第2話 前世
ティアは森の中の大樹に背中を預けながら、眠りに落ちていた。
今までに何度も見たことがある夢を見ていた。それはティアがまだ幼かった頃、本当に起きた出来事を映し出す夢。
父・ゼノは外面のいい男だった。そんな彼は社交パーティーで縁を作ってきたという貴族へティアの話をし、ティアと貴族の幼い令息を会わせる機会を作るのに余念がなかった。
そうした令息は大抵花に興味はなくて、常に花のことばかり考えているティアと特に話は合わない。「つまらないはなし、するんだね」と冷めた目で言われたときは、ティアは悔しさで目を潤ませた。幼い頃から前世の記憶はあったけれど、未発達な脳がそうさせるのか、感情の制御がうまくできないのは他の子どもと大して変わらなかった。
一ヶ月の間に四人のよく知らない令息と無理やり会わされた月の終わり、笑顔のゼノから「それで、ティアは誰に恋したのだ?」と尋ねられたとき、こう返した。
「……とくに、だれも……」
ティアの返答に、ゼノは呆然とした表情を浮かべてから、彼女の肩を掴んで強く告げた。
「いいか、ティア。仮に誰にも恋できないとしたら、お前は欠陥品だぞ」
だから、ちゃんと恋をするんだ――ゼノの言葉が、どこか遠い国の言葉のように胡乱に響く。反論する気も起きずこくりと頷いて、小さなティアは心の中で呟く。
(だって……れんあいなんてしても、つらいだけですから)
ティアは頭の中に確かに宿っている、前世の記憶の輪郭に触れた。
「地球」という星の、「日本」という国で。ひどく心臓の弱い少女として、生を受けた。
学校に行くことも叶わず、白い病室のベッドの上で過ごす日々。
前世の両親はとても優しくしてくれた。ティアは彼らを「パパ」と「ママ」と呼んでいて、心の奥底から愛していた。今世の両親であるゼノとベラからの扱いに耐えきれないときは、前世の両親を思い出して心を落ち着けるくらいには、拠りどころだった。
そして前世のティアは、恋をしたことがあった。隣の家に住んでいた、幼馴染の男の子。よくお見舞いに来てくれて、小学校の楽しい話を数え切れないほど聞かせてくれた。
しかし小学校高学年になる頃に、彼はぱたりとお見舞いに来なくなった。他に仲のいい友達ができたのか、お見舞いに頻繁に行くことを誰かにからかわれたのか、真相はわからない。けれど、病室から出られず僅かな人間関係しか持っていなかったティアにとって、それはひどく悲しい出来事だった。ぼろぼろと零れる涙でベッドの白いシーツを濡らしながら、(……私に、誰かを好きになる資格なんてないんだ)と強く思った。
ティアの失恋に気が付いたのか、両親がお見舞いに来てくれる頻度が増えた。お見舞いのたびに増えたり変わったりしていく、美しいフラワーアレンジメント。綺麗だから、という理由で元から好きだった花々が、両親の優しさと混ざり合ってさらに好きになっていく。
死を迎えた年齢である十四歳が近付くにつれて、ティアの体調は悪化していった。その苦しみも、優しい花々を見つめていると少しばかり和らぐ気がした。
――だから、花が好きだ。
恋愛みたいな、ちゃんとした形を持たないのに、刃物のように心を傷付ける概念よりも。
ちゃんとした形を持っていて、愛のように心を包み込んでくれる花が好き……
……ティアはゆっくりと、まぶたを持ち上げる。
樹々の深い緑が視界に映った。何度も見ているから、夢の光景は頭の中で鮮やかな景色として再生される。ティアはこの夢が嫌いじゃなかった。勿論、ゼノの言葉も好きだった幼馴染も近付く寿命も、悲しい思い出だけれど。
でもこの夢は最後に、花への愛を深く再認識させてくれる。
ティアは立ち上がり、ネグリジェに付着した泥を手で払う。それから再び荷物を持って、森の中を進み始める。黎明の空は、藍色と桜色が溶け合っているような綺麗さだった。
疲れた足の痛みを魔法で取り払いながら歩き続けて、およそ数日が経過しただろうか。
(この森を抜けて、幾らか歩けば……王都に辿り着けるはずだ)
そう考えながら、ティアはふと周囲を見渡した。
美しい白色の毛並みに差し込む陽光を散りばめた、大きな狼のような魔物と目が合った。真紅の瞳は、ごくりと唾を飲み込んだティアの姿を映し出している。
ティアは静かに、ゆっくりと瞬きを繰り返した。敵意がないと魔物に伝える術。魔物もまた、ティアに向けて緩やかな瞬きを返してくれる。見え隠れする真紅の瞳は、どこか赤い夕焼けを想わせた。
ティアは魔物から視線を離して、また歩き出す。魔物との距離が充分にできて、ふうと安堵の息をついた。
(よかった……魔素の薄い時期で)
――魔素。この世界に満ちる、人の目には見えない元素。人々が魔法を使う源となる物質。
魔素の濃さには十年の周期がある。最も濃い時期から五年をかけて最も薄くなり、それからまた五年をかけて最も濃い時期がやってくる。
魔素が濃ければ濃いほど、人々の魔法は強大となる。だがそれと同時に、濃い魔素に当てられた魔物が凶暴化する。
四年前が最も濃い時期だった。そして、未来予知の魔法を司る聖女が〈安寧を破壊する竜〉が王都を破壊する未来を予知し、今では大魔法使いと呼ばれる四人の魔法使いが〈安寧を破壊する竜〉を殺したのも四年前である。
炎の大魔法使い・リリティレナ、水の大魔法使い・ルーディラル、雷の大魔法使い・アルベル、風の大魔法使い・ユア――今では国民の常識となっている彼らの名前を、勿論ティアも知っていた。
(……王都が守られてよかった。ちょうど、今私が目指しているのも王都ですし)
ティアが王都を目指すのには理由があった。
ルビュロサム子爵家から逃げ出して晴れて自由の身となった今、ティアが最もやりたいこと――それは、花屋で働くことだった。
前世の頃から、花屋に憧れていた。美しい花々で、人々の愛や祝福に寄り添ったり、癒しを届けたりする仕事……花が大好きなティアにとって、それはとても魅力的に映った。
でも、叶えることはできないとも思っていた。前世のティアには健康な身体がなくて、今世のティアには正しい理解者がいなかった。
だが、もう理解を求める必要はない。ゼノとベラの操り人形でいる気は、既にさらさらないのだから。
王都はとても大きな町だ。王国の最も発展した商業圏は、王都の南にあるランディテシャ商業区に違いないだろう。そこには様々な店が立ち並び、王都に住まう人々の生活を支える基盤となっている。
ランディテシャ商業区であれば、花屋の一つや二つ、あるに違いない。
土下座して頼み込んででも、ティアは花屋で働きたかった。それくらい、二度の人生を送るティアの中で花屋への情熱や夢が膨れ上がっていたのだろう。
ふと、身に着けているネグリジェが目に留まった。品のあるレースがあしらわれたそれは、乳白色だからか泥といった汚れが目立つ。
(……花屋の人に土下座する前に、宿屋に泊まって身なりを整えるべきかもしれませんね)
ティアはそう考えながら、早くお風呂にも入りたいと思って歩調を幾らか早めた。




