ! ちょうちょを追いかけていたら、動線にルラさんがいらっしゃって!」
「うんわかった、もうちょっと周りをよく見ようか。俺だからまだいいけど、お客さん間違って押し倒したりしたら大惨事だからね」
「確かにっ……!」
大事な知識を得た、という感じの真面目な顔をするティアに。
「……取り敢えず、どいてくれる?」と仮面のように貼り付けた笑顔で告げながら。
ルラはうるさくてしょうがない自分の心臓の音の理由を、知りたいと思った。




