第43話:決意の旅立ち — 嵐の前の安息、そして異国への隠密行 —【前編】
神月木家の庭。
数日前まで、そこには母が手入れする盆栽や、妹が部活の道具を放り出すのどかな日常があった。
しかし今、庭の隅に積み上げられているのは鈍い光を放つチタン合金の山――
ドクター・ヴェノンが送り込んだ最新鋭AI兵器「コンバット・ドッグ」のなれの果て――
その鉄屑を前にセイマは静かに、しかし力強く拳を握りしめていた。
これまでの十九年間、彼は運命に翻弄され、ただ襲いかかる災厄を「避ける」ことだけに全力を注いできた。隠れ里での地獄の修行も、彼にとっては「死なないため」の、後ろ向きで消極的な生存戦略に過ぎなかった。
だが、先日の襲撃は彼の中にある決定的な一線を越えていた。
もし、あの時自分たちが対応していなかったら……。
この縁側で呑気に茶を啜っていた母・優や、学校から「お腹空いたー」と帰ってきたばかりの妹・陽葵が、あの冷たい機械の牙に切り裂かれていたかもしれない。
(……もう、逃げるだけじゃダメだ。俺が避けても、俺の大事なものに糸が絡みつくなら……)
セイマの黒い瞳に、かつてない静かな炎が宿った。
「……リナ、ルッツ。ちょっと、いいかな」
セイマの声は低かったが、庭にいた全員の行動を止めるには十分すぎる重みがあった。
ホログラムPCのデータを猛スピードで整理していたリナが指を止め、庭の隅で片手懸垂千回を終えようとしていたルッツが、音もなく着地する。
「マスター……? その、因果の収束点を見据えたような鋭い眼差し。まさか、ついに真理の扉を……」
「師匠! その背中に、不動明王のような闘気が見えますぞ!」
セイマは二人を真っ直ぐに見据え、一文字ずつ噛み締めるように宣言した。
「俺、決めたよ。このままここで怯えていても、母さんたちを巻き込み続けるだけだ。このふざけた嫌がらせを仕掛けてくる、一番の親玉……ドクター・ヴェノンだったっけ? そいつに直接、話をつけに行く」
その瞬間、庭の空気が一変した。
リナのブルーの瞳に、狂喜に近い宗教的なまでの歓喜の光が宿る。
「おお……っ! ついにマスターが自らの意思で、この宇宙の歪みを正しに向かわれる……! 感動です、マスター!
ヴェノンの本拠地なら、私の『アツィルト』が既に特定済みです。東欧の険しい山岳地帯に鎮座する、要塞化された古城――通称『ボイド・スローン』。そこに、彼は潜んでいます」
「その場所を教えてもらえるかな。……俺が、全部終わらせるから」
セイマの言葉に、もはや迷いはなかった。
いや、正確には「これ以上実家の平穏を壊されるくらいなら、元凶を直接説得して以前の生活を勝ち取る」という、究極のネガティブが一周回って超ポジティブに反転しただけなのだが、周囲の信奉者たちには「聖者の完全覚醒」としてしか映らなかった。
「ハッ! このルッツ・ベルナー、師匠の御心のままに! その古城まで、血の海を掻き分けてでも、一陣の風となって道を切り拓きましょう!」
ルッツがその場に跪き、芝生の生えた庭を凹ませる勢いで忠誠を誓う。
セイマは「血の海は困るんだけどな……」と心の中で呟いたが、もう後戻りはできないと悟り、そっと溜息をついた。
出発の朝。
神月木家の玄関先には、早朝の澄んだ空気が流れていた。
使い古された旅行鞄を抱えたセイマの前には、母の優と妹の陽葵が立っている。
「セイマ、本当に行くの? 忘れ物はない? ハンカチ、ティッシュ……あと、お腹壊さないようにね。あ、保冷バッグにプリン、多めに入れておいたから。リナちゃんたちにも分けてあげるのよ」
優は相変わらずの天然ぶりで、これから息子が世界規模の巨悪との話し合いに行くなどとは微塵も思っていない。彼女にとって、これは少し遠くへ行く「大学の課外合宿」のようなものだった。
「ありがとう、母さん。……ちょっと、大きなプロジェクトを任されちゃってさ。しばらく帰れないけど、リナたちも一緒だから大丈夫だよ」
セイマは優の温かい手を握りしめた。
柔らかく、家事の匂いがする手。
この温もりを守ることこそが、今の自分を動かす唯一の「原動力」だった。
その隣で、陽葵が震える声で兄のシャツの裾をギュッと掴んでいた。
彼女は知っている。
兄が今、どれほど異常で、血生臭い世界に片足を突っ込んでいるのかを。
「……お兄ちゃん。絶対、コテンと一緒に帰ってきてよ。……約束だよ? もし帰ってこなかったら、お兄ちゃんの部屋の貴重な本、全部売っちゃうからね」
