第1話 スティムリアと夜逃げ
――ルビュロサム子爵領にて。
子爵令嬢・ティア=ルビュロサムは、庭園の隅に設けられている小さな花壇を前屈みになりながら見つめていた。幾つもの花がデザインされた銀色のバレッタでハーフアップにされた亜麻色の長髪が、夜風に揺られて柔らかくなびく。
美しい桜色の瞳に映るのは、スティムリアの花。夜の間にだけ黄金に煌めく小さな花々を咲かせる姿は、まるで花壇に星空を零したかのよう。
(……綺麗)
ティアは微笑う。夜空で人々を見守る星々のような優しい微笑みで。
時間を忘れてしまうほどに、スティムリアの花に見惚れていた。ふと思い出したように顔を上げれば、一筋、流れ星が静謐に線を描いた。
すぐに消えてしまったけれど、ティアは縋るように両手を祈りの形に組む。
(……花に囲まれながら。花のことだけを考えながら。生きていたいです)
閉じていたまぶたを、ゆっくりと持ち上げる。本物の星空と、花壇の星空がそこにある。ずっとこの場所にいたかったけれど、(……お父様とお母様に見つかったら面倒だ)と思って背中を向ける。歩き出したのに名残惜しくて、何度も振り返ってしまった。
「――最高の縁談が入ってきたのだよ!」
執事とメイドの目を掻い潜りながら、そろりそろりと歩いて自室に戻ろうとしていたティアは、父の寝室から聞こえてきたそんな言葉にぴくりと眉根を寄せた。
(最高の縁談……?)
どうしてだろう、途轍もなく嫌な予感がする……そう考えながら、ティアは少しだけ開いているドアの隙間から部屋の中の様子を確認する。そこには父・ゼノ=ルビュロサムと、母・ベラ=ルビュロサムの姿があった。
「最高の縁談、と言いますと……?」
「ミルカリング侯爵家のライアン=ミルカリング侯爵だ! お前も知っているだろう!?」
「まあ! 素晴らしいお家ではありませんこと!」
(うわあ……)
ティアはひどくげんなりとした表情を浮かべた。
特に仲のいい令嬢もおらず、社交パーティーで上辺だけの会話をしているティアであっても、ライアン=ミルカリングの噂くらい知っている。齢は十八歳のティアの二倍よりも上である四十歳。それなのにティアのような若い女性が大好きで、そして嫁いできた女性を精神的に虐げることを三度の飯よりも愛している男。浴びせられる罵詈雑言に耐えきれず逃げ出した令嬢は数知れず。
ゼノとベラの高揚が滲んだ会話を聞きながら、ティアは桜色の唇を静かに噛んだ。
(……お父様とお母様は、知らないんでしょうか。ライアン=ミルカリングの悪い噂を……)
ティアの疑問に半ば答えるかのように、ゼノの心底嬉しそうな言葉が聞こえてくる。
「侯爵家と繋がりができれば、もっともっといい暮らしができるぞ! めでたいな!」
ティアは目を見開いた。ぴしり、とひび割れた音がする。親への尊敬とか信頼とか、そういう類の何かが。
(……結局私は、道具だとしか思われていないんだろうな)
昔から、そうだった。自分よりも格上の存在と仲良くするように、と教わってきた。そうすれば人間的にも成長できるから、と告げているゼノの瞳に偽りが溶け込んでいるのがティアにはわかった。人生二周目であれば、それくらいわかる。
虚ろな眼差しのティアの耳に、またゼノの言葉が届く。
「明朝、ティアをミルカリング侯爵領へ届ける手筈は整えておいた。ティアに伝えるのは明日の早朝にしよう」
「そうですわね。あの子、意外と反抗的ですから。前もって伝えたら、拒否してくる可能性もありますものね」
「本当に、親として情けない限りだ。土いじりばかりして、何が楽しいのか」
ティアの生き甲斐であるガーデニングを、明らかに蔑む響きで口にするゼノに。
ティアは、全身の血液が沸騰したような心地になる。
(……馬鹿にしないで。花を。尊い、花を……)
硝子の破片のように、前世の記憶がティアの心を穿つ。透明な血が胸の奥で滲んだ気がした。
ティアはくしゃりと表情を歪めながら、父の寝室の隣である自室へと戻る。豪奢なベッドに倒れ込んで、ライアン=ミルカリングと結婚した自分の未来を想像した。今だって許されているのは、小さな花壇でガーデニングをすることなのに。きっと、それすらも奪われる。
(……それは、絶対に嫌です。……どうすれば)
ベッドの上で、ゆっくりと上体を起こす。微かに乱れたネグリジェから覗くのは、健康的な白い足。
(……そうだ。――今世の私には、健康な足がある)
(健康な身体がある。前世とは違う。だから……逃げることだって、できる!)
ティアの桜色の瞳に、強い決意が混ざり合う。ベッドから腰を上げて、お気に入りの髪飾りや硬貨の入った袋や通行証を、小さな鞄へと仕舞う。それから、両親に易々と触られたり捨てられたりしたくなくて自室に置いているじょうろとシャベルを左手に持って、煌びやかなカーテンに隠された窓をそっと開いた。
夜風が部屋へと流れ込んでくる。乱れた亜麻色の前髪を右手で整えながら、地面を見た。ここは二階。両親や使用人に絶対に見つからないためには、正式な入口ではなくここから飛び下りるのがきっと最適解だ――ティアは深く息を吸って、吐く。そして、開いた窓から飛び下りた。
着地に少し失敗して、足を捻った心地がする。ティアはすぐに、魔法を紡いだ。
「〈恵みの陽光よ・恵みの慈雨よ・生命力に救いの手を〉」
くるぶしの辺りにあった痛みが、海へと帰っていく波のように消えていく。ティアは安堵の息を吐いて、屋敷から遠ざかるように駆け出した。
(……花々に、最後にさよならを言いたかった)
傲慢な両親よりも、事務的な会話くらいしか交わさなかった使用人たちよりも。
ティアにとって最も後ろ髪を引かれるのは、大切に育てていた花々だった。
ちゃんとお別れを言えなかったことを心中で謝る。亜麻色の長髪の上で、バレッタの銀色の花々が優しく揺れた。




