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第41話:影の執事の不条理な献身 — 掃除される日常 —【前編】

セイマが暮らす地方都市の片隅、その一角だけが近頃おかしなことになっていた。


朝、ゴミ出しに向かった近所の主婦たちは、自分の目を疑った。


昨日まで、どこからか飛んできたボロボロのチラシや空き缶が散乱していたはずの路地裏が、今朝はまるで新築マンションの内覧会場のように、塵一つ落ちていないのだ。


それだけではない。公園のベンチの落書きは跡形もなく消え去り、歩道のタイルにこびりついていたガムの跡さえ、鏡のように磨き上げられていた。


「……なあ、陽葵。うちの近所、最近ちょっと綺麗すぎないか?」


登校前の玄関先で、セイマは首を傾げながら妹に尋ねる。

足元では、コテンが「きゅん?」と小首を傾げ、長い尻尾を黄金比で振っていた。


「お兄ちゃん、掃除当番がサボってるより百倍マシでしょ。……まあ、確かに『不気味なほど』清潔ではあるけど」


陽葵はリナに改造された「EMP(電磁パルス)搭載スマホ」でSNSをチェックしながら、素っ気なく答えた。


セイマは釈然としない思いで門扉に手をかけた――


その瞬間、彼の「因果の視認」が、わずかな違和感を捉える。

門扉の蝶番ちょうつがいから伸びる透明な糸が、不自然なほど滑らかに、摩擦係数ゼロを思わせる軌道を描いて動いたのだ。


(……気のせいか。誰か油を差したのかな?)


セイマがコテンを連れて散歩に出発した――直後。

神月木家の庭のひときわ濃い「木陰」が、陽光に溶け込むようにして、ゆらりと揺れた。



「……ぼっちゃん、本日の寝癖の角度、左30度。優様が焼かれた目玉焼きの半熟加減……完璧でございました。まさに、我が師・鉄真様が愛した『家庭の味』の完全なる継承。私は、影ながらその食卓を護衛いたしました」


木陰の中に潜んでいたのは、一人の男だった。

光を屈折させるステルス・スーツを纏い、気配を完全に消失させたその男――シャド・シグルドは、誰もいない空間に向かって深く敬虔けいけんな礼を捧げていた。


彼にとって、セイマの父・鉄真は「命の恩人」であり、超えるべき「神」であった。


十数年前。

シャドがまだスパイとして死線を潜っていた頃、ある化学プラントの爆発事故に巻き込まれた。


崩落する鉄骨。

死を覚悟した彼の目の前で、たまたま通りかかった作業着姿の鉄真が、手に持っていた重い工具箱を無造作に放り投げた。


その工具箱が、落下する数トンの鉄骨を物理法則を無視したかのような角度で弾き、シャドの命を救ったのだ。


「大丈夫か? 怪我はないか?」


あの時の鉄真の殺気が一切ないなぎのような瞳。

それは、殺意や闘気といった低次元の概念を解脱した者のみが到達できる「無」の極致だと、シャドは確信していた。


「鉄真様の忘れ形見、神月木一家……。あなた様方を汚すゴミは、このシャドがすべて『掃除』いたします。たとえそれが、運命そのものであろうとも」


シャドは音もなく、セイマの影を追って跳躍した。



「よし、コテン。今日はあっちの公園まで行ってみようか」


セイマは、平和そのものの顔でコテンのリードを引いていた。

だが、その散歩コースの先――300メートル離れた雑居ビルの屋上には、死神が潜んでいた。


ドクター・ヴェノンが、コンバット・ドッグの失敗を受けて送り込んだ特A級スナイパー、「サイレント・スパーク」。


彼は、心臓の鼓動を極限まで抑え、大口径の狙撃銃のスコープ越しにセイマの左脚を捉えていた。


「ターゲット確認……。まずは機動力を奪う。……ん?」


スナイパーの視界から、突如として光が消えた。

いや、光が消えたのではない。スコープのレンズの前に、黒い「手袋」が添えられたのだ。


「……ぼっちゃんの散歩道を、泥棒猫のような目で覗くとは。不敬の極み」


「なっ……いつの間に!?」


スナイパーが反射的に腰のナイフに手を伸ばそうとした瞬間、彼の首元には、目視不可能なほど細い、しかし剃刀よりも鋭い「鋼線」が巻き付いていた。


背後に立っていたのは、いつの間にかステルス・スーツを脱ぎ捨て、端正な執事服に身を包んだシャドだった。


「……だ、誰だ貴様は。ヴェノン様の邪魔をする気か!」


「名前など不要。私はただの『掃除人』。……貴様のような害虫は、燃えるゴミに出すのもはばかられる」


シャドの指先がわずかに動く。


「安心しろ。死ぬより辛い場所――私がかつて管理していた極寒の強制労働施設へ送ってやる。ぼっちゃん一家が『今日も平和な街だな』と、濁りのない瞳で微笑み続けるために」


数分後、ビルの屋上には誰の姿もなかった。


ただ、塵一つない床のコンクリートが異常なまでにワックスがけされたかのように輝いているだけだった。

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