うしろの間 第2話
家は町の外れにあった。
海から少し離れた、低い山の斜面に張りつくように建っている。細い坂道の突き当たり、雑草に埋もれかけた石段の上に、黒ずんだ瓦屋根が見えた。門柱には表札がなく、代わりにひび割れた石灯籠が左右に立っている。敷地を囲む土塀はところどころ崩れ、庭木は枝を好き勝手に伸ばしていた。
子供のころ、この家はもっと大きかった気がした。
実際には平屋と二階部分が複雑につながった、横に長い日本家屋だった。増築を繰り返したのか、廊下や縁側が不自然な角度で折れ曲がっている。玄関の庇の下は昼間なのに薄暗く、ガラス戸の向こうがまったく見えない。
「鍵、役場から預かっとる」
男はポケットから古い真鍮の鍵を取り出した。渡しながら、少しだけ声を落とす。
「今夜、雨になる。戸締まりはきっちりしとけ」
「はい」
「それから──」
男は家の奥、二階のある側をちらりと見た。
「夜中に、廊下の奥から呼ばれても返事するな」
俺は思わず笑いかけた。冗談だと思ったからだ。だが男はまったく笑っていなかった。
「誰に、ですか」
「誰でもや」
それだけ言うと、男は軽トラックに乗り込み、バックもせず器用に車を切り返して坂を下っていった。エンジン音が遠ざかると、あたりは妙に静かになった。蝉も鳴いていない。ただ、海のほうから湿った風が吹いて、庭の木の葉をざわつかせている。
俺はしばらく門の前に立ち尽くした。
帰ろうと思えば、まだ帰れた。駅前の安いビジネスホテルに泊まって、翌朝、役場に行って手続きだけ済ませることもできたはずだ。だが、そうしなかったのは、ここまで来て家の中を見ないのも気味が悪かったからだし、母があそこまで言葉を濁した理由も少し気になっていたからだ。
石段を上がり、玄関の鍵を差し込む。
鍵穴は固く、二度目でようやく回った。
戸を開けた瞬間、ひんやりした空気が流れ出てきた。
外は蒸し暑いのに、家の中だけが妙に冷えている。長いあいだ締め切られていた家特有の、畳と木と黴の匂い。その奥に、わずかに線香の残り香が混じっていた。
「……失礼します」
言ってから、誰に対しての挨拶なのかわからなくなった。
玄関のたたきには、祖母のものと思われる古いサンダルが揃えてあり、その横に見覚えのない男物の草履が一足あった。泥の乾いた跡がついている。役場の人間か、近所の誰かが来たのだろうと自分に言い聞かせたが、なぜかそれが嫌に目についた。
廊下は暗かった。雨戸が半分閉められているせいで、昼の光が十分に入ってこない。左手に仏間、右手に客間、さらに奥へ台所と居間が続いている。床板は歩くたびに小さく軋んだ。
居間の座卓の上には、湯呑みが二つ置かれていた。
一つは伏せられ、もう一つは中に茶色い液体が少しだけ残っている。表面に白い膜が張っていた。数日前に祖母が飲みかけたものかもしれない。だが、二つあることが気になった。祖母は一人暮らしだったはずだ。
座卓の脇には古い固定電話。壁には止まった柱時計。隅に置かれたブラウン管テレビの上には、黄ばんだレース布がかかっている。生活のすべてが、ある時点で時間ごと切り取られ、そのまま腐らず残っているようだった。
俺は荷物を居間に置き、ひとまず家の中を見て回ることにした。
風呂場、洗面所、納戸、仏間。どこも古びてはいるが、極端に荒れてはいない。祖母は一人で、かなりきちんと暮らしていたらしい。冷蔵庫には漬物と卵、使いかけの味噌、賞味期限の切れた豆腐が入っていた。流しには洗いかけの茶碗が一枚だけ伏せてある。
不自然なのは、家の造りだった。
廊下が妙に長いのだ。
外から見た印象より、家の内部が広い。居間から仏間までの距離、台所から裏口までの距離、そして何より、玄関から奥へ延びる廊下が、途中で二度折れ曲がっている。増築のせいだと思えば説明はつく。だが歩いていると、空間の繋がり方がどこか変だった。外から見れば壁の向こうは庭のはずなのに、内側にはさらに廊下が続いているような感覚がある。
子供のころ、この家で迷った記憶がある。
夜中、トイレに行こうとして廊下を歩き、同じ場所をぐるぐる回った気がした。泣きそうになっていた俺を、祖母が無言で抱き上げて部屋に連れ戻した。翌朝その話をすると、祖母は「夜は廊下を数えたらいけん」とだけ言った。
そんなことを、今になって思い出した。
奥の突き当たりに、急な階段があった。母が電話で言っていた「二階の奥」は、たぶんここだ。階段の途中から上は暗く、窓もないらしい。見上げると、黒い穴が口を開けているように見えた。
行くなと言われた場所ほど、気になる。
けれどその前に、祖母の部屋を探そうと思った。
階段の手前の襖を開けると、六畳の和室だった。床の間に古い掛け軸、壁際に桐箪笥、部屋の中央に布団が一組。枕元の小さな棚には老眼鏡と常備薬、湯呑み、そして大学ノートが三冊積んである。表紙には、祖母の字で日付が書かれていた。
六月一日。六月四日。六月九日。
日記だろうか。
俺は一番上の六月九日のノートを手に取った。表紙は湿気で少し波打っている。中を開くと、予想していたような日記ではなかった。
一ページ目に、同じ文がびっしりと並んでいた。
みてはいけない みてはいけない みてはいけない みてはいけない
ボールペンで、行を変えながら、何十回も何百回も書かれている。字は祖母のものに似ていたが、途中から筆圧が乱れ、最後のほうは線が紙を破りそうなほど強くなっていた。
次のページには、別の文。
うしろの間をあけるな
その下に、あれは孫を知っていると書かれていた。
背中に、じわりと汗が滲んだ。
誰かが悪趣味ないたずらで書いた、という感じではない。書き手は本気で怯えている。紙に残った圧だけで、それがわかる。
さらにページをめくる。
夜になると歩く
戸をしめても歩く
声をまねる
母親の声も使う
振り向いたら入ってくる
最後のページには、震えた字でたった一行だけ、もう一つの階段を思い出したとあった。
その瞬間、家のどこかで、コトンと音がした。
小さな、木の何かが当たるような音。
俺は顔を上げた。
廊下のほうだ。
耳を澄ます。何も聞こえない。風の音も、家鳴りもない。だが確かに今、すぐ近くで何かが動いた。
「……猫か?」
自分の声が、思ったより小さかった。
ノートを閉じ、立ち上がる。襖を少しだけ開けて廊下を覗くと、薄暗い板張りの先に、階段が見える。その下に置かれた古い電話台の上で、黒電話の受話器が床に落ちていた。
さっき見たとき、受話器はちゃんと本体に乗っていたはずだ。
俺は廊下へ出た。
受話器のコードが、だらりと床を這っている。足元まで来ると、受話器の口の部分から、かすかな雑音が漏れているのがわかった。ザー……ザー……という、海鳴りみたいなノイズだ。
拾い上げようとして、手が止まった。
雑音の奥に、何かが混じっていた。
息。
誰かが、受話器の向こうで、ゆっくり息をしている。
ひゅう、ひゅう、と湿った呼吸音がして、その合間に、ごく小さな声が聞こえた。
『……まさき』
俺の名前だった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




