第39話:神獣の欠伸 — 庭を覆う悠久の刻 —【前編】
神月木家の日常は、セイマの望む「平凡」とはかけ離れながらも、母・優の圧倒的な天然フィルターを通して、奇妙な安定を保っていた。
そんなあまりにも穏やかな午後のこと。
庭の蝉たちは、命を燃やすようにミンミンと鳴き声を響かせ、遠くで時折、風鈴がチリンと涼しげな音を立てる。
セイマは、その縁側で、膝の上に黄色い毛玉——神獣コテンを乗せ、心地よい時間に身を委ねていた。
「くぅ……すぅ……」
コテンの小さな背中が、呼吸に合わせて規則正しく上下している。
実家でのコテンは、すっかり「ぐうたら神獣」としての地位を確立していた。
セイマがその柔らかい毛並みを撫でると、コテンは夢の中で美味しいお揚げでも食べているのか、幸せそうに鼻を鳴らす。
「平和だなぁ……。因果の糸も見えないふりをしていれば、ただの景色だし……」
セイマが自分に言い聞かせるようにそう呟いた、その時だった。
「…………ッ!?」
セイマの脳内に、針で刺されたような鋭い警告音が響く。
修行によって研ぎ澄まされた彼の五感が、庭の静寂を切り裂く「異物」の気配を察知した。
それは、草木がそよぐ自然な音ではない。
金属が擦れ合い、機械油が熱を帯び、火薬の冷たい匂いが混じり合った、この住宅街には断じて存在してはならない「殺意の結晶」。
「なんだこれ……まさか!」
セイマが顔を上げると同時に、庭の生垣が、まるで巨大な猛獣に食い破られたかのように激しく飛散した。
土煙を上げて現れたのは、三匹の「犬」。
しかし、それは保健所に通報すれば済むような代物ではない。
体躯は大型犬を二回りも上回るほどに肥大化し、全身を鈍色に光る強化チタンの装甲で覆われていた。
露出した筋肉組織からは不気味な青い発光回路が浮き出し、その瞳は赤いセンサーとなって、正確にセイマの心音をロックオンしている。
ドクター・ヴェノンが開発した最新鋭の自律AI兵器——『コンバット・ドッグ』。
「ガァアアアアッ!!」
機械的な合成音声による咆哮が、住宅街の平穏を粉砕する。
三匹の金属獣は、強化された脚部で地面を爆砕し、一斉にセイマへと襲いかかった。
「なにぃぃぃ! 家にいてまで、のんびり昼寝もさせてもらえないのかぁぁぁ!?」
セイマはパニックになりながらも、反射的に膝の上のコテンを抱きかかえ、後方へと転がる。その瞬間、彼が先ほどまで座っていた縁側の床板が、凄まじい爪の一撃で木っ端微塵に粉砕された。
「マスター! 庭の侵入者を検知! 即座に分子レベルでデリートいたします!」
「師匠! ご安心を! このルッツ・ベルナー、一歩も引かぬ肉の壁となりましょう!」
居間の奥から、待ってましたと言わんばかりの速度でリナとルッツが飛び出してきた。
リナは空中でホログラムキーボードを展開する。
「量子分解プログラム、ロード完了! 塵に還りなさい、鉄の屑ども!」
一方のルッツは、丸太のような腕に凄まじい覇気を纏わせた。
「師匠の聖域を汚す輩に、戦士の慈悲など無用! 剛拳・山崩しッ!!」
リナの放つ高出力の電撃が空間を焼き、ルッツの拳が空気を振るわせる。
神月木家の庭は、一瞬にして戦場へと変貌した。
しかし、今回の刺客はこれまでのものとは格が違った。
ドクター・ヴェノンがセイマの「回避能力」を徹底的に解析して送り込んだこのコンバット・ドッグは、リナの電撃を装甲表面の特殊コーティングで受け流し、ルッツの剛拳を予測アルゴリズムによって最小限の被害でいなしていく。
「そんな!? 私のプラズマを回避したというのですか!?」
「ぬぅっ! こやつら、機械ゆえに痛みを恐れぬか!」
二人の精鋭が戸惑う中、三匹目のコンバット・ドッグが、再びセイマへと迫る。
セイマは背中を壁に打ち付け、逃げ場を失っていた。
目の前には、油の匂いを撒き散らす鉄の顎。
赤いセンサーが、セイマの頸動脈を正確に捉えている。
コンバット・ドッグが地面を蹴り、その鋭い牙がセイマの喉元へと突き出された。
セイマの視界には、真っ黒な「死の糸」が、しっかりと見えていた。
彼は左手でコテンを抱きしめ、右手でその絶望的な糸を切断しよう――とした瞬間。
「くぁあぁ……ん……」
セイマの腕の中で、騒ぎなどどこ吹く風でウトウトしていたコテンが、のんびりと、そして大きく、可愛らしい欠伸をした。
その小さな口が大きく開いた瞬間、セイマの瞳には、目に見える形の「光の波紋」が映し出された。
それは金色の粒子を伴った、静かな波。
水面に落ちた一滴の雫が広がるように、その波紋はコテンを中心に、神月木家の庭全体へと音もなく放射される。
刹那——
「————」
世界から、すべての音が消えた。
いや、音だけではない。「動き」そのものが、宇宙という名の映写機を一時停止させたかのように、完全静止していた。
目前に迫っていたコンバット・ドッグは、牙を剥き出しにしたまま、重力に逆らって空中で静止している。飛び散った縁側の木片は、風に舞うことさえ許されず空間に固定されていた。
リナの指先から放たれた青白い電撃は、稲妻の形のままガラス細工のように固まり、ルッツの拳は、敵の頭部に触れるコンマ数ミリ手前でフリーズしていた。
庭の隅で揺れていたひまわりも、空を飛んでいたツバメも、遠くの街路を走っていた車のエンジン音さえも。
すべてが、一枚の精緻な写真の中に閉じ込められたかのように、悠久の沈黙へと沈んでいく。
(え……? なんだこれ……動かない? みんな、止まってる……のか?)
この「静止した世界」の中で、唯一動くことを許されているのは、神月木セイマだけだった。
連載開始から約一カ月がたちました。
なんとか毎日投稿できましたが、それも読者様のおかげだと思っています。
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
また、ブックマーク登録&評価してくださった方、ありがとうございました。
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