01.逃亡
走った。走った。走った。
思い通りに動かない足が、何度も何度ももつれて転びそうになる。足を必死に動かして、痛む肺を無視して、滲む汗を乱暴に拭いて、少女は、リシアはただ走った。
辺りは闇を溶かしたかのように真っ暗で奇妙な生き物たちの鳴き声が嫌でも耳に入ってくる。何かが軋むような鳴き声、喉を裂くような鳴き声、笑っているのか泣いているのか分からない鳴き声…。怖くてたまらない、不安で吐き気がする。それでもリシアは立ち止まらない。歯を食いしばり、ただ前に進んだ。
「うあっ」
けれど不意に、足が言う事を聞かなくなって受け身を取ることも出来ずに転んでしまった。砂が手のひらと頬と膝を削り、深紅の血が滲んだ。
「…い、たい」
痛みにより凛とした鈴のような声が漏れる。
「このまま、遠くに…速く、行かないと…」
ぶつぶつと呪文のように呟きながら、リシアは膝を乱暴にぱんぱんとはたいて、また前に向かって歩き出した。擦りむいた所がじんじんと熱く痛むから、リシアはもう走れなかった。
けれど、決して止まることはなかった。
リシアは目の前に広がる闇の中にただ浮かぶ星の光だけを頼りに、“封印の森”に向けて足を進めた。
王国「フロリア」———別名“花の大国”
街のいたる所に青や白、赤や黄色など色とりどりの花が年中枯れることなく咲いているからだ。通常、花と言えば二週間もすれば枯れてしまうが、フロリアの花々は違った。一度そこに咲けば、数週間、数か月、数年経っても枯れることはない。人の手によりつまれたり燃やされたりしてしまえば散ってしまうが、何もしなければ、永遠に等しい時間を咲き誇る。なぜフロリアの花は枯れることはないのか、それはフロリアの誕生の話が関係してくる。ある一冊の書物によればこうだ。千年以上前、フロリアが出来る前の土地は死の土地だった。命を奪うことはあっても、与えることは決してない。生き残った人々はこの土地での生活を諦めて旅立とうとしていた。けれど、そんな死の土地に一人の美しい花の女神が現れて死の土地に涙を流した。するとどうだろう、その涙を皮切りに死んだ土地から色とりどりの花や青々しい草木が生え、土地に命を与えた。花の女神はそのまま他の土地をめぐり、人をめぐり命を与え続けた。その与え続けた命というのが、今もなお枯れることのない花々だ。
一説によれば、花の女神は花々の他に別のものを与えたそうだが、その真相はどの本にも書かれていない。
そんな千年以上の栄華を誇るフロリアは今、破滅の危機に瀕していた。この世界には、先程話した女神のように人ならざる者達が存在する。女神のように命を与え、光を与える者達ではない。命を奪い、闇をまき散らす魔物たちの存在だ。魔物たちは人間のような見た目をしていれば、動物のような見た目をしているものがいる。魔法を使えるものも居れば、使えないものもいる。使えない魔物であれば一般の騎士でも討伐することが出来るが、使える魔物はそう簡単にはいかない。一般の騎士が向かってしまえばひとたまりもない。だが、同じく魔法を使える人間が相手なら何とか勝てることが出来る。魔法を使える人間の数は少ないが、それでも対抗は出来た。
だが、その均衡は崩れつつあった。それは、魔物たちを従える“魔王”の存在だ。
魔王について記された書物は数多く存在する。「闇を創るもの」「闇を従えるもの」「命を奪うもの」「花を嫌うもの」「悪そのもの」。
書物によって呼び方は様々だが、ただ一つ、共通する文がある。
それは「——千年の時を経て、人類を滅ぼす」。
その千年の時というのが、少女リシアが生きる「今」だった。
少女リシア。正式な名は“リシア・ヴィリディタス・フォン・フロリア”。花の大国フロリアの第二王女であった。彼女は王女という点を除けばどこにでもいるような普通の少女だった。琥珀のような瞳で多くの本を読んで、歴史を追求するために勉学に励んだ。
時には実った稲穂のような髪を風に揺らしながら、子供のように花々の中を駆け回った。
王族にしては、あまりにも普通の子供としてリシアは成長していった。けれど、そんな彼女の人生は一変してしまった。
———城の外に遊びに行ったリシアが、一匹の魔物に襲われてから。
バキッ。
「ひっ」
不意に踏んでしまった小枝が乾いた音を立てて折れる。その音でリシアの意識は現実に引き戻された。
夢中で歩いていたせいか、気付けば辺りは藍色に染まっており、先程よりも地面がよく見える。
あれから、何時間歩いたのだろう。立ち止まると、足先がじわじわと熱を帯びる。
遅れて、じんじんとした痛みが押し寄せてきた。
先程擦りむいた箇所には、もうかさぶたが出来ていた。だが、今度は履いていた布の靴がボロボロになっていて、爪が何枚もひび割れていた。
「…ふふっ」
リシアはそれを見て小さな笑い声を上げる。
————嬉しかった。
何年ぶりに、こんなに歩けたのだろう。
何年ぶりに、意図的ではない怪我を負ったのだろう。
今、足を襲う痛みがリシアの七年ぶりの自由を物語っていた。
ボロボロになった靴を脱いで侍女のフェリエが持たせてくれたポーチに丁寧に入れる。裸足で地面を踏みしめると小石が足の裏に食い込む。
痛いような、くすぐったいような。今まで経験したことのない感覚を、ゆっくりと味わいながらリシアは再び歩き出した。
しばらくして、太陽の光が本格的にあたりを照らし始めた。
リシアの視界は先ほどよりもずっと開けている。太陽の光を頼りに周囲へ視線を巡らせると、色とりどりの花が見えた。特にリシアの目を引いたのは一輪の青い花だ。特別な形をしているわけでもない、ありふれた花だった。けれど、どこか目を引く、理由の分からない何かがあった。
好奇心に負けて、リシアが花に手を伸ばす。その時だった。
バキッ。
リシア以外の誰かが、小枝を踏みしめる音がした。
ゆっくりと、そちらへ視線を向ける。
視線を向けた先には一人の青年が立っていた。
肩甲骨まで伸びた灰色の髪、その奥でリシアを睨みつける虹色の瞳。
「だ、ぁれ…?」
無邪気に首を傾げるリシアを見て、青年は重苦しく口を開いた。
「人間、お前…何故、ここに入ってこれた」
そう問いかける青年は、吐き気がするほど、美しかった———。




