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第38話:神獣の晩餐 — カリカリ、ペースト、猪脚 —

神月木家のリビングには、午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。


テレビからは地方ニュースののんびりとした音声が流れ、台所からは母・優が夕飯の仕込みをする小気味よい包丁の音が響く。


この世のどこよりも「平凡」で「平和」なはずのこの空間で、十九歳の大学生、神月木セイマは今、人生初の「おもてなし」に挑んでいた。


「よし、コテン。お前もお腹空いただろう? 今日は奮発して、日本の最高級ドッグフードだぞ」


セイマの手元にあるのは、近所の大型ペットショップで一際輝きを放っていた金色のパッケージ。

その名も『厳選チキンと二十四種の緑黄色野菜・贅沢カリカリ仕立て』。


一袋の値段は、セイマのバイト代数時間分、あるいは母・優がスーパーの特売で一週間分の肉を買い込めるほどの額である。


セイマは、陶器の器にその「贅沢カリカリ」を丁寧に盛り付け、期待に満ちた目で足元の黄色い毛玉——神獣コテンへと差し出した。


「ほら、お食べ。隠れ里での修行、頑張ったもんな~(俺が)」


コテンは、ソファのクッションに顎を乗せ、丸くなっていた。

セイマの差し出した器から漂う、芳醇な肉の香りと厳選野菜のハーモニー。

並の犬であれば狂喜乱舞して食いつくであろう至高の逸品だ。


しかし、コテンは眠たげな瞼をゆっくりと上げると、鼻先を数ミリだけ器に近づけた。


クン、と一度だけ匂いを嗅ぐ。


そして——


「フンッ」


短く、そして明確に拒絶を意味する鼻鳴らしを放った。


それだけではない。


コテンは器用な前足の動きで、その金色の器をズルズルとリビングの端、ゴミ箱の横へと押しやったのだ。

その動作には一点の迷いもなく、むしろ「このような雑物を私の視界に入れるな」という無言の威厳すら感じられる。


コテンは再びセイマの膝の上へとよじ登ると、何事もなかったかのように丸くなり、スヤスヤと寝息を立て始めた。


「……え、食べない? もしかして、チキン派じゃなかったのか? それとも、高級すぎて逆に口に合わなかったとか……?」


セイマは呆然と立ち尽くした。

隠れ里で因果の糸を斬る術まで得た彼だが、目の前の小さな毛玉の食性だけは、未だに完全な「未知」であった。



その光景を、息を殺して凝視している二つの影があった。


一人は、冷蔵庫の横の死角に身を潜め、暗闇の中で眼鏡を青白く発光させている天才科学者、リナ・フォン・シュタイン。


もう一人は、縁側の柱の影に完全に気配を消して(※迷彩服で背景に溶け込んでいるつもりだが、体格が良すぎてバレバレ)、正座のまま身を乗り出しているルッツ・ベルナーだ。


「……やはり。私の予測通りです」


リナが、まるですべてを見通していたかのように冷静な、しかし興奮を隠しきれない声で呟きながら、音もなくセイマの横へとスライドしてきた。


彼女の腕には、いつの間にか最新鋭の多機能デバイスが装着され、空中には幾何学的なホログラムウィンドウが乱舞していた。


「マスター、神獣ともなれば、そのような炭水化物と保存料の塊に興味を示すはずがありません。私のナノマシン解析によれば、コテンが求めているのはタンパク質ではなく『高密度の因果エネルギー』、あるいは多次元宇宙の特異点にのみ発生する、高純度の有機体です」


リナは、懐から一滴の液体も漏らさぬよう厳重に封印された試験管を取り出す。その中には、不気味に七色に輝く、ネバネバとした粘着質の物質が詰まっていた。


「さあ、マスター。私が昨日、徹夜で精製した『合成因果ペースト(プロトタイプ)』を試しましょう。味は概念的なものなので一切しませんが、存在強度は保証します!」



「待たれよ、リナ殿! 神獣には、戦士の魂を宿した供物こそ相応しい!」


「ドォォォン!」 という凄まじい振動と共に、縁側からルッツが飛び込んできた。彼の背後には、どこで捕まえてきたのか、まだ体温が残っていそうな巨大な猪の足が一本、畳の上に無造作に置かれた。


「コテン殿! 自然の猛威をその身に宿し、野生の理を喰らってこそ、真の強者! これを食し、さらなる強靭な肉体、『零式防衛の極致』を手に入れられよ! さあ、遠慮なくかぶりつくがいい!!」


「やめてぇぇぇ!!」


セイマの悲鳴がリビングに響いた。


「ルッツ、畳が血と泥で大惨事……、誰が片付けると思ってるんですか!

