第49話:ホーリー・チャリオットと幻影領域 【後編】
国境を越え、霧の立ち込める不気味な山岳地帯へと入った夜のこと。
車内は静まり返り、リナはヴェノンの通信網をハッキングすべく、猛烈な速度でキーボードを叩いていた。
ルッツは屋根の上でマイナス二度の冷気にさらされながら「これが至高のアイシングトレーニング!」と喜んでいる。
セイマは、膝の上で眠るコテンの背中を撫でながら、ふと窓の外を見た。
深い霧。
その奥に、何かが光った気がした――と、その瞬間。
「……マスターの脳波に……強力な異常干渉が……っ!」
リナの叫びと同時に、セイマの意識は急激な睡魔に飲み込まれた。
「……ん」
目を覚ますと、そこはホーリー・チャリオットの中ではなかった。
使い古された木の床。
積み上げられた古本の山。
窓から差し込む、柔らかい午後の日差し。
「……ここは、イギルニアのパン屋の二階?」
セイマは跳ね起きた。
そこは、逃亡生活が始まる前の、平和そのものの四畳半だったからだ。
窓の外を見れば、暴動もなく、街の人々が穏やかに笑いながら歩いている。
「夢……だったのか? 俺が有名人になってしまったことも、何度も襲われたことも、リナやルッツと旅をしたことも……」
セイマは枕元にあった目覚まし時計をみて、大きく伸びをした。
階下からは、いつものように香ばしいパンの匂いが漂ってくる。
『……そうです。すべては悪い夢だったんですよ、セイマさん』
頭の中に、絹のように滑らかで、逆らえないような優しい声が響く。
『あなたは戦う必要なんてないのです。誰もあなたを傷つけない。ここでは、あなたが愛する本と、静かな時間だけが永遠に続くのです。さあ、ゆっくりとおやすみなさい……』
その声を聞いていると、魂がとろけるように安らいでいくのがわかった。
「……そうだよ。俺、疲れてたんだな。あんなに現実味のない生活、俺に起こるわけがない……」
セイマは机の上に置いてあった、大好物の「いつものベーグル」を手に取った。
店長が毎朝、売れ残りをタダで分けてくれる、少し固めのベーグル。
彼はそれを一口かじろうとして――そして、止まった。
「……あれ?」
セイマはベーグルを裏返す。
その焼き色は、完璧だった。
どこをどう見ても、ムラのない均一な黄金色。
「おかしいな。店長のオーブンは、右奥の熱対流が少し悪くて、絶対に右側が少しだけ焦げるはずなんだけど……」
彼は部屋を見渡した。
完璧な静寂。
完璧な清潔感。
そこには、自分がかつて「平穏だ」と思っていた日常が、さらに精巧に磨き上げられた形で存在していた。
だが、セイマの胸に、どこか虚しい違和感が走る。
「……ここには、リナがいない」
あの、論理的でありながら壊滅的にズレた忠誠心をぶつけてくる天才科学者。
「……ルッツもいない」
暑苦しいほどに汗の匂いを漂わせ、俺を神格化する鋼鉄の筋肉。
「……コテンも、いない」
甘えて指を噛んでくる、「ぐうたら」でとても可愛い神獣。
「……俺が望んでいた『平穏』って、こんなのだったか?」
セイマがそう呟いた瞬間、彼の視界に「色」が戻った。
モノクロの静寂の世界に、鮮烈な極彩色の糸が走る。
自分の頭部に向かって、空から無数のショッキングピンク色の糸が伸び、脳の神経細胞に直接食い込んでいるのが見えた。
「……んっ、なんか邪魔だな」
現実世界の車内。
深い眠りについていたセイマの右手が無意識に、しかし確かな意志を持って持ち上がる。
「……シュッ」
セイマは、自分の額の前の空間を手刀で切り裂いた。
――『因果切断』
バリィィィィィィィィィィィィィンッ!!!
精神世界という名のガラス細工のような空間が、物理的な音を立てて砕け散る。
「ぎゃああああああああああああっ!!?」
森の奥深く、廃教会の中で数台のスーパーコンピューターに繋がれていた女性――ドクター・ヴェノンの刺客、精神介入型暗殺者「ミラージュ」が、絶叫と共にのけぞった。
彼女の脳内には、セイマの「因果切断」の反動が、十万倍のバックドラフトとなって逆流していた。
「バカな……! 私が構築した理想郷を、自分の力だけで拒絶したというのか!? ぐ、はっ……!」
ミラージュは自分の脳内サーバーが焼き切れる音を聞きながら、白目を剥いて失神した。
「……はっ!」
セイマは飛び起きた。
視界に飛び込んできたのは、心配そうに自分を覗き込むリナの美しい顔と、半泣きでプロテインシェイカーを振っているルッツの姿。
「マスター! お目覚めですか!? 脳波が一時的に未知の領域まで加速し、計測不能になっていたのですが……」
「師匠! あまりに深く眠っておられたので、もしや魂が肉体を脱ぎ捨てて天界へ行かれたのかと!」
「……きゅぅ」
コテンがセイマの手をペロペロと舐める。
「……大丈夫。ちょっと、変な夢を見ていただけだから」
セイマは冷や汗を拭い、フロントガラスの先を見た。
すると直前までの深い霧が、嘘のように晴れていく。
遠方には小さな町が見えはじめ、さらにその奥、標高二千メートルを超える険しい岩山の頂には、巨大な鋼鉄の古城がそびえたっていた。
かつての貴族の城をベースに、無数のアンテナと動力炉が増設され、まるで巨大な蜘蛛が山に張り付いているような異様な光景。
「……あれが、ドクター・ヴェノンの本拠地」
「はい。古城『ボイド・スローン』です。……ついに辿り着きましたね、マスター」
リナの瞳に、決然とした光が宿る。
彼女にとっては「アツィルト・ウィング」の復讐の地であり、
セイマにとっては「平穏な読書生活」を取り戻すための最後の関門であった。
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