「ああ。約束するよ。って、本は勘弁してくれ……。陽葵も、母さんを頼むな」
セイマが優しく妹の頭を撫でた――その時。
神月木家の生垣の影から実体のない、しかし重厚な声が響いた。
「……ぼっちゃん。御心配なく」
陽光に溶け込むようにして姿を現したのは、完璧な執事服に身を包んだシャド・シグルドだった。彼はセイマの前で、優雅な所作で跪く。
「このシャド・シグルド、命に代えてもお二人の日常を死守いたします。塵一つ、不浄な輩をこの家に近づけさせぬことを、亡き鉄真様の魂に誓って。……あ、ついでに庭の芝生も完璧に揃えておきます」
シャドは今や、神月木家の「影の守護者兼、超高性能庭師」として定着していた。
セイマはシャドの瞳に宿る、相変わらずの狂気じみた忠誠心を見て苦笑する。
「頼みます、シャドさん。……あ、でも、近所の人の前で消えたり、電柱の上から監視したりするのは控えてくださいね? あくまで『普通』にお願いします」
「ハッ。『普通に消せ』との密命、肝に銘じました。害虫は分子レベルで焼き払い、宇宙の塵へと還しましょう」
「言ってない! そんな物騒なこと言ってないですから! 『普通』の定義を辞書で引いておいてください!」
セイマの絶叫をあとに、プライベートジェットが待機する空港へと向かう高級車が走り出した。
窓の外を流れる見慣れた日本の住宅街。
この退屈で愛おしい風景を、セイマは目に焼き付けるように見つめていた。
とある国際空港。
リナのプライベートジェット『アツィルト・ウィング』の機内は、もはや空飛ぶ超高級ホテルのようだった。
最高級のレザーシート、最高級のペルシャシルク絨毯、そして何よりリナが「マスターに最高の栄養摂取を」と設置した、最新の分子調理器が常備されていた。
セイマはふかふかのシートに深く腰掛け、膝の上で丸くなるコテンを撫でながら、ようやく安堵のため息をついた。
(……東欧まで、十数時間か。この移動中くらいは、静かに量子力学の本でも読んで過ごしたいな。スカルペルもヴェノンもいない、平和な空の上なら……)
セイマはただ、ゆるやかに流れる時間に身を委ねていた。
離陸から約十一時間が経過。
機体が高度一万二千メートルの成層圏を飛行していた――その時。
突如として機内に不吉な赤色灯が回転し、鼓膜を突き刺すような警報音が鳴り響いた。
『警告。大気圏外、静止軌道上より高出力指向性エネルギー兵器の捕捉を検知。回避行動――理論上、不可能です』
AIの無機質な音声が機内に響き渡る。
「なっ……! なに!? 何が起きてるのリナ!?」
「ヴェノン、こちらの動きを察知するのが早すぎる……。マスター、伏せてください!」
リナがコンソールを猛烈な勢いで叩くと同時に、窓の外の世界が太陽が二つになったかのように真っ白に染まった。
宇宙空間に配備されたドクター・ヴェノンの秘密軍事衛星から、極細の太陽表面の温度に匹敵する超高出力レーザービームが掃射されたのだ。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
轟音と共に、機体が激しく傾く。
レーザーは正確に、アツィルト・ウィングの右主翼を付け根から焼き切っていた。
一瞬にして推力を失い、数千億を投じた宮殿のような機体が、炎を吹きながら雲海へと向かってきり揉み状態で落下を始める。
「マスター! 脱出します! ベルナー大尉、準備を!」
「ハッ! 師匠、しっかりお掴まりくだされ!」
リナが床にある「緊急脱出」の金色のレバーを力任せに引くと、キャビンの床が観音開きに割れた。そこから現れたのは、四人乗りの小型マルチコプター型飛行機。
セイマはパニックで意識が飛びそうになりながらも、コテンを抱きかかえてルッツに担がれ、マルチコプターへと放り込まれた。
「射出!!」
リナが叫ぶ。
直後、親機であるジェット機から切り離された脱出用マルチコプターは、爆発的な加速で空へと弾け飛んだ。
背後では、愛読書と大量のプリンを乗せた豪華ジェット機が、巨大な火球となって空へと消えていく。
「お、俺の……俺の本と、母さんのプリンがあぁぁぁ!!」
セイマの魂の叫びは、成層圏に吹き荒れる風の音にかき消された。
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