第40話:神獣の欠伸 — 庭を覆う悠久の刻 —【後編】
セイマは、目前で空中に固定された機械の怪物に触れようとしたが、直前で手を止める。
彼の周囲に張り巡らされていたはずの真っ黒な「因果の糸」は、いつの間にか、まるで古い蜘蛛の巣のようにボロボロにささくれ立ち、光を失っていた。
彼は、修行で得た感覚を頼りに、その機能を喪失した糸をそっと指先でなぞった。
本来なら響くはずの「因果が切れる音」すらもしない。
世界そのものが、因果律というレールから外れ、別の次元へと漂い出したかのようだった。
その時だ。
「ガ、ギギ……」
静止したはずのコンバット・ドッグの体から、乾いた、嫌な音がした。
三匹の最新鋭ロボット犬の装甲が、あっという間に赤茶色く変色し、ボロボロと剥がれ落ちていく。
内部の電子回路類もショートすることもなく黒ずみ、風化していった。
それはまるで、この数秒の間に、三匹の兵器だけが「千年単位の時間」を強制的に経過させられたかのような、凄まじい風化現象だった。
「……嘘だろ。朽ちていってる……のか?」
「くぅ……ん」
コテンが欠伸を終え、満足げに口を閉じ、再びセイマの腕の中でスヤスヤと寝息を立て始めた。
金色の粒子が空気に溶けて消える。
すると、呪縛が解けたかのように、世界に「時」が戻ってきた。
「————!!」
「ドォォォォン!!」
静止が解除された瞬間の慣性によって、世界が爆発的に動き出す。
リナの電撃が、すでにボロボロの屑鉄と化していたコンバット・ドッグの中央に直撃し、残骸を蒸発させた。
――同時。
ルッツの拳が、風化して脆くなっていた別のドッグの頭部を叩き潰し、それは火花を散らすこともなく、ただの鉄屑となって四散した。
パギィィィン!!
最後に残った一匹の「死の糸」を、セイマが指先で軽く弾くと、それは塵となって風に消えていった。
静寂が、再び庭に戻ってくる。
そこには、三匹の最新兵器の面影はどこにもなかった。
ただ、古びた鉄屑の破片が、庭の芝生に虚しく転がっているだけ。
「マスター……。今の、現象は一体……?」
リナが、震える手で自身のデバイスを確認する。
画面には、エラーログの代わりに、理解不能なグラフが表示されていた。
「ターゲットの可動、および構成物質の『時間的座標』が、一時的に数千年単位で未来へとスキップ……いえ、強制加速させられました。……私の解析が正しければ、この庭のある特定の範囲だけ、宇宙の年齢が数秒で数千年分、老いたことになります」
「……一体何が起こったというのか……!」
ルッツは、塵となった敵の跡に跪き驚愕する。
セイマは、何が起きたのか完全には理解できないまま、自分の腕の中で「しあわせ~」と言わんばかりの寝返りを打つコテンを見下ろした。
(……もしかして、コテン。お前、俺を守るために、時間を……?)
コテンは、そんな主人の深遠な悩みなどどこ吹く風。
満足げにセイマの胸に鼻を押し付け、再び深い眠りへと落ちていく。
その小さな寝息が、激しい戦闘の痕跡——粉砕された縁側の床板など——が残る庭に、皮肉なほど穏やかな日常の空気を連れ戻していった。
その頃、ドクター・ヴェノンの秘密研究所。
壁一面のモニター群には、コンバット・ドッグが最後に受信したデータが赤く点滅していた。
「……接続不能。全機、ロストだと?」
仮面の男、ヴェノンは、椅子から身を乗り出し、不機嫌に喉を鳴らす。
モニターに表示されているのは、最新鋭兵器の無惨な姿。
爆発した形跡もなく、ただ老朽化したかのようにボロボロになった機体の残骸だ。
「スカルペル。説明しろ。私の傑作が、なぜ数分でゴミの山に変わった?」
影から音もなく現れた銀髪の執刀医、スカルペルは、モニターを見つめながら淡々と報告した。
「……原因は特定できません。しかし、観測された現象は一つ。目標地点において、一時的に『エントロピーが増大する速度』が無限大に達しました。……まるで、時間が退屈に耐えかねて、欠伸をしたかのように」
ヴェノンは沈黙する。
その後、彼は不気味に、低く笑い始めた。
「……フフフ、アハハハハ! 素晴らしい! 神月木セイマは、私が理解できない、『不条理』を発生させたというのか。」
ヴェノンは、自身の胸元の装置に触れ、目を細めた。
「……いいだろう。君の能力が驚異であればあるほど、それを私のメスで解剖した時の快感は、最高点に達する。……楽しみだ。神月木セイマ、君の日常を、次はどんな手で彩ってやろうか」
神月木家の庭。
「あらあら、庭が随分と散らかっちゃったわねぇ」
騒動が終わった後、母・優がほうきを持ってのんびりと現れた。
彼女は、砕けた床板や倒れた植木鉢などを見て、困ったように微笑んだ。
「セイマ、お友達と遊ぶのはいいけど、お掃除もしっかり手伝ってね」
「……ごめん、母さん。すぐに直しにかかるよ」
セイマは、リナによって作られた驚異的な修復能力をもつ(はず?)の接着剤を右手に持ちながら、深いため息をついた。
左腕の中では、コテンが相変わらず幸せそうに眠っている。
コテンの小さな欠伸一つで時間は止まり、機械の怪物は塵となった。
「……普通の生活。やっぱり、俺には一生無理なのかな……」
セイマがコテンの頭を優しく撫でると、コテンは寝言のように「コン」と短く鳴き、セイマの指を甘噛みした。
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