リナも因果ペーストって何!? コテンがそんな変なもん食べて、もし体調崩したり、口からリバースしたらどうするの!」


カオスと化したリビング……。


リナは「存在強度が……」と数式を唱え、ルッツは「野生の覇気が……」と猪を指差す。その狂乱の中心で、コテンは情けない声で「くぅ〜ん」と鳴き、セイマの背中の後ろへと震えながら隠れてしまった。


神獣の威厳などどこへやら、今のコテンは完全に「変な人たちに絡まれて困っている迷子の子狐」であった。



「あらあら。随分と賑やかねぇ、みんなで何をしてるのかしら」


戦場と化したリビングに、涼風のような声が届く。

エプロン姿の母・優が、盆にお茶を乗せてのんびりと現れた。


彼女は、畳の上に転がる巨大な猪の足も、試験管内の七色ペーストも、そして血相を変えている息子たちの姿も、すべて「仲の良い遊び」として脳内変換しているようだ。


「コテンちゃん、お腹空いたでしょ? さっきお買い物に行ったら、お揚げが安かったから、甘辛く煮ておいたわよ。はい、どうぞ」


優は、猪の足の横を悠然と通り過ぎると、コテンの鼻先に一つの小皿を置いた。


そこに乗っていたのは、至って普通の、家庭の冷蔵庫にいつでもある「油揚げ」の煮付けだった。醤油と砂糖の香りがふんわりと漂う、あまりにも庶民的な一品。


「……母さん、コテンは一応キツネっぽい見た目だけど、さすがにそんな普通の油揚げに満足するはずが——」


セイマが言いかけた、その時だった。


「くんっ!!」


コテンの瞳が、かつてないほどの黄金色の輝きを放った。

先ほどまでリナやルッツに怯えていたのが嘘のように、コテンは猛烈な勢いで優の差し出した皿に飛びつく。


ハフハフ、モグモグ。


短い口吻を一生懸命に動かし、甘辛い煮汁が染み込んだお揚げを、一心不乱に頬張り始めたのである。


一瞬で皿は空になった。


コテンは満足げにぺろりと舌を出して口の周りを舐めると、バタバタバタ! と、その尻尾を激しく振り始めた。

その軌道は、リナがかつて解析した「黄金比」をさらに超越した美しさであった。


「……食べた。完食した。しかも、ドッグフードの時とは比較にならないほど、魂の底から喜んでいる……」


セイマは呆然と呟いた。

リナのデバイスからは「計測不能の幸福波動ハッピー・バイブス」が検出され、警告音が鳴り響いている。


「ふふ、やっぱり狐ちゃんはお揚げが好きよねぇ。よかったわ」


優は、満足そうにお腹を上にして寝転がったコテンの腹を、優しく撫でた。


「神獣」の腹をこれほどまで無防備に晒させ、なおかつ究極の充足感を与える。

その光景を前に、世界屈指の天才科学者と最強軍人は、魂を抜かれたように立ち尽くしていた。


「……信じられません。私の理論計算では、醤油に含まれる塩分と砂糖のショ糖結合は、神獣の因果代謝に寄与しないどころか、ノイズになるはず……。なぜ、多次元ペーストを上回る反応を……?」


リナが、自身の存在意義を疑うかのように呟く。


「……まさか。優殿のあの煮付けには、私が感知できない『無意識の覇気』、あるいは『母性の絶対領域マザーズ・フィールド』が込められているのですか……!? あれこそが、究極の対・神獣兵器……!」


ルッツが、猪の足を抱えたまま戦慄の表情で冷や汗を流す。


(……二人とも大げさすぎ。ただの安い醤油と砂糖だよ……)


セイマは、幸せそうに「コン……」と寝言を言うコテンを見つめた。


最高級のドッグフードでも、未来の科学の粋を集めたペーストでも、戦士の魂を宿した野生の肉でもない。「神獣」を、わずか数十円の特売品と家庭の味付けだけで完全に手なずけてしまう存在。


やはり、この神月木家において、いや、この地球において最強の存在は、リビングの片隅で「さて、夕飯は何にしようかしらねぇ」と悩んでいる母・優であることを、セイマは再認識した。


「……よかったな、コテン。変なもん食べさせられなくて」


セイマは苦笑しながら、コテンの柔らかい耳を指でなでた。

コテンは「きゅぅん」と短く喉を鳴らすと、深い夢の中へと落ちていった。

お読みいただき、ありがとうございます!


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