うしろの間 第4話
首筋に触れた指は、ひどく冷たかった。
生きた人間の手の冷たさじゃない。水に長く浸かっていたものを、いきなり皮膚に押し当てられたような冷え方だった。細く、骨ばっていて、けれど力は意外なほど強い。その一本の指が、俺の首の後ろをなぞるようにゆっくり動いた。
電話口で、役場の女が何か叫んでいる。
振り返るな、と言っているのだと頭ではわかっていた。だが、体は別の命令に引っ張られていた。首筋に触れたその指を確かめたくなる。背後に立っている“何か”の正体を見たくなる。見なければ、そこに本当にいるのかどうかさえわからない。視界の外にあるものほど、人間を強く支配するものはない。
振り向きたい。
そう思った瞬間、受話器の向こうから、女の声とは別の声が聞こえた。
『まさき』
祖母の声だった。今度は耳元ではなく、電話の奥から、ひどく遠い場所を通って届くみたいに掠れている。
『下を見て歩け。角まで行け。走るな』
俺は反射的に、床に視線を落とした。
古い板張りの廊下。ところどころ黒ずみ、木目に沿って細かなひびが入っている。そこに、俺のスニーカーのつま先と、落とした受話器、それから──俺の足のすぐ後ろに、裸足の足先が見えた。
女のものらしい、小さな足だった。
白いというより、灰色がかって見える。爪が異様に長く、畳の繊維みたいな汚れがこびりついていた。足首から上は、廊下の暗がりに紛れてよく見えない。ただ、その足が、俺のすぐ後ろにぴたりと寄り添うように立っている。
息が止まりそうになった。
『歩け』
祖母の声が、受話器の向こうでまた言った。
俺は床だけを見たまま、一歩踏み出した。足がうまく動かず、膝が笑う。廊下の板がぎしりと鳴る。その瞬間、背後の足音も一歩だけついてきた。
ぺたり。
裸足が床に貼りつくような、湿った音。
もう一歩。
ぺたり。
角までは十歩もない。なのに、廊下が信じられないほど長く感じる。視界の端で、壁に掛かった祖父の遺影が揺れたように見えた。電話台の下に置かれた新聞の束。廊下の隅に積まれた座布団。全部が普段より少しだけ大きく、少しだけ歪んで見える。
ぺたり。
ぺたり。
首筋に触れていた指は、まだ離れない。爪の先が皮膚をかすめるたび、吐き気がこみ上げる。もしここで走ったら、たぶん何かが起きる。理屈ではなく、そう思った。
廊下の角に差しかかったとき、右手の襖の向こうから、子供の笑い声が聞こえた。
高い声で、くすくすと笑っている。
俺はその部屋を知っている気がした。子供のころ、客間として使われていた部屋だ。押し入れの中に古い双六や紙風船がしまってあって、祖母が昼寝をしている間、そこで一人遊んだことがある。あの笑い声は、そのころの自分自身の声に似ていた。
『見ちゃいけん』
今度は電話ではなく、記憶の中の祖母がそう言った。
俺は角を曲がった。玄関まで一直線の廊下が見える。外から差し込む薄い光が、たたきのあたりをぼんやり照らしていた。あそこまで行けばいい。靴を履いて、外へ出る。それだけだ。
そのとき、背後でふっと気配が離れた。
指が首から消え、裸足の音も止まる。助かった、と思いかけた瞬間、今度は家の奥、つまり俺がこれから通らなければならない玄関の方向から、とん、とん、とんと足音がした。
廊下の向こうから、誰かがこちらへ歩いてくる。
視線を上げなくてもわかった。玄関の前に、何かが立っている。薄暗い逆光の中、長い髪の影が垂れているのが見える。白っぽい着物の裾。細い肩。女だ。だが、さっき後ろにいたものと同じなのか、それとも別なのか、わからない。
「……っ」
喉の奥で声にならない音が漏れた。
『止まるな』
祖母の声がした。
『あれは家の中のものや。外へは出られん』
信じるしかなかった。俺は廊下の中央を、玄関のほうへ歩き続けた。正面の女の影は、微動だにしない。近づくほど輪郭がはっきりする。髪は濡れたみたいに束になり、顔を半分隠している。顔色は青白いを通り越して土気色で、口元だけが不自然に赤い。着物の裾は泥で汚れ、右足を少し引きずっていた。
祖母ではない。
知らない女だった。
年齢もわからない。二十代にも、五十代にも見える。目だけが異様に大きく、黒目がちで、まばたきをしない。その目が、まっすぐ俺を見ていた。
玄関まで、あと五歩。
女は動かない。
あと四歩。
女の首が、ぎぎ、と音を立てそうなほど不自然に傾いた。
あと三歩。
女の唇が、ゆっくり開く。
「どうして」
掠れた声だった。潮風にさらされた木みたいにざらついた声。
「どうして、おまえだけ外へ出る」
俺は返事をしなかった。いや、できなかった。声を出したら終わる気がした。
あと二歩。
女の両腕が、だらりと持ち上がる。袖口から覗いた手は、骨と皮だけみたいに痩せていた。爪の間に黒い土が詰まっている。女は笑っていた。口角だけが不自然に裂けるように上がり、目はまったく笑っていない。
「高槻のくせに」
その瞬間、玄関の外で雷が鳴った。
家全体がびり、と震え、同時に廊下の照明が一瞬だけ明滅した。いや、この家に照明は点いていなかったはずだ。なのに、青白い稲光が家の中を照らし、女の姿をはっきりと浮かび上がらせた。
女の腹が、縦に裂けていた。
着物の前が胸元から下までぱっくり開き、その奥にあるはずの臓物の代わりに、黒い空洞が口を開けている。空洞の中で何かが蠢いた。人の指のようなものが、何本も内側から這い回っている。
俺は見てしまった。
次の瞬間、祖母の声が怒鳴った。
『走れ!』
足が勝手に動いた。女に向かって突っ込むような形になるのに、一瞬ためらう。だが女のほうが、俺を掴もうとして一歩踏み出した。その右足が床に着くより早く、俺は脇をすり抜けた。
女の指先が肩に触れた。服の上からでもわかるほど冷たかった。爪がシャツに引っかかり、背中が引かれる。転びかけながら玄関のたたきへ飛び込み、靴を引っ掴む。まともに履く余裕はない。片足をつっかけたまま戸を開け、石段へ転がり出た。
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