うしろの間 第3話
全身の毛が逆立った。
受話器を取り落としそうになりながら耳を離す。だが次の瞬間、今度は背後──つまり、さっきまでいた祖母の部屋の中から、同じ声がした。
「正樹」
母の声だった。
はっきりと、聞き慣れた母の声で。
「二階の奥には入らないで」
俺は凍りついた。
部屋の中に、誰かいる。
ゆっくり振り返ると、襖が半分ほど開いていて、その暗がりの向こうに、布団が見えた。枕元の棚も、桐箪笥も、さっきのままだ。人影は見えない。
それでも、確かに今、部屋の中から声がした。
「正樹」
「……誰だ」
喉が張りついて、まともに声が出ない。
返事はなかった。
代わりに、トン、と二階の上で音がした。
階段の真上。誰かが一歩だけ歩いたような音。
続いて、トン。
トン、トン、トン。
ゆっくり、一定の間隔で、何かが階段を下りてくる。
だがおかしい。階段は視界に入っている。誰もいない。暗い段が上まで続いているだけだ。なのに足音だけが、一段ずつ確実にこちらへ近づいてくる。
トン。
トン。
トン。
階段の途中まで来たところで、足音が止まった。
沈黙。
家全体が息を潜めたみたいに静まり返る。
俺は電話の受話器を持ったまま、廊下の真ん中で固まっていた。逃げるなら今だ。玄関はすぐそこにある。だが足が動かない。階段の上の暗闇から、何かがこちらを見下ろしている気がした。
そのとき、受話器の向こうで、祖母の声がした。
『見るな』
今度ははっきり、祖母の声だった。
『正樹、そこから上を見るな』
俺は反射的に視線を伏せた。
同時に、頭上すれすれを、何か長いものがさっと横切る気配がした。
髪の毛が頬に触れたような、湿った感触。
思わず悲鳴を上げて後ずさる。受話器が床に落ち、激しい雑音を立てた。廊下の板が軋み、足がもつれて尻もちをつく。その拍子に視線が上がりかけたが、祖母の言葉が頭に刺さって、俺は必死で顔を伏せた。
見てはいけない。
何を?
わからない。だが、見たら終わる、という確信だけがあった。
やがて、階段のあたりから、何かが這いずるような音が遠ざかっていった。上へ戻ったのか、廊下の奥へ消えたのか、それもわからない。数分、あるいは数十分、俺はそのまま動けなかった。
外でようやく風が鳴り、庭木がざわめいた。
その音で、少しだけ現実に引き戻された。
震える手でスマホを取り出し、時刻を確認する。午後四時四十七分。圏外ではない。母に電話しようとして、やめた。こんな話をしても、まともに取り合ってもらえる気がしない。
代わりに、役場から教えられていた番号にかけた。
数コールで、あの女が出た。
「はい、まぜの丘町役場です」
「あの、高槻です。今、家に着いたんですけど……」
「はい」
「この家、誰か来てますか」
「いいえ。鍵は一つしかありませんし、今日はどなたも伺っていないはずですが」
「じゃあ、祖母の家に男物の草履があったのは?」
「草履、ですか」
女は少し黙った。
「……もしかすると、松浦さんかもしれません」
「誰です?」
「近所の方です。おばあさまの様子を見に行ってくださっていたので」
あの軽トラックの男だろうか。だがサイズの大きい、泥のついた草履は、漁師の男物というより、もっと古い和装のものに見えた。
「それと、二階って……」
「高槻さん」
女の声が急に硬くなった。
「今夜は、できれば一階の部屋だけ使ってください」
「何なんですか、この家」
「明日の朝、私がそちらへ伺います。ですから今日は、絶対に二階へ上がらないでください」
「だから、何なんですかって」
「おばあさまから、何か聞いていませんか」
聞いていない。聞いていたら、そもそも来ていない。
俺が答えないでいると、女は受話器の向こうで、ほとんど囁くように言った。
「高槻の家には、昔から**“うしろの間”**があるんです」
「うしろの間?」
「家の図面にはない部屋です。見つけても、開けないでください」
ぞっとした。
「……図面にないって、どういう」
「昔、この町では、死んだ人をすぐには外へ出さない家がありました。夜のあいだだけ、家の奥に留めるんです。送り出すまでの仮の部屋として。高槻家は、その役目を代々引き受けていたと聞いています」
女はそこで言葉を切った。
「でも、今はもう使われていないはずでした。おばあさまの代で終わったと、みんな思っていたんです」
「……使うって、何を」
返事は、すぐにはなかった。
その代わり、家の奥──俺の背後の、折れ曲がった廊下のさらに向こうから、襖がゆっくり開く音がした。
すう、と紙が擦れる、長い音。
電話口の女も、それを聞いたのかもしれない。
「高槻さん」
「……はい」
「今、家のどこにいますか」
「廊下です」
「後ろを見ないで、そのまま玄関まで戻ってください」
「何が──」
「いいから!」
女が初めて怒鳴った。
「振り返らないでください。廊下の角を曲がるまで、絶対に。もし後ろからおばあさまの声がしても、誰かが泣いていても、足音がしても、振り返らないでください。玄関の外に出たら、塩があれば撒いて、今夜は宿を取ってください。家には戻らないで」
そのときだった。
俺のすぐ後ろ、首筋に息がかかるほど近い距離で、祖母の声がした。
「正樹」
耳元で囁くみたいに、やわらかく。
「今、振り向けば助かるよ」
電話口で女が何か叫んでいたが、もう聞こえなかった。
首の後ろに、冷たい指が一本、そっと触れた。